公益社団法人全国開拓振興協会の講演会開催、海外研修事業、全国開拓青年女性研修会・全国開拓代表者大会、開拓営農振興事業を紹介しています。

お問い合わせ

03-6268-9995

開拓記念碑調査事業

検索したいキーワードを入力してください。

関東地方

茨城県

加倉井

アクセス

加倉井  08-201-

 

①調査日  令和4年5月16

②所在  水戸市加倉井町

緯度・経度:36.4043550184506,140.389772403844

③地区の沿革  昭和21年2月引揚者ら25戸が軍用地に入植した。

④設置年月日  昭和4712

⑤設置者  入植者

⑥碑文(表面)  偕拓碑

城県知事 岩上 二郎 書

⑦碑文(裏面)  開拓の記

憶へばかの大東亜戦終結の日遠く海外より引揚げ或は復員し近くは戦災帰郷せる我等二十五戸相集ひて茲に故郷を求め荒廃せる國土再建の道を拓かむとして入植せり時に昭和二十一年二月一日なり 星霜二十有五年草の根を食み貧しきに耐へ旧兵舎を假の住居とし一本の鍬に托し血と汗と涙によりて古く御立山権現台の地名の残る元水戸工兵第十四聠隊爆破演習場六十余町歩の原野を開墾し山林二十八町五反歩農耕地三十六町歩其の他二町五反歩を造成せり。

過ぎし戦いに失ひたる幾多の人を偲ばぬ日はなく温き地元の人々に支へられ互に励まし助け合ひて今日を迎ふ夢の如し厳しき風雪の明暮の裡に倒れし同志のありしは悲しき時は流れゆきて止まらず世は限りなく移ろへども偕に苦しみ偕に楽しみて拓きたる治績を後世に永く留め固く結びて撓むことなく勤め励みて洋々たる前途を開かむ朝な夕な仰ぎ来たりし老松一本松の跡に碑を建て我等の銘となす。

昭和四十七年十二月吉日

⑧現在の状況  水戸ゴルフクラブの東端の林道際に建立。

茨城県

都和

アクセス

都和  08-203-

 

①調査日  令和7年4月22

②所在  茨城県土浦市中都町3丁目3201

緯度・経度:36.12663213890450,140.1924997068003

③地区の沿革  碑文に記載

④設置年月日  昭和62年10月25

⑤設置者  都和拓友会

⑥碑文(表面)  草創の郷  茨城県知事 竹内藤男書

⑦碑文(裏面) 記

中部町は戦後海外からの引揚者・戦災者を主体に 昭和22年から23年にかけて入植によってできた。

不二・平和・都和第二「・湖北・中貫・笠師の各開拓組合で発足、後に都和開拓農業協同組合として合併、農業経営の安定と地域との交流を深めて今日の発展をみた。

ここに40周年を記念して苦労を共にした同志の氏名を記してこの碑を建立する。

昭和621025日  都和拓友会

※下段には出身地別氏名が刻まれている。

⑧現在の状況  中都町農村集落センターの敷地内に建立。

茨城県

八原

アクセス

八原(やばら)  08-208-

 

①調査日  令和4年5月16

②所在  龍ケ崎市貝原塚町

緯度・経度:35.9446243179175,140.1941687668225

③地区の沿革  国、民有地が解放され引揚者らが昭和22年に入植した。

④設置年月日  昭和51年5月

⑤設置者  開拓者

⑥碑文(表面)  開拓記念碑

当開拓地は昭和二十年終戦のため旧満州国から引揚げた黒田清氏がこの拡野に立つて今後の日本は農業立国以外にはないと決意したこの決意にもとずいて黒田清氏が発起人となり旧飛行場跡地を中心に旧八原村木村茂氏中沢周四郎氏等数名の有力地主の絶大な協力をいたゞき所有地一四二町歩余りの原野の解放を受けてその足がかりを作ったわけである一方開拓地内居住者等数十名の団結のもとに黒田清氏を組合長に八原開拓農業協同組合を昭和二十二年に設立して開拓の第一歩をふみ出したものである

また昭和二十三年には増反組合も生れ 更に昭和二十四年に八原ときわ開拓農業協同組合が設立され つゞいて昭和二十五年には長野県から十戸が入植して八原千代開拓農業協同組合が設立されてここに八原開拓地は完全な軌道に乗ったわけである

以来星霜三十年遂に一切の事業をなしとげて国政上から各開拓農業協同組合の解散となったのである この完成を祝してこゝに開拓記念碑を建立した次第である  

昭和五十一年五月 

茨城県龍ケ崎市貝原塚町 開拓者一同

⑦碑文(裏面)  八原開拓組合 ときわ開拓組合 千代開拓組合 増反組合の組合員名が記載されている。

⑧現在の状況  中貝原塚区集会場の横にあり管理されている。

茨城県

高須開拓

アクセス

高須開拓  08-217-

 

