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開拓記念碑調査事業

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北海道・東北地方

宮城県

宮城県大崎市鳴子・上原開拓

拓魂碑と畜魂碑
宮城県の北西部、上原(うわはら)開拓地は、大崎市の(旧)鳴子町・岩出町、栗原市の(旧)一白町・花山村の4地区にまたがっている。同開拓地は、軍馬を育成する「陸軍軍馬補充部」の跡地が中心だった。1946(昭和21)~48年、緊急開拓事業により外地引揚者102戸が入植し、地元増反者や元・軍馬補充部従業員を加え、計229戸の大開拓地となった。
奥羽山系に連なる標高約300㍍の高台地。原野、山林を鍬による手起こしで開墾した。火山灰土壌で酸性吸収度高く、土地生産性が低い土質だった。高冷開拓地のため、度重なる苦難があった。ようやく開墾が進み、食糧増産に励んだが、53~57年の冷害で大きく挫折した。
それを機に、主穀経営から酪農経営への転換を目標とした。国の振興対策などで次第に発展。現在、県を代表する酪農専業地域となっている。
上原開拓農協(75年解散)の事務所は鳴子町にあった。開拓記念碑が、入植35周年の83(昭和58)年に建立された。碑銘は「拓碑」で、碑文は「雲が流れる 緑が広がる 三十五年の労苦を経て 今上原は逞しく生きる」となっている。すぐ近くに、畜魂碑も建立されている。

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11月:宮城・鳴子

上原開拓
開拓記念碑 拓魂
宮城県知事 山本壮一郎 書
昭和五十八年三月吉日建之

(碑文)
雲が流れる
緑が広がる
三十五年の労苦を経て
今上原は逞しく生きる
文 鳴子町長 寺坂二男

山形県

山形県金山町開拓

アクセス

拓魂不滅
山形県には、45(昭和20)年~47年だけでも引揚者、戦災者ら約3300戸が入植した。北東部の最上郡金山町(かねやままち)長野開拓地には、47年に満州開拓団の引揚者22戸が入植し、再び開拓に打ち込んだ。
標高150㍍の丘陵地で、強酸性土壌だった。根雪期間が長い地区でもあった。入植者は当初、仮設施設で共同生活を営み、開墾を始めた。豆類、バレイショ、ソバなどの栽培に取り組んだ。
やがて開墾が進み、住宅も建ち、53年にはようやく電気が導入された。しかし、53~55年、3年連続で冷害などの自然災害に襲われ、大打撃を受けた。それでも開拓者は希望を失わず、営農を定着させた。
現在、営農を行っているのは11戸となったが、畑作や葉タバコ栽培などで、農産物を安定的に生産している。
77(昭和52)年、町内四つの開拓組合(計41戸)の開拓記念碑が建立された。碑銘は「拓魂不滅」で、困難を乗り越えた開拓の歴史のシンボルとなっている。裏には、まず「金山町開拓事業完了記念」とあり、歴代組合長と入植者の氏名が刻まれている。
山形県は、長野県に次ぐ満州移民送出県だった。金山町には、戦時中、16~19歳の青少年を開拓民として送り出す「満蒙開拓青少年義勇軍」の訓練農場があった。その跡地に、教室・寄宿舎として使われた「日輪舎(にちりんしゃ)」が現存している。円形で屋根は円錐形の独特な木造建物。2階建てで大きく、最大80人収容できた。現在は、イベント会場や体験農場の場となっている。

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8月:山形・金山町

長野地区記念碑
①位 置 最上郡金山町朴山(38°53'01.1"N 140°17'18.8"E)
②設置者 金山町農業協同組合
③設置日 昭和53年5月
④碑文表 拓魂不滅 山形県議会議員 岸田一郎
⑤碑文裏 金山町開拓事業完了記念 歴代組合長、入植者氏名
⑥当該地区の沿革等(金山町広報紙584号2011年8月より抜粋引用)

昭和二十二年に満州開拓団からの引揚者で、西村山郡出身者を 始めとする方々が入植し、この地を開拓した。
当初は、入植者全員が「食・住」を共にし、仮屋の建設に始まり、昭和二十八年にようやく農地の整備が一段落したが、当時三年続いた冷害と干害により大凶作に見舞われ、住民を苦しめた。
また、酸性度が強い地質のため、堆肥などの投入により土壌改 良を余儀なくされたが、努力の結果、葉タバコ栽培や養蚕に取り組み、安定した農業経営の出来る耕地を作ることが出来た。
そして、昭和四十四年に開田事業により、稲作を中心とした農 業経営に移り変わった。入植時、二十二世帯だった戸数も六十年を経て、現在は、十一世帯となった。

秋田県

秋田県能代市・東雲原開拓

アクセス

拓魂碑
戦後開拓地は、農耕の対象外だった山間僻地や軍用跡地が多かった。
秋田県能代市の東雲原(しののめはら)開拓地は元陸軍飛行場跡地で、1946(昭和21)年、引揚者・戦災者等144戸が入植した。内訳は、東雲開拓110戸、拓友開拓34戸。
不毛の原野で開拓者は、開墾に懸命の努力を続けた。開拓当初は畑作だったが、経営が不安定なため、水田化を目指した。入植から約25年でようやく、畑地が水田となった。複合で酪農、肉用牛などの畜産や野菜を組み入れた経営も増えた。
現在、水稲を中心とした営農が展開され、規模の大きさから、県内では重要な食糧基地となっている。
開拓記念碑は入植25周年記念事業として、71年に東雲・拓友入植者一同が建立したもので、碑銘は「拓魂碑」。50周年記念事業では、隣接して「平和祈念碑」が建立された。
拓魂碑の碑文には、「開拓者は徒手(としゅ)空拳(くうけん)で過酷な労働に直面し、暗い流汗と苦渋に満ちた開拓史の中で志半ばにして物故した者、或いは離農のやむなきに至った者等、その数決して尠しとしない」とあり、大変な苦労がうかがい知れる。

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7月:秋田・東雲原

東雲拓友開拓
碑文 拓魂碑 揮毫 秋田県知事 小畑 勇二郎
開拓は戦後荒廃と困苦の中に、祖国再建の国策として実施され、此の国家的要請に応じて東雲原に入植した開拓者は一四五戸であった。其の多くは海外引揚者、被戦災者、復員者等でその土地も僻遠不毛の地で、営農と生活の基盤は皆無に等しい状態であった。
由来開拓は農業の創造的事業でありその推進には適切な施策を要する事は言は俟たないが、戦後必然的に発足した開拓にはその余裕がなく、開拓者は徒手空拳で過酷な労働に直面し、暗い流汗と苦渋に満ちた開拓史の中で志半ばにして物故した者、あるいは離農のやむなきに至った者等、その数決して尠しとしない。それにも拘わらず不撓の精進を続け今漸くその成果をみるに至った。
顧みれば草創以来既に二十有五星霜。嘗ての荒野は今や整斉とした四百五十余町歩の沃土と化し、現存する百二十五戸の同志は益々団結を強め模範的経営者として亦団体として、農林大臣賞の栄に浴した事は我等開拓者の努力の賜と聊か自負するところである。
茲に東雲原開拓者は入植二十五周年を記念し、更に今後の躍進を期する為拓魂不滅を信じて碑を建立するものである。

