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開拓記念碑調査事業

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北海道・東北地方

岩手県

元木

元木  03-302-

 

①調査日  平成30年8月3日

②所在  岩手郡葛巻町

③地区の沿革  岩手町から葛巻へ向かう大坊峠を越えたすぐ左側に 位置する山あいの道路沿いに34戸が入植し、土谷川開拓農協を設立。(昭和33年の開拓戸数調査による)冬の寒さが厳しく恵まれない自然条件のもと基盤整備を行い、酪農を主体として地域ぐるみで安定した経営を確立するために意欲的に努力してきた。

④設置年月日  不明

⑤設置者 不明

⑥碑文(表面) 拓魂碑

⑦碑文(裏面) 建立者名簿

⑧現在の状況 地区の施設内で管理されているが、汚れがひどく碑文は読み取れなかった。

岩手県

五日市

五日市  03-303-

 

①調査日  令和元年6月3日

②所在  岩手郡岩手町

③地区の沿革  樺太引揚者45戸が五日市開拓地に入植した。

④設置年月日  平成6年8月15

⑤設置者  碑建立賛同者

⑥碑文(表面)  豊岡 開拓 入植

小学校跡地記念碑

拓魂

私達は、樺太引揚以後此の地に入植、部落名を豊岡と命名、ひたすら開拓に邁進、奮斗努力の甲斐あって、名実共に豊かなる岡(丘)を礎き今日に至る。

豊岡の名称の由来は樺太庁豊原の一字「豊」と樺太の引揚港真岡の一字「岡」を組み合わせたものである。

開拓小学校 昭和二十三年六月入植四五戸 昭和二十四年四月水堀小学校豊岡分校として開校 児童数五一名 昭和三十三年四月豊岡小学校に昇格 児童数四〇名 昭和六十一年三月閉校 同窓生総数二一五名  碑建立協賛者 振興会四〇戸 教職員二〇余名 同窓生一七〇余名

平成六年八月十五日

碑建立実行委員会 同同窓生一同

⑦碑文(裏面)  無し

⑧現在の状況 公園内にあり管理されている。

岩手県

貝澤野

貝澤野(かいざわの)  03-366-

 

①調査日  平成29年7月7日

②所在  和賀郡西和賀町沢内

③地区の沿革  渡満を果たせかった満蒙開拓青年義勇軍人と地元民が入植した。

④設置年月日  昭和501020

⑤設置者  入植者

⑥碑文(表面)  拓魂 

国破れて山河在り

奥羽の連峰山襞は深き翳りを持ち 渓流の音遠のきて秋気せまる 山伏峠を越えるは渡満の夢空しく消ゆるもなお國内開拓に挺身を誓う満蒙開拓青年義勇軍の一行にして率いるは菅野敬一なり 岳の紅葉夕陽に映えてうつくし ときに昭和二十年十月二十日 深き理解と厚意に迎えられ田中興太郎 岩井貞吉 岩井福太郎三氏の宅に旅装をとく 地元入植者を加え貝澤野開拓団は結成され飢餓と絶望の中を彷徨しつ々も互いに励まし扶け合った 大地に生きる信念と意欲をもやし利鎌と斧と鍬の閃光が汗と苦悩と祈りと共に貝沢野の大地にしみこんだ 山野は変貌し荒野は緑野となり稲穂はたれ乳牛の群れる郷となった  開拓者は自らの運命は自らの力でひらきひたすらに前進する 開拓入植三十周年を記念して過去を偲び更に躍進の決意をこめてここに拓魂の碑を建立す

昭和五十年十月二十日

金盛 典  撰    菅野 敬一 書

⑦碑文(裏面)  貝澤野開拓入植者名簿  入植者夫婦個人名

⑧現在の状況 地域内で管理されている。

岩手県

駒丘

駒丘  03-381-

 

①調査日  平成28年9月7日

②所在  胆沢郡金ヶ崎町

③地区の沿革  昭和24年入植し、地区総面積約580町歩うち約120余町歩を開拓した。

④設置年月日  昭和5411月3日

⑤設置者  入植者

⑥碑文(表面)  仁智明遠

駒丘入植三十周年記念碑

第二次世界大戦直後国策として創始された緊急開拓事業に順応して誕生した駒丘の部落は昭和五十四年を迎へて満三十周年となった。我等は此の地を第二の故郷となし昭和二十四年来各年次入植地区総面積約百五十八町歩うち約百二十余町歩を開拓、農地となし近代酪農団地の形成を見るに至った このことは積年に亘る入植者の努力もさること乍らこの三十年間行政機関を始めとし朝野あまたの心温い御指導と御援助の賜物であ ることを忘れてはならない。