昭和四十六年十一月吉辰
東雲拓友 開拓入植者一同建之

関東地方

群馬県

群馬県利根郡昭和村 「赤城原 開拓記念碑」

赤城原 開拓記念碑
群馬県北部の利根郡昭和村は農業が盛んで、レタスやハクサイ、ホウレンソウなど高原野菜の産地。その中心地が赤城高原開拓地だ。
赤城山の北麓の同開拓地は、旧陸軍の演習地だった。標高400~800㍍の高冷地帯。飲料水を得ることすら困難な未墾地だった。開拓者は主に手作業で開墾した。晩霜害や集中豪雨などの自然災害が多かった。また、火山灰土壌で軽石が多く、干ばつ害を受けやすかった。厳しい自然条件下で、作物は思うように育たなかった。
入植当初は雑穀類の生産だったが、ようやく畑地かんがい施設が完成し、1965(昭和40)年代、野菜専業に転換。生産量が年ごとに増加し、高原野菜の供給基地となった。
赤城原地区に赤城開拓農協、追分地区に赤城高原開拓農協があった。関越自動車道の昭和インターを降りて、5分位の所に開拓記念碑がある。赤城開拓農協が84(昭和59)年に建立したもので、碑銘は「赤城原 開拓記念碑」。隣に碑銘板があり、開拓期のあらましが記されている。
46(昭和21)年4月から52年4月までに89戸が入植。碑文には「この荒野に樹木を伐採してカヤ葺の掘立小屋を造り大きな木の切り株やカヤ株等の抜根に悪戦苦闘し現在の機械化と違って一鍬一鍬の開墾は実に血と汗の結晶であった」と、困難に立ち向かった状況が刻まれている。

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1月:群馬・赤城原

赤城原開拓記念碑
①位 置 群馬県昭和村
②設置者 入植者
③設置日 昭和59年6月
④碑文表 赤城原

開拓記念碑
群馬県議会議長 元県開拓連会長 高島照治 謹書

副 碑 開拓碑建立の由来
昭和二十年八月 吾が日本は大東亜戦争に敗れ都市の大半は焦土と化し農村は極度に疲弊し猶且戦災者復員軍人或は海外引揚者等でこの狭き国土は有史以来未曾有の大混乱に落ち入った
この時国策による緊急開拓事業が施行されここ赤城山西北麓の旧陸軍演習場であった原野の一角に昭和二十一年四月第一次入植者として帰農した者六十四名引き続き第二第三次入植者は昭和二十七年四月迄に二十五名になった
入植後久呂保就農組合 利根開拓連合協同組合久呂保支部と変遷があったが昭和二十五年五月政令により赤城開拓農業協同組合が誕生して開拓組織の団結と地域農業の振興が打ち出された
この荒野に樹木を伐採してカヤ葺の掘立小屋を造り大きな木の切り株やカヤ株等の抜根に悪戦苦闘し現在の機械化と違って一鍬一鍬の開墾は実に血と汗の結晶であった
時には冷害或は旱魃又は台風害等幾多の試練と苦難を乗り越え乗り越えて従来の雑穀農業より畜産経営へ或は酪農蔬菜経営と大きく移行し現在では既存農家に優るとも劣らぬ程の立派な経営と成果を挙げる迄に至ったのである
又水一滴さえ無きこの里へ竹樋から水道を 農地には吾が国初の畑灌漑を 薄暗きランプ生活から煌々たる電灯を掘立小屋から近代的住宅にガタガタ農道は舗装されて漸く一般社会の生活に伍する程になった
この間開拓の志し空しく離農した者十余名又不幸にして病魔に倒れた物故者二十一名を数える風雪の三十八年を迎え開拓行政の終焉と共に一般行政へ移行し名誉ある開拓農協の発展的解散を行うに当り茲に記念碑を建立しこの地永遠の平和と繁栄心より祈念するものである

千葉県

千葉県四街道市・鹿放ヶ丘開拓 「生命乃開花」

生命乃開花
千葉県の戦後開拓地は、旧軍用地が多かった。千葉市、四街道市、佐倉市にまたがる広大な「下志津原」は旧陸軍の演習地だった。
1945(昭和20)年の終戦直後、戦災者や復員兵が入植し、下志津原開拓団が結成された。
その中心部(四街道市)に、茨城県内原町(現・水戸市)にあった「満蒙開拓青少年義勇軍訓練所基幹学校」の生徒約170人が入植した。
翌年、開拓団から独立した。47年に地区名を、江戸時代に鹿狩りが行われていたことにちなみ、鹿放ヶ丘(ろっぽうがおか)と命名。48年には鹿放ヶ丘農苑開拓農協を設立した。
同開拓地は荒野で農業用地として適していなかった。
一見、平坦に見えても長雨や強風などの自然災害が多く、初期の開拓は困難を極めた。
災害克服のため、共同作業でかんがい施設や防風林などを設けた。
51年には住宅を建設し、同訓練所の延長のようだった共同経営から個人経営に移り始めた。
強い団結力で共同作業を継続し、経営の確立をめざした。
その後、開拓農協は総合農協と合併。現在、都市近郊(千葉市から北へ約7㌔)の同開拓地では、後継者が酪農、養鶏などの畜産、落花生、野菜中心の畑作を営んでいる。
開拓記念碑は、70年の鹿放ヶ丘開拓25周年記念行事で、業績を後世に伝えるものとして建立された。
碑文は「生命乃開花」と25年の歩みの説明書き。裏面には、組合員及び賛同者の氏名が刻まれている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

12月:千葉・鹿放ヶ丘

生命乃開花
我等は当時の国策に添い満州開拓の志をたてて、茨城県内原の満蒙開拓青少年義勇軍訓練所に入所し、所長加藤完治先生の薫陶をうけたが、昭和二十年八月十五日大東亜戦争の終結を機に内地開拓に転換し、軍用地下志津原の一画二百六十余ヘクタールの荒野に入植した。内原以来の指導者高井篤先生を中心に、当時十五才から十八才の青少年が主体となり、外に引揚外地開拓者及び縁故者が加わった。
発足時は全共同経営で軍用牽引車、馬を駆使して開墾営農を進めると共に乳牛豚鶏を導入し、畜舎仮宿舎庫を建て農産加工製造販売等に至るまで、漸く事業の進捗を見た。さりながら混沌とした世情と極度に物資の欠乏している際の開拓事業は誠に困難を極め、一致団結困苦欠乏に堪え抜く努力と、先覚者関係当局地元の指導助力と相俟って、当初の難関を克服し成功への曙光をみることが出来たのである。
昭和二十六年には住宅を建設し、逐次個人経営に移り、組合を中心に機械の導入畜産園芸の拡充等を企画実施し、また、畑地灌漑の施設、大型機械による営農形態の確立等農業近代化に努める一方、部落に神社墓地グランド及び青年会館を設置した。
昭和四十年に開拓の実績が認められ朝日農業賞の表彰を受けて以来、組合員の生活の安定向上と組合事業の高度成長によって経営の基礎が確立したので、昭和四十四年に、懸案の組合事務所農業倉庫生活センター等を現地中央に新築移転して、開拓事業の目的をほぼ達成することができた。今後、我等は発展の途を極めようとするものである。 ここに開拓二十五周年を迎えるに当たり記念碑を建て組合員、賛同者の名を刻み業績を校正に伝えるものである。

昭和四十五年十一月十日

篆 額  高井  篤
撰 文  安達 増三

加倉井  翠園 書之

栃木県

栃木県那須町・千振開拓

開拓
全国開拓振興協会は会員の協力を得て、開拓の歴史・精神を記録する「開拓記念碑」の調査を実施している。
栃木県北部の那須町・千振(ちふり)開拓は、1946(昭和21)年、満州開拓引揚者73戸が入植。千振の名称は、満州開拓の地元の地名に由来する。第2の開拓に打ち込み、開墾。当初は陸稲、麦中心の畑作経営であったが、気象災害が多く、低収だった。そのため、畑は飼料作物を導入し、酪農に切り換えた。現在、日本でも有数の酪農地帯となっている。
開拓記念碑は入植から20年を迎えた66年の建立(こんりゅう)で、碑銘は「開拓」。碑文の末尾には、「二代三代さらに吾等の子孫がよき村人として立派な日本農民としてこの大地に育ちくれんことを。開拓は決して死なない」とある。(写真は栃木県開拓農協提供)

千 振
碑 銘  「開 拓」 栃木県知事 横 川 信 夫 書
規 模  高さ211cm  横307cm  厚さ15cm

ここの情報を掲載した「開拓情報」

5月:栃木・ 千振

①碑文 碑裏面 (原文は縦書き)
北満の東宮山に別れを告げ/ここ那須山の麓にたどりついたのが/昭和二十一年十一月/皆んな傷つき皆貧しかった/満州に失った千余名の愛し子兄/弟達のことを想ふと立つ力さえ抜/けていった
然しこの吾々を温く抱いてくれた/のはこの那須山と村の人々/力をふりしぼって松や櫟の根っ子と/取り組んだ月の光で荒地を拓き/そして麦を蒔いた出来たものは白穂/だけだった
それでもヘコタレないで拓きに拓いて/二十年那須山に今日もゆるやかに噴/煙がたなびき乳牛の声が緑の牧場/からきこえて来る傷ついた千振の/兄弟達がはげましあい力をあわせて/拓き造ったこの沃野だ
二代三代さらに吾等の子孫がよき/村人として立派な日本農民としてこの/大地に育ちくれんことを
開拓は決して死なない

昭和四十一年十一月
吉 崎 千 秋 記

②沿 革
設立 昭和23年6月1日
入植戸数 73戸
入植者の前身 満州開拓引揚者
現在も事務所を構えて存続、活動している

③所在地
那須町大字豊原丙千振

④立地状況
草地が広がる酪農地帯

⑤その他の記録等
栃木県開拓三十周年記念誌
「千振開拓 六十年のあゆみ」 千振開拓60周年記念事業委員会
「千振開拓 七十年のあゆみ」 平成28年11月に刊行

中部地方

長野県

長野県安曇野市・豊里開拓地

演習地跡を開墾
長野県中央部の安曇野市穂高有明・豊里(とよさと)区は、JR大糸線穂高駅から西北約6㌔にあり、美しい田園風景が広がっている。同区は戦後開拓地で、開拓者によって開墾され、人が住み始めた。
同県には、1945(昭和20)年から64年までに6219戸が入植した。開拓地の多くは標高の高い場所にあり、やせた土壌など劣悪な土地条件だった。
豊里開拓地の前身は、旧・陸軍松本歩兵第50連隊の演習地(約170㌶)で、標高は約600㍍。45年、復員軍人、引揚者、疎開者ら76戸が入植した。農業には未経験者ばかりであり、肥料もなく、開墾と営農は並大抵の苦労ではなかった。当初、大豆の種などを撒いたが、収穫は少なかった。
土地は砂礫土で水の便も悪く、干害を受ける年が多かった。そのため、井戸を掘り開田、水稲植え付けをした。
豊里の交差点近くに開拓記念碑がある。豊里開拓記念碑建設委員会が76(昭和51)年に建立したもので、碑銘は「開拓記念碑」。傍には演習地跡の説明看板と碑誌、反対側には、井戸から高地の水田への配水に使用された送水ポンプがある(写真㊧屋根の下)。
碑誌には「昭和三十四年深井戸開田の気運が高まり豊里巾上土地改良区の設立を見て漸く生活安定の基礎が確立した」「ここに三十有余年に渉る同志の彫身の労苦をかえりみるとき無量の感慨きわまりなし 相共に努力した人々や今は亡き同志の功績を偲び本碑を建立する」と記されている。

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7月:長野・豊里

(碑誌)
昭和二十年大東亜戦争終結の秋痛恨と傷心を秘め食糧増産の緊急要請に応えるべく吾々は長野補導部の主導により各地からこの地に参集した、烈々たる斗志の前に旧陸軍演習地はみるみる開墾されていった然し畑作農業の安定を期待することは容易なことではなかったとりわけ昭和三十年前後の数年は誠に苦難の連続で自衛隊演習場問題も起り多難であったが住民(当時七十六戸)の一致協力によりこれを克服することができた、昭和三十四年深井戸開田の気運が高まり豊里巾上土地改良区の設立を見て漸く生活安定の基礎が確立した、昭和四十年以降山麓開発の進展と共に穂高高原温泉郷の実現を見るに及んで俄然脚光を浴びるに至り名実共に豊里の村となったここに三十有余年に渉る同志の彫身の労苦をかへりみるとき無量の感慨きわまりなし相共に努力した人々や今は亡き同志の功績を偲び本碑を建立する
昭和五十一年十一月二十日
豊里開拓記念碑建設委員会
穂高町町長 高山 勇

入植者氏名(七十名 略)
協力者(十二名 略)