我等は新様にしてかつ名もない山野に開拓の歴史を築き上げ今日に至った入植者自らの手によって築き上げた此の歴史を後世に伝えんとして此の碑を建立する

昭和五十四年十一月三日

⑦碑文(裏面) 入植者16名の個人名

⑧現在の状況 地域内で管理されている。

岩手県

鳥の海

鳥の海  03-381-

 

①調査日  平成28年9月7日

②所在  胆沢郡金ヶ崎町

③地区の沿革  昭和22年に11戸が入植した。

④設置年月日  昭和241025

⑤設置者  鳥海開拓農業協同組合

⑥碑文(表面)  昭和二十二年五月入植

拓土の碑  鳥海開拓農業協同組合

⑦碑文(裏面)  入植者11夫妻の氏名

昭和二十四年十月二十五日建立

⑧現在の状況 経年劣化で碑文記録内容不明。地域内で管理されている。

岩手県

岩手県・和光

岩手県金ヶ崎町の和光開拓は、県の南西部に位置している。奥羽山系の山麓にあり、標高140mほどで、冬には積雪が1mを超える雪国だ。

 土壌は強酸性の火山灰で、作物の生育には向かず、畑を眺めては呆然とするばかりだった。県の補助事業で土壌改良資材を導入してから、何とかこの地に生涯を託すことができるようになった。

 48年、満蒙開拓少年義勇軍から帰国した人々を中心に、50戸ほどが入植した。

 和光開拓の由来は、満蒙開拓時代の理想でもあった「天地(てんち)相和(あいわ)して旭光(きょっこう)を放つ」村づくりを通して、人相和して光輝く開拓地となるように、との思いが込められている。

ここは傾斜地が多く、田畑は限られており、全員酪農で生きていこうと決意し、53年に乳牛の一頭飼いからスタートした。この年は冷害に見舞われたこともあり、酪農専業化へ拍車がかかった。

当初は酪農への知識が乏しく、事故も多かったが、北海道などの先進地から講師を呼ぶなど、あらゆる努力を払い、98年には飼養頭数が2000頭に迫るようになった。

また、日本一の開拓むらを目指し、93年度豊かなむらづくり全国コンクールで、見事天皇杯の栄誉に輝いた。地域の力を合わせた酪農経営の取り組みと、美しい農村景観づくりに力を入れ、生産と生活が一体となった地域づくりが評価された。

83年に整備されたパイオニア公園に、35周年の開拓記念碑が建ち、73年に建てられた拓土碑が隣に移築された。開拓碑は、和(玉)を人々の手が支えあっている形を表しており、「人相和して光り輝く」と刻まれている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2026年5月 岩手・和光

和光  03-381-

 

①調査日  平成28年9月7日

②所在  胆沢郡金ヶ崎町

③地区の沿革  23年9月7名の先遣隊が入植し、24年までに50戸、28年に6戸が入植した。

④設置年月日  平成5年5月

⑤設置者  入植者

⑥碑文(表面)  和光開拓碑

相和して光輝く  和光開拓はこの地から始まった

昭和二十三年九月十四日 山形県 出身者の故丸山新治以下七人が先遣隊として入植 開拓の鍬を下ろした それまでは熊笹が生い茂り 樹齢四・五十年を数える鬱蒼とした松林であった 開拓本部は駒ヶ岳國有林第百七十二林班のこの場所に設けられ 後に和光開拓農業協同組合の事務所となった 昭和二十四年までに五十戸が入植 二十八年に六戸が加わって五十六戸の集落ができた 開墾はすべて 人の力であった 松林を切り 熊笹を焼き払い ひと鍬ひと鍬振り下ろして耕し 今日の和光を創り上げたのである