山梨県

山梨県北杜市・井出原開拓地

山梨県北杜市・井出原開拓地

「開拓之碑」
山梨県には戦後3500戸以上が入植したが、高冷地が多く、厳しい気象環境下だったので、定着率は低かった。最も入植者が多かったのは、県北西部の長野県境の北杜市(旧・北巨摩(きたこま)郡)の約1300戸。うち、八ヶ岳南麓に位置する井出原開拓地は、標高800~1200㍍の農用地としては不適格な不毛の未開地だった。
1945(昭和20)年から、引揚者・戦災者など約130戸が入植した。悪条件ばかりで開拓は困難を極めたが、入植者は助け合って第二の故郷の建設に取り組んだ。入植地区で各農協を構成し、石堂開拓農協や安都玉開拓農協など7つあったが、58年に合併して井出原開拓農協を結成。農畜産物の共販態勢の確立などを目指した。
冷災害に見舞われたことはしばしばで、経営状況が悪化した。道路の整備が開拓地の発展を促した。開拓者の強い団結と工夫により、高冷地農業の成果が上がるようになった。現在、レタスなどの高原野菜の栽培が盛んとなり、山岳・高原の観光地、保養地としても発展している。
同市大泉町(旧・大泉村)の石堂公民館の敷地内に石堂開拓の記念碑がある。石堂共有財産区が90年に建立したもので、碑銘は「開拓之碑」。側の碑銘板には「一世代の人々は厳しい自然条件や農業経験もなく又農機具も不備ななかで血の滲む様な努力により開墾を続けた 時の需要に応じ穀物酪農蔬菜栽培を行う傍ら農閑期には出稼ぎにより生計を立てた」と記されている。

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5月:山梨・井出原

福井県

福井県あわら市富津:富津開拓

私達のあしあとを
この悠久の大地に
福井県あわら市富津地区

福井県の北部、あわら市北潟・富津(とみつ)地区は石川県との境に位置し、日本海に面する標高50~70㍍の丘陵地帯。戦後開拓事業が行われたが、急傾斜地が多く、強酸性土壌で作付けが困難だった。
1945(昭和20)年11月、戦争被災者ら35戸が入植。北潟村(当時)の寺に分宿し、共同生活が始まった。金津町(同)に兵舎があり、その解体作業に従事した。材木を開拓地に運搬して、仮の共同住居「三角小屋」を建てた。
割り当てられた入植地に、開墾の一鍬一鍬を打ち込んだ。最初はジャガイモを作付けしたが、収穫量は少なかった。電灯架設工事に従事し、48年に完了。だが、同年6月、大地震が同県を中心に北陸を襲った(福井地震と命名)。開拓者たちは、復旧作業と開墾作業を進め、同年10月には富津開拓農協を結成した。
スイカやダイコン、茶などを栽培し、土壌に適した作物を模索した。やがて、サツマイモ栽培に集約化を図った。幾多の苦労を乗り越え、ブランド化に成功した「とみつ金時」は名産品となっている。
富津集落センター内に開拓記念碑がある。入植35周年を記念して81年に建立されたもので、「私達のあしあとをこの悠久の大地に」と刻まれている。傍らの碑銘板には、開拓の苦難が記されている。「地震風害に耐え 干魃は続くも土を愛し土に生きるもの等しく協同の旗の下に一致団結し 悠久なる大地の限りなき恵みを受け 明日に向かって歩みはつづく」とあり、懸命にこらえた強い気持ちが伝わってくる。

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4月:福井・冨津

赤城原開拓記念碑

・福井県あわら市富津:富津開拓
「私達のあしあとをこの悠久の大地に」 富津入植三十五周年記念
昭和56年11月1日建立 富津区
碑文
昭和二十年十一月南方眼下に湖を望む国有地七十余町歩の原野に三十五戸が開拓の鍬を打ち込み私たちの郷土は誕生した。小屋を結んで越冬した宅地を造り道路を開き、炎暑吹雪を衝(つ)き朝月夜星の開墾も自給への道遠きを嘆く。
電灯工事の完成で石油ランプに別れを惜しむ暇なく、共同作業場、集会所、大山神社の神殿建立と村造りは進む。
漬物加工、コナゴ漁に夢を託するも運営の困難さは言語に絶し、技未熟も加えて不成功に終わる。入植以来渇望久しい上水道の建設成り、谷川よりの水汲の労苦から解放され人人は歓聲をあげて喜ぶ。
ここに自らの手で体得した経験を蔬菜園芸に求め、時代の進展に即応した機械化営農が導入され農家経営に潤いをもたらす。
実に二十余年の歳月は流れる。地震風害に耐え干魃は続くも土を愛し土に生きるもの等しく協同の旗の下に一致団結し悠久大地なる限りなき恵みを受け明日に向かって歩みはつづく。
斯くして起伏に富んだ畑地は丘陵地開発にて、全形容を改め松林の原野は昔日の面影もなく永住の目的を達成した。ここに富津開拓農協の業務と使命は終わる。よく三十五年の風雪に堪えてその礎は築かれ、入植初代の人々の辛苦を偲び子々孫々の繁栄を願って、ここに記念碑を建立する。
昭和五十六年十一月一日 富津区
(注:句読点は協会で付与)

石川県

石川県加賀市の開拓地、予科練生らが開墾

開拓記念碑
石川県には、戦後の開拓事業で約1500戸が入植し、79の開拓農協が設立され、開墾と営農が行われた。
県西部の加賀市には、六つの開拓農協があった。航空自衛隊小松基地(前身は、戦時中に建設された「小松海軍航空基地」)が小松市にある。西隣が加賀市で、同基地に近い一(いっ)白(ぱく)町(まち)~新保(しんぼ)町(まち)の丘陵地は、パイロットを養成する「小松海軍航空隊」の広大な軍用地だった。その跡地を中心に、緊急開拓事業が実施された。
同地区には、二つの開拓地がある。

一白開拓地
入植者は、同航空隊の海軍飛行予科練習生(予科練生)が主体だった。終戦後、そのまま住み着き、開墾を始めた。1945(昭和20)~65年、23戸が入植。当初は、バレイショなどの畑作だった。60年、近郊の農家と共同で土地改良事業を実施し、翌年、水田の造成・かんがい用水施設の整備を終えた。

新保開拓地
45~49年、20戸が入植。土地改良事業で水田が造成された。水田地帯に、新保開拓農協(63年解散)が建立した記念碑がある=写真。碑銘は「開拓記念碑」で、碑文には「防風保安林ノ開拓に着手シ初メテ此地ニ水稲ノ植附ニ成功セリ」と記している。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

10月:石川・加賀市

新保開拓記念碑
①位 置 石川県加賀市新保町(36.375396, 136.368470)
②設置者 新保開拓農業協同組合
③設置日 昭和33年(碑文風化にため推定)
④碑文表 開拓記念碑
昭和○十年十一月新保○○防風保安林の開拓に着手し○和○九年六月初○て此の地に水稲の植付に成功せり
開拓面積田畑五十○○○○和○三年○○○○○成式を行い此の碑を建つ
新保開拓農業協同組合
⑤碑文裏 なし
⑥記念碑の現在の立地状況
田園地帯であるが、面積の大半がゴルフ場に開発されている。

富山県

富山県南砺市・利賀村開拓

開拓記念碑
富山県の南西部に位置し、岐阜県に接する南砺(なんと)市(し)利賀村(とがむら)は、標高1000㍍を超える山々がそびえる、南北に細長い地形。村域の約9割が山林で、県内屈指の豪雪地帯でもある。
戦後、山村農業経営の樹立にあたり、水田造成を必要とし、山林が開拓地として開放された。8地区に計37戸の入植があった。だが、山肌に階段式に開墾した耕地は狭く、食糧の自給自足は困難を極めた。また、東西の交通は峠道が唯一の経路だった。
53(昭和28)年、「新農村建設計画樹立指定村」として、農林省(当時)の選定を受けた。利賀村開拓農協を設立。西側の地区では大規模な開田計画が立案された。かんがい用水を、村の東側を縦断している百瀬川から導くため、峠を貫く800㍍超の水路を掘る大工事を完成させた。歩道が併設され、村の東西が結ばれた。
その後の拡幅工事で自動車も通れるトンネルとなった。その西口に68年、記念碑が建立された。碑銘は「開拓記念碑」で、裏に碑文が刻んである。末尾には、「言うは易く行うは難し 総ゆる苦難に打ち勝った開拓者の強固なる団結心で夢の美田は完成 あゝうれしきかな同志相計り溢るる喜びと偉業を讃えこの碑を建立する」とある。
なお、トンネルは廃道(新トンネルが開通)となったが、路面地下に用水路があり、現在も使用されている。記念碑の左側には用水施設がある。

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9月:富山・利賀村

利賀村開拓記念碑
①位 置 富山県南砺市利賀村(36.454819, 137.030251)
②設置者 利賀村開拓農業協同組合ほか
③設置日 昭和43年8月
④碑文表 開拓記念碑
     ○○長 宮崎博至書
⑤碑文裏 銘版上

「衣食足つて礼節を知る」これが人生の根本理念であり、斯くあらしめることを施策の要諦とする
郷土の実態に即応し不断の努力を払われて来たのであるが、時恰も昭和二十八年 農林省新農村建設計画指定村として発足するや左の地区でそれぞれ開拓計画を立案され利賀村開拓農業協同組合を設立野原久吉 宮崎博至 野原清治が組合長となり現在に至る。
記 地区名 代表者

開拓総面積二百四十町歩である
就中利賀、岩淵地区は百十二町歩で百瀬川を利賀川筋へ導入する大事業を完成今や全村自給自足更に供出する等安定農家が創設され当初目標は完成す
言うは易く行うは難し総ゆる苦難に打ち勝った開拓者の強固なる団結心で夢の美田は完成あゝうれしきかな同志相計り溢るる喜びと偉業を讃えこの碑を建立する

銘版下
開拓記念碑寄付者芳名(いろは順)
金十五萬円 利賀村開拓農業協同組合
以下個人名
側面 昭和四十八年八月建之
⑥記念碑の現在の立地状況
記念碑奥のトンネル(現在は廃道)の路面地下に用水路(現在も使用している。)があり、山向こうの百瀬川を利賀谷に導水している。記念碑左の建物は用水施設。

新潟県

新潟県妙高市・大洞原開拓

開拓之碑
新潟県南西部に位置し、長野県に接している妙高(みょうこう)市関山は、国内有数の豪雪地帯。戦後、県内最大の入植があったが、残り得たのは25戸の大洞(だいどう)原(はら)開拓集落のみだった。
1946(昭和21)年、妙高山麓の標高600㍍の高冷地に入植したものの、厳寒のため49年に400㍍の現在地に移動。雪深い地域だったが、永住の地と定めた。広大な山野を控えながら稲作しかない地帯に、開拓者達はバレイショ原種栽培や高冷地抑制トマトなどの畑作園芸を取り入れ、酪農も興した。現在、高原の開拓地内では、トマト栽培など高冷地野菜を中心とした営農がされている。
開拓記念碑は87年、開拓地の集会所敷地内に建立された。碑銘は「開拓之碑」で、裏が碑文と入植者氏名となっている。碑文の後段には、「時代の変遷に伴い目的は夫れ夫れ変化しつつあるが開拓一世が残した足跡は厳然として存在するものである」と記してある。

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6月:新潟・大洞原

大洞原開拓記念碑
①位 置 妙高市関山(36°54'59.7"N 138°12'31.3"E)
②設置者 入植者一同
③設置日 昭和62年
④碑文表 開拓之碑
⑤碑文裏
昭和21年妙高山麓の開拓として旧関山村五最地区に入植せるも諸種の事情により昭和24年春現在地を開拓し永住の地を定む
当時25戸の同志は現在23戸となり若干の変動はあったものの今も尚其の意志を継承す
時代の変遷に伴い目的は夫れ夫れ変化しつつあるが開拓一世が残した足跡は厳然として存在するものである
よって開拓40周年し後世に事業遂行の意義の一端の認知を期待するものである
昭和62年吉日 建之  23名の氏名
⑦記念碑の現在の立地状況
高原の開拓地の集会所敷地内に立地し、開拓地内はトマト栽培など高冷地野菜を中心とした営農がされている。

近畿地方

京都市

京都市北区・原谷地域

京都市北区・原谷地域
都市近郊でも戦後開拓事業が行われた。京都府の26の開拓地のうち、京都市の北区大北山原谷(はらだに)地区は平均標高220㍍の山間盆地。名刹「金閣寺」の北西、約2㌔に位置する。
1948(昭和23)年、中国の東北部・満州開拓からの引揚者19戸が原谷の原野に入植した。同年、洛北(らくほく)開拓農協が設立され、開拓計画を策定した。野菜栽培を計画の柱として開墾したが、土壌は強い酸性重粘土で有機物に乏しく、作物が育たず、苦心が続いた。平行して乳牛・鶏の導入が実施された。
市内だが、開拓当初は電気が通じておらず、ランプ生活だった。50年に京都府の失業対策事業で農道、水路などの建設事業が開始され、同年、ようやく電気が開通した。入植者の団結は堅く、土壌改良を重ね、50年代に農地が完成。酪農・養鶏も本格化した。
失業対策事業は62年まで行われ、開拓地は整備された。環境の改善により、一般の人たちが引っ越してきた。次第に農業を止め、農地を手放し、転業する動きが進んだ。
平成に入ると、市中心部のベッドタウン化し、入植60年目の2008年、開拓農協は解散。敷地は、原谷地域の更なる発展を願い、市に寄附された。
市は10年、その土地に「原谷中央公園」を開園した。公園奥に開拓記念碑「開拓魂」がある。63年の入植15周年記念に建立されたもので、裏面には、入植者全員の氏名が記されている。

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3月:京都・原谷

京都府京都市:洛北開拓地区
「開拓魂」農林大臣赤城宗徳書
昭和38年11月吉祥日建立 15周年記念

〇 碑文
拾五周年を記念して入植者の名を録す
三十八名(氏名略)
昭和三十八年十一月吉祥日建立

パネル説明文
昭和二十三年十月十二日、中国(旧満州)より引揚者十九戸が原谷原野に入植した。
『京都府原谷開拓地』として、開拓総面積五十五ヘクタールを拓き、原谷地区内の町づくりを完成させた。
その年、洛北開拓農業協同組合を設立し、総面積三・六ヘクタールの不動産を所有していたが、平成二十年七月十八日、入植以来六十年を期して解散した。
原谷地域の更なる発展を願い、当該地(原谷中央公園)を、京都市に寄附する事に決した。
記念碑『開拓魂』は入植十五周年記念に建立。碑表面は赤城宗徳農林大臣の揮毫である。碑裏面入植者全員の氏名が記されている。
(パネル説明)(原谷中央公園)
地区の所在と沿革(洛北農協40年記念誌より)