   1戸あたりの配分面積は約四.五ヘクタール 土地代は 十アール三十円二十四銭 合わせて千三百九十一円四銭であった 昭和三十七年には沢伝いに水田を拓き飯米の自給が出来るようになった 酪農は昭和二十七年から始まった 昭和四十年代に入り 後継者が経営に携わるようになって 飛躍的な発展を遂げ岩手県下でも一・二を争う酪農郷となった

平成四年九月十四日 入植四十五周年を迎えるに当たりこの地に繰り広げられた壮大な開拓村建設の歴史をこの碑に刻んだ すでに故人になられた十三人の先駆者の冥福を祈り この里にわれらの夢見るユートピアが実現することを願うものである

撰文 松浦健一

平成五年五月吉日建立

和光開拓入植四十五周年記念実行委員会

  委員長 鈴木 栄一    委員一同

⑦碑文(裏面)  入植者57名の個人名

⑧現在の状況 地域内で管理されている。

岩手県

大沢

大沢  03-381-

 

①調査日  平成28年9月7日

②所在  胆沢郡金ヶ崎町

③地区の沿革  不明

④設置年月日  昭和63年5月

⑤設置者  入植者

⑥碑文(表面) 入植記念碑

第一次入植者

昭和二十四年五月九日 入植者15名個人名

第二次入植者

昭和二十六年七月二十日 入植者6名 

補充入植者2名個人名

⑦碑文(裏面)  無し

⑧現在の状況 地域の施設内で管理されている。

岩手県

夏節

夏節(なつぶし)  03-483-

 

①調査日  令和元年5月13

②所在  下閉伊郡岩泉町

③地区の沿革  岩泉町西部明神山の麓で地元若者を中心に59戸入植。南向きの傾斜地で僅少な配分面積から酪農、果樹栽培を目指した地区。

④設置年月日  平成1310月1日

⑤設置者  阿部吉見

⑥碑文(表面)  夏節戦後開拓之碑

⑦碑文(裏面)  平成十三年十月一日  阿部吉見建立

⑧現在の状況  公民館敷地で管理されている。

岩手県

根井

アクセス

根井(ねい)  03-503-

 

①調査日  平成29年7月26

②所在  九戸郡野田村玉川 第1地割81

緯度・経度:40.0569491383385,141.816231669485

③地区の沿革  昭和25年山形県出身者19名と地元18名が共に入植した。

④設置年月日  平成2年10

⑤設置者  入植者

⑥碑文(表面)  根井開拓入植四十周年記念碑

  拓魂  平成二年十月  野田村長 佐藤吉男書

⑦碑文(裏面)  昭和二十年八月太平洋戦争に敗れ、海外の同胞、軍人は陸続として祖国日本に帰る。正國破れて山河あり、多くの人は住むに家なく、国民全て飢えに泣き、栄養失調で倒れる者数多く、国では緊急開拓事業を実施して、食料の増産に努める。

 昭和二十五年山形県出身者十九名と根井の人達十八名が共に入植し、新しい生活を築く為、力を併せ開拓をすることとなった。当時の根井は毎春の季節風に表肥土のことごとくを洋上の彼方へ運び去られた瘠薄の地であった。

この荒地に入り、従手空拳ひたすら鍬をかざして大地に挑み開拓に努めたのであるが、雨が降れば屋内で傘をかざしてしのぎ、吹雪は伏す床の上に積るという寒風骨を刺す極悪の条件にもめげず、克苦良く耐えてここに四十年の星霜を数えるに至る。この間病に倒れまた耐えかねてこの地を去るものもあった。

しかし、遂に開拓の夢は叶えられた。土地の全ては緑に覆われ、実り豊に、家畜の声は天にこだます。夢に求めた乳と蜜の流れる里の建設を成しとげたのだ。子等は全て成人となり、孫達は喜々として集う。

今、過ぎた日を思うに全てが懐かしく、往時をしのんで碑を建て、拓魂と刻み先駆者の功をたたえる。人生いつか苦難の道にあう時があったならこの根井の荒野に挑んだ創業の士に思いをはせ奮起すべく、自戒の碑ともなすべきものである。

 撰文 佐藤 吉男

⑧現在の状況  根井地区センター敷地内で管理されている。

岩手県

「拓地安民」 岩手県一戸町・奥中山開拓

「拓地安民」

岩手県一戸町・奥中山開拓

 