この地区は京都市の西北隅、衣笠山に面する一盆地、市電西大路路線金閣寺前停留所の西北方へ約2粁いわゆる名称金閣寺の裏山に位置している。
標高 海抜280米から160米(平均220米)
開拓地の面積
総面積   55町4反
畑     30町1反
宅地    1町5反
導水路   5町5反
薪炭採草地 18町3反
入植者数  18戸  増反者数 1戸
入植者1戸当  畑 1町2反、 薪炭林 8反5畝 宅地180坪
             増反者1戸当  畑 2反
洛北開拓農業協同組合は昭和23年11月に設立、平成20年解散。

滋賀県

滋賀県安雲川町・泰山寺野開拓

滋賀県安雲川町・泰山寺野開拓
滋賀県は中央部に琵琶湖と近江盆地があり、周囲を山脈・山地が取り囲んでいる。戦後、湖を囲むように46の地区で開拓事業が進められた。
北西部の高島市安雲川町(あどがわちょう)の泰山寺野(たいさんじの)開拓地には、入植者によって開墾された広大な畑が拡がっている。
1949(昭和24)年から52年にかけて、地元の引揚者、二、三男及び長野県から計20戸が入植した。標高約200㍍の扇状大地。雑木や針葉樹が密集していた。マツの木の抜根をともなう開墾作業は大変で、開畑はなかなか進まなかった。
水田作には向かない土地だったため、ナタネやスイカを播種。54年には、みの早生ダイコンを試作した。立派なダイコンがとれ、翌年には作付面積も増え、大津市場や京都市場に出荷できるようになった。農道の整備や水利施設の建設なども次第に進んだ。現在、名産品となっているダイコンをはじめ、高原野菜が広く栽培されている。
集落内の農業用倉庫の近くに開拓記念碑がある。77(昭和52)年に泰山寺野開拓農協が建立したもので、碑銘は「開魂」。裏面には「言語に絶する幾多の苦難も開拓精神と協同の力によって克服し 日と共に発展拡充の度を加え 総面積五十ヘクタールの広大な畑作用地を完成し 二十戸の豊かな明るい農村が誕生した」と記し、入植者の氏名が刻まれている。

・滋賀県高島市安曇川町:泰山寺野開拓
「開魂」 昭和52年5月 泰山寺野開拓農業協同組合

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2月:滋賀・泰山寺野

碑文
昭和二十四年十月食糧増産の国策によって泰山寺野開拓事業は発足した。当初の入植者は新しい村落建設の意欲に燃えて泰山寺野山林と原野の開墾に努め以来入植者は協同と隣人愛をモットーとして村づくりを進めた。その間言語に絶する幾多の苦難も開拓精神と協同の力によって克服し、日と共に発展拡充の度を加え、総面積五十ヘクタールの広大な畑作用地を完成し、二十戸の豊かな明るい農村が誕生した。
今日迄苦労を共にした同志相寄り茲に開拓記念碑を建立す。

昭和五十二年五月
泰山寺野開拓農業協同組合
入植者氏名 二十名(略)

中国・四国地方

香川県

香川県さぬき市・大串半島

志度開拓神社再建立之碑
香川県の北東部、さぬき市の大串半島は瀬戸内海に大きく突き出た自然豊かな景勝地。自然公園が拡がり、野外音楽広場、キャンプ場などの施設がある。戦後、緊急開拓事業により切り開かれた。
市北部の旧・志度町(しどちょう)と旧・津田町にまたがる開拓地に46(昭和21)年、海外引揚者、復員軍人、戦災者らが入植。その大半は地元縁故者だった。3つの地区が有り、48年、それぞれ開拓農協が発足。その後、合併して志度開拓農協となった。
そのうち、大串地区は半島の山頂部に位置し、急傾斜で季節風が強く、飲用水も不足するという悪条件下だった。解消を図るため、58~66年にかけて、大規模な道路改良、畑の造成、畑地かんがい施設工事が行われた。完成後は水の問題がなくなり、カンキツの栽培が始められた。
半島の中ほどに「開拓神社」(写真㊤)がある。境内右側の「志度開拓神社再建立之碑」(同㊨)には、神社の由来が詳しく記されている。
90年の建立。入植・開墾時について、「大串 上野 末の三地区に五十二戸の帰農を志す人達を迎え 数年の間に五十ヘクタールの開墾地を造成した この間入植者は一致団結 厳しい環境と闘い乍ら血と汗にまみれ鍬を振い 戦後の食糧確保と祖国復興の一翼を担った」と刻まれている。
さらに、開墾の成就や五穀豊穣を願い、入植者の心のより所にと天照大神を祭神とする「開拓神社」を建立したこと、40年経過による老朽化と周辺整備の必要性から、現在地に移転・再建したことなどが記されている。

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11月: 香川・志度

香川県 さぬき市  志度開拓地区
「志度開拓神社再建立之碑」 平成2年5月吉日
※大串半島の中程、県道135号沿い。近くにさぬきワイナリーがある。

(碑文)
由来
昭和二十年八月十五日 大東亜戦争はわが国の敗戦によって終結した その結果出征軍人の復員と一般同胞の引揚により人口は急増し 食糧不足は危機に瀕し 経済もまた極度に混乱した 国ではこの対策として緊急食糧増産政策を打出し 開墾可能地を払下げ 各地に於て開拓事業を推進した 本町では大串 上野 末の三地区に五十二戸の帰農を志す人達を迎え 数年の間に五十ヘクタールの開墾地を造成した この間入植者は一致団結 厳しい環境と闘い乍ら血と汗にまみれ鍬を振い 戦後の食糧確保と祖国復興の一翼を担った
その頃 当初の松岡貴次郎らが中心となり 開墾の成就 五穀豊穣を願い 入植者の心の寄り所にと 天照大神を祭神とする「開拓神社」を此の地に建立した 以来四十年 高度成長期を経て時代は大きく変遷した 餓死状態の中にあった食糧事情も豊となり それに呼応して昭和五十年代後半により大串半島の開発が企画され 次々とリゾート施設の建設が進められ今日に至った その陰には先人の逞しい開拓精神と大神の御守護があったことを忘れてはならない こうした経過の中で 曽て入植者が勧請し崇敬して来た開拓神社も 歳月と共に老朽化が進み 加うるに周辺整備の必要性から神社の移転を余儀なくし 再建の運びとなった
この度 大串半島開発企業より多額の御援助を頂き御神威宣揚にふさわしい風格のある神社の造営が出来たことを心から感謝すると共に 改めて 当時を偲び末永く御神徳を給わらんことを祈念し 茲に経緯を記した次第である
平成二年五月吉日
志度開拓神社総代 松岡義高

徳島県

徳島県美馬市穴吹町

空野開拓碑
徳島県美馬(みま)市は、県北部のほぼ中央に位置する。05年に旧・美馬郡内の4町村が合併して発足。人口は約3万人。南部は山間地で、穴吹町には戦後開拓の集落「空野(あきの)」があった。
空野に至る山道は曲がりくねっており、非常に険しい。行き止まりには、市が管理している「空野放牧場」があり、繁殖和牛が放たれている。標高は約650㍍で、市街地が見渡される。この地域が戦後開拓地であり、道ばたに石碑「空野開拓碑」が建っている。入植の経緯や開拓者名などが記されている。
46(昭和21)年から48年にかけて、中国引揚者、地元縁故者、元・満州開拓青年義勇隊の順に20数戸が入植した。48年、穴吹町開拓農協を結成。入植者は共同生活をし、開墾作業や資材運搬すべて人力によるも、協同の精神で新天地の建設を目指して奮闘した。
51年、待望の空野分教場が開設され、児童17名が就学した。道路開設や電気・給水設備の整備により、ようやく開拓地営農も軌道に乗り、前途に光明が見えてきた。だが、60年代からの高度経済成長期に入ると、次第に離農者や転居者が出始め、71年、同開拓農協は解散の止むなきに至った。現在、廃屋や分教場跡がある。
石碑は97年の建立。碑文の末尾には「町において二一世紀の空野を展望し 牧野造成を行い開拓道路を整備しており その再開発また期してまつべきものあり と云うべし」と刻まれている。

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10月:徳島・空野

徳島県 美馬市 空野開拓地区 「空野開拓碑」平成9年8月吉日
※国道492号から県道254号へ。穴吹川の南側に位置する山の上にある牧場までの道のりは非常に険しい。

(碑文)
戦後 国の施策に基づき昭和弐壱年拾月中国引揚者竹内豊一氏一家率先入植 続いて地元縁故者相次ぎ 昭和弐参年弐月布川孝明氏率いる元満州開拓青年義勇隊拾名が双葉開拓団と称して入植 穴吹町開拓農業協同組合を結成せり 県は昭和弐四年七月弐日未墾地買収に伴い県営開拓事業として発展せしめたり
入植者天地根元造に起居し 生活物資建設財の運搬及び開墾作業すべて尽力に拠るも 協同の精神旺盛にして 新天地の建設を目指し奮闘せり
昭和弐六年四月待望の空野分教場開設 児童壱七名と算す この頃開拓道路開設 電気導入 簡易給水設備等逐次整備 漸く開拓地営農も軌道に乗り前途に曙光を見るに至れり しかれども昭和参拾年代の高度経済成長の波にさらわれ遂に昭和四六年拾月開拓農協も解散の止むなきに至れり 爾来町において二一世紀の空野を展望し 牧野造成を行い開拓道路を整備しており その再開発また期してまつべきものあり と云うべし
此処に理想郷建設を夢見 開拓に健闘せし同志拓友各位及び関係機関諸賢の芳名を止めて後世に伝える
平成九年八月吉日
関係機関御芳名(元穴吹町長 蔭山潔ほか)、同志拓友御芳名(竹内豊一ほか)

高知県

高知県南国市・日章開拓地

記念碑と記念広場
高知県南国(なんこく)市の高知空港の前身は、1944(昭和19)年に設置された日本海軍の日章(にっしょう)第一海軍航空基地。空港と南西の水田地帯との間に、日章開拓農協が建立した記念碑などがある。
41年、海軍は香美郡三島村(当時)に航空基地を建設するため、2184反の土地を接収。263戸、1500人余りの住民は急遽、退去を命じられた。翌年、人口が激減した三島村は、同郡の田村、立田村と合併し、日章村(現・南国市の物部川河口部)が発足した。
終戦後、一部の農地が元・住民に返還された。農地に戻すために、住民らは日章開拓農協を設立。組合員は、失った古里の再興のため、汗にまみれ、ひたすら開拓の鍬(くわ)をとった。
しかし、国と県は、859反を高知大学の設立用地、空港用地などに決定。組合員の全土払い下げの悲願は断たれた。さらに83年、滑走路の延長や空港敷地の拡張が行われた。2年後、開拓農協は解散することになった。
85年3月、農協解散に際し建立された記念碑の刻銘は「開拓記念碑」(写真㊤)。碑文には開拓の沿革が記してあり、末尾に「思えば半生 時の流れには抗し難し 古里再び旧に還らぬ いまはただ来る世の礎石となりせめて学究の若者達の開ける道と県土夜明けの空の道とならんことを」と刻まれている。
近くに、日章開拓農協が同年同月に設けた広場があり、石碑「記念広場」が建立されている(写真㊨)。裏面には、唱歌「ふるさと」の歌詩と広場の由来が記されている。

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9月:高知・日章開拓地

高知県 南国市 日章開拓地区
「開拓記念碑」 昭和60年3月 日章開拓農業協同組合
※高知空港の南西側に面し、水田地帯との間に位置する。近くに日章開拓記念広場がある。

(碑文)
この地は明治二十二年七月物部久枝下島三村が相寄って誕生し香美郡に属した元の三島の里である 沃土は農を興し黒潮に恵まれて文化の香り高く県下屈指の優良村となって栄えた
秋田川の流れは老若に憩を授け鎮守室岡山は白鳳から明治にわたる数多い津波洪水に村人避難の神域となり命山と呼んでその信を集めた
第二次世界戦争の予兆濃い昭和十六年早々日本海軍はここに航空基地を建設す 総面積二一八四反を接収 二六三戸 一五〇〇余の住民ら急遽退去を命ぜられる 人々互いに別れを惜しみ父祖の霊位を抱き慌しく村を去る 翌十七年日章村発足となる 年を経ずして敗れて戦は終り接収土地の還元を見る 縁りの者らは組合をつくり失った古里再興に祈りをこめ 汗にまみれ苦難を乗り越えて只管開拓の鍬をとる 退去を急がれた寸土を守り続けた者達も一つの思いに力をあわせた
しかるにすでに国県は八五九反を高知大学 空港用地と決定し われら農民の全土払下げへの悲願を断つ 続いて工専が開設され さらには今次空港の再拡張となり開拓の面影は潰え去るに至った 「思えば半生 時の流れには抗し難し 古里再び旧に還らぬ
いまはただ来る世の礎石となりせめて学究の若者達の開ける道と県土夜明けの空の道とならんことを」
茲に組合を閉ざすに当り後世のため碑を建て沿革の大略を誌す
元日章村長 元県会議長 西内四郎 撰書 日章開拓農業協同組合
昭和六十年三月

(記念広場の碑文)
うさぎ追いしかの山 こぶなつりかの川 夢は今もめぐりて わすれかたきふるさと

その昔ここを流れていた貝田川は地域の潤いであり なお懐かしく望郷を呼ぶ
大東亜戦が終った後旧飛行場跡地の開拓を実施してまた日章開拓農協は総てを終り解散するに際し南国市高知県の協賛を得てここに記念の広場を設けた
往年の夢を追いみんなの憩の場として残りの少ない自然を守り育てようではないか
昭和六十年三月之建