奥中山開拓は、岩手県北部の一戸町の奥中山高原スキー場がある西岳の東麓に位置する。

 標高は327~793㍍で、地層は全域火山灰土に覆われ、さらに地下水は低くて農業には適さない土地とされてきた。農耕期間は5月から10月の約半年しかなく、霜害も多い。

 戦中は陸軍の軍馬補充部のあったところで、戦後に国の緊急開拓事業でこの軍馬補充部跡地約4000㌶と、周辺国有林が解放されることとなった。

 1946(昭和21)年3月に入植したのは、農業の経験もない勤め人、旧軍人、中国や樺太などからの引き上げ者、地元の2、3男ら567戸。

 農業に適さない土地で、農業をやったことがない人々が作物を作るのは容易ではなく、生活は困窮を極めた。開墾補助金などもあったが、本来設備投資する金が生活費に回ることも多々あった。

 この当時の主な換金作物は、麻、ハッカ、コンニャクなどであったが、これらもうまくいかず、雑穀中心から酪農へ早く転換しようと努力していった。

こうした中、48年に奥中山開拓農業協同組合が発足し、49年に既存農協と合併して奥中山開拓畜産農業協同組合となった(現在は新岩手農業協同組合)。

農協は開拓振興計画に基づいて無計画な入植を再検討し、開拓道路の整備や土地配分の是正を59年から実施した。このころから草地造成、乳牛や、大型機械の導入などを行って酪農への道が開けてきた。

酪農の技術向上には、地域単位で研修し合う酪農同志会の活動が大きかった。酪農家、同志会、農協が一体となって乳質改善等に取り組み、成果を上げてきた。

また、68年に農協に野菜部会が発足し、レタス、夏ダイコン、アスパラガスなど高冷地野菜の名産地となっていった。

76年9月1日に開拓30周年記念式典が奥中山中学校で開催され「拓地安民」の碑(写真)の除幕式も行われた。

現在、奥中山の酪農家は26戸で、飼養頭数3600頭(内成牛が2400頭)。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2023年2月 岩手・奥中山

奥中山開拓 「拓地安民」   03-524-1

 

①調査日  2016年9月1日

②所在  二戸郡一戸町

③地区の沿革 標高327793米で、地層は全域火山灰土に覆われ、さらに地下水は低くて農業には適さない土地とされてきた軍馬補充部跡地約4千㌶と、周辺国有林が解放され、農業の経験もない勤め人、旧軍人、中国や樺太などからの引き上げ者、地元の2、3男ら567戸が昭和21年3月に入植。

 国有地 四千町歩が未墾地として開放され、600戸が入植した。

④設置年月日  昭和51年9月

⑤設置者  不明

⑥碑名  開拓碑

⑦碑文(表面)  拓地安眠

⑧碑文(裏面)  昭和二十年夏八月日本はついに敗戦の日を迎えた 生産交通通信等の手段は殆ど馬有に帰し都市は文字通り焼土と化した 国民は茫然自失した しかし生き残った者は家族と共に今日を生きぬき明日に永らえねばならなかった自からと家族の為にその食を得ることが誰にとっても緊急の課題となった  時の政府もこの事態に対応し緊急開拓事業をもって最高施策の一つとした 当奥中山開拓地はこのとき三本木軍馬補充部奥中山支部に属する国有林八千町歩のうち四千町歩が未墾地として開放されたものである これに対し純入植者凡そ三三〇戸を中心に地元増反者を合わせて六〇〇戸がその配分を受け昭和二十年内に早くも開墾の鍬が下ろされた  開墾も開拓も言うは一口であるけれども実態は一瞬一瞬の苦斗の積み重ねであった土地は荊棘茂る荒野であり人々は鍬一本でこれに挑まねばならなかったブルトーザーなど考えることも出来ない時代だった  荒野は人間の汗を吸わねば耕地とはならず 開拓者たちはこの苦難を自らの運命の如く受諾し克くこれに耐えて一つ一つを乗り越えた かくして過ぎた年月は三十年その間止むなき事情で離脱し去った者約二〇数戸踏み止った者達は今にして漸く生活の安定を得るに至った現状必ずしも満足すべきものではないが過ぎた苦難の三〇年を記念し次の新しい飛躍への決意の為にここに之の碑を建立するものである        

 平成五十一年九月

⑨現在の状況 地区内で管理されている。

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