九州・沖縄地方

大分県

大分県別府市・古賀原開拓地

記念碑が3基、水道碑も
大分県の戦後開拓地は県内全域に分布しており、1945(昭和20)年から68年までに4844戸の入植があった。県東部のほぼ中央に位置する別府市内成・古賀原(こがのはる)地区(旧・古賀原村)には40戸が入植。その開拓の歴史は、水を求めての厳しい戦いだった。
47年3月に第1陣35戸が入植、後に5戸追加入植。標高600㍍位の 高い丘陵地だった。開拓者はクワやツルハシで開墾を始め、翌年、古賀原開拓農協を設立。焼き畑農業から始まり、野菜などを作って別府の町に売りに行った。
湧き水や池もない原野で、水不足が深刻だった。入植者は沢水を見つけて飲み水に供する生活が長く続いた。61年に簡易水道が完成したものの、日照りで水が涸れることが多かった。
84年に現在の水道施設が完成し、ようやく水不足から解放された。現在、ダイコン、ハクサイ、キュウリなどの野菜や茶などが生産されている。
古賀原公民館の敷地内に、記念碑が並んで3基ある。古賀原自治会が77年、97年、15年に建立したもので、それぞれの碑銘は「開拓三十年記念」「古賀原誕生五十周年記念碑」「古賀原誕生七十周年記念碑」。
近くに「飲雑用水施設竣工記念碑」もある。碑文には「飲用水の不足で当初は谷間の素掘井戸より泥水を担ぎ上げて使用し それも底をつくと遠くの道なき谷間を水を探し求め歩き焦燥の日々が続く」と苦労が刻まれている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

6月大分・古賀原

古賀原開拓記念碑
(30周年、50周年、70周年及び飲雑用水施設竣工記念碑)
①位 置 大分県別府市内成古賀原
②設置者
③設置日 30周年  昭和52年○月  古賀原自治会
     50周年  平成9年10月  古賀原自治会
     70周年  平成29年11月  古賀原自治会
     飲雑用水  昭和59年10月 別府市・古賀原水道組合
④碑文表 30周年  開拓30周年記念
     50周年  古賀原誕生五十周年記念碑
     70周年  古賀原誕生七十周年記念碑
     飲雑用水  県営古賀原地区
          飲雑用水施設竣工記念碑
          大分県農政部長 中島恭司
⑤碑文裏 30周年  昭和五十二年〇月  古賀原自治会
     50周年  平成九年十月吉日  古賀原自治会
     70周年  平成二十九年十一月吉日  古賀原自治会
     飲雑用水
      威風
終戦後総ての物資欠乏に因って食糧増産を目的として開拓制度が出来その恩恵に預かりてこの地に入植せるも飲用水の不足で当初は谷間の素掘井戸より泥水を担ぎ上げて使用しそれも底をつくと遠くの道なき谷間を水を探し求め歩き焦燥の日々が続く 後年簡易水道の設置ありたるも水源の湧出量が尠なく始終水不足に悩まされ現世に於いてこの様に水に事欠く生活の惨めさを嘆く声その極みに達したその秋にあたり地区民一丸の願望が叶い国県市各々関係の御温情溢れる格別の御詮議に因って汲めどもつきぬ地底の清水が渾渾と湧き出て御温情の水が各戸に廻るようになった時の感激は何物にも代え難く筆舌に尽くし得ずこの歓喜この御高思に対する感謝は肝に銘じ永久に忘れる事なく後世に語り継がなければならない さらにまた古賀原農業の振興発展を祈願しこの碑を建てる
昭和五十九年十月吉日
別府市長 ほか氏名
事業概要等
⑥写真 30周年 50周年 70周年
⑦当該地区の沿革等
⑧記念碑の現在の立地状況
公民館敷地内に設置され、管理されている。
⑨その他、当該記念碑関連記事

鹿児島

鹿児島県種子島南種子町 長谷開拓之碑

長谷開拓之碑
鹿児島県種子島は鹿児島市から南へ約115㌔に位置し、面積445平方㌔、人口は約3万人。種子島宇宙センターなど宇宙関連施設がある。農業が盛んで、米、サトウキビ、茶などが栽培されている。南部のほぼ中央で、中種子町と南種子町にまたがる長谷(はせ)地区には、南洋群島を主とした海外引揚者らが入植した。
標高200㍍前後で542㌶の広い台地。火山灰地に茅(カヤ)が群生し、強酸性で作物栽培には適さない荒野だった。1946(昭和21)年、パラオ諸島からの引揚者を第一陣に、サイパン、テニアン、その他内外各地から172戸が入植した。
入植当時の第一の苦労は食糧難で、開拓の合間をみては、その日その日の食を得るため、近所の農家に労力を提供した。また、ツワブキ、ワラビなどの山菜は重要な食材となった。
47年に長谷小学校、48年には長谷開拓農協が南種子町に設立された。組合員が協同して開拓に励み、多くの苦難を乗り越えた。所期の目的を達成した同農協は74年に解散。現在、サトウキビやサツマイモなどが豊かに実る地区となっている。
長谷小学校前の道路沿いに記念碑がある。長谷地区民一同と町が96(平成8)年に建立したもので、刻銘は「長谷開拓之碑」。
碑銘板には「茅葺き掘立小屋に食糧不足という厳しい状況下、すべて人力による艱難辛苦の開墾作業であった」「長谷地区全域にかつてなかった開拓者精神が満ち、新しい村づくりが進んだ。一九六二年(昭和三七年)開拓パイロット事業による入植も加わり長谷の荒野は豊かな郷に変貌した」と刻まれている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

8月:鹿児島・種子島

長谷開拓記念碑
①位 置 南種子町長谷 長谷小学校(30.447450, 130.908594)
②設置者 入植者・南種子町
③設置日 平成8年6月
④碑文表 長谷開拓記念碑
⑤副 碑 碑文
火山灰土に茅が群生する長谷の台地は耕作に適さず、古くから牧野として利用され、人々が定住すること希であった。明治時代以降いくばくかの人々が定着した。第二次世界大戦末期は本土防衛に備えて陸海軍の駐屯地となった。一九四五年(昭和二〇年)終戦の直後、外地引揚者等が新天地を求めてこの長谷地区に多数入植した。茅葺き掘立て小屋に食糧不足という厳しい状況下、すべて人力による艱難辛苦の開墾作業であった。一九四七年(昭和二二年)長谷小学校創立。長谷地区全域にかってなかった開拓者精神が満ち、新しい村づくりが進んだ。一九六二年(昭和三七年)開拓パイロット事業による入植も加わり長谷の荒野は豊かな郷に変貌した。現在は本町の副都心として発展し続けている。終戦時の画期的入植から五十年、ここに長谷地区の開拓の歴史を偲びこの碑を建立する。
平成八年六月
     長谷地区民一同
     南種子町
⑥記念碑の現在の立地状況
小学校前の広場近くに立地し管理されている。

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