①調査日  令和7年4月22

②所在  茨城県取手市桜が丘2丁目37

緯度・経度:35.9007309255247,140.1234691015881

③地区の沿革  碑文に記載

④設置年月日  昭和443月建立

⑤設置者

⑥碑文(表面)  開拓魂

戦後の祖国を復興する政府の食糧増産政策の一環として真菰の叢生する沼地103町歩の高須開拓を進める為県は昭和21年干拓を計画県営農地開発事業にて同年北浦排水路幹線改修に着手 同23年国営代行干拓事業に移り基幹建設工事が進めらる 依って用地買収に地主の協力が要請さる。偶々昭和25年小貝川堤防決漬で河川改修の議起り同28年瀬割安の検討に及び当地域が受益地に該当する処より、中村金左衛門氏を会長に促進協議会を結成ために地主の承諾することとなり計画は軌道に乗る 後に利根川浚湈土を利用する埋立開拓に変更し建設省工事にて同32年2500万余円を投じ完了する ついて土地配分者が選定され高須開拓増反組合を設立。 初代海老原旭氏二代桜井達氏両組合長により地圴付帯工事費7780万余円を計上 77町歩の耕地が造成さる 瀬割案による代替地残余の配分に幾多の辛苦を経て初期目的達成に尽力された功績を讃えここに記念する

茨城県知事 岩上二郎書

⑦碑文(裏面) ※土地改良区関係者、高須開拓農協関係者氏名が刻まれている。

⑧現在の状況  高須揚水機場横の北浦川べりの敷地に建立。隣には「拓」として「理想郷をめざして 人々はいつも明日を拓く」とした碑が建立

茨城県

向原

アクセス

向原  08-219-

          

①調査日  令和4年5月16

②所在  牛久市小坂町

緯度・経度:35.9722958966087,140.197278567533

③地区の沿革  昭和24年3月長野県15戸、地元朝日村8戸が入植した。

④設置年月日  平成4年4月

⑤設置者  福田町向原区一同

⑥碑文(表面)  向原発祥記念乃碑

⑦碑文(裏面)  発祥の誌

昭和二十四年三月 国の施策として長野県下伊那郡松尾村より十五戸 地元朝日村福田より八戸 稲敷郡朝日村の当地区に移住する、昭和二十八年十月町村合併の際 当時朝日村は阿見町との合併となる、当地区は産業、交通教育、文化とあらゆる面に於て隣接の牛久町への合併を希望し、各方面への請願、陳情をして阿見町との分町が認められ、昭和三十二年七月牛久町福田向原区となる。

昭和六十一年六月一日市制施行に依り、牛久市福田町となる。当初の苦難の道を乗り越えて四十余年、現在では三十戸の区となる。

こゝに当区、永遠の繁栄を誓い、相互の親睦を尚一層深めて益々の発展と、生活の礎となることを祈念して之を建立する。

平成四年四月吉日

牛久市福田町向原区一同建之

⑧現在の状況  牛久市立向原保育園横にあり管理されている。

茨城県

茨城県つくば市・南作谷開拓

アクセス

茨城県つくば市・南作(つくり)谷(や)開拓

 

茨城県つくば市の南作(つくり)谷(や)開拓は、筑波山の南西麓にあり、台地が広がっている。

 戦時中は陸軍西筑波飛行場であったが、戦後開拓事業の対象となった。

 85(昭和60)年に建てられた碑に南作谷開拓の歴史が刻まれているので紹介する。

 「創郷之碑」

 自立農家を目指す54戸が開拓の鍬をおろしたのは46年、続いて国の開拓増産の訓練を受けた13戸が加わった。

 甚だしい瘦(や)せ地に加え、肥料・農具は不足、収穫は皆無に近く、そのためこの地を離れる者が多かった。

 明日に希望を繋ぎ、家族をあげての努力を続けるうち、国の助成や融資もあり、経営の危機を続けながらも、次第に収穫物と家畜の増加を見るようになった。

 幾度か凍霜害・冷害・干害があって、経営基盤の浅い我々を苦しめたが全員よく耐え凌いだ。

 58年に始めた芝の作付けはこの地に適するため、急速に広がり、全国有数の生産地となるに至っている。

 66年代から入郷する者増加したが、よく協力・融和し、いささかの違和もない。

 むら創り40年に際し、改めて過去の苦難を回想するとともに、将来も益々協調し、繫栄するのを願い、記念の碑を建てる。

  8511月吉日

   南作谷区民一同

 瘦せた土地で困窮していた頃に、このような土地でも育つ芝生が、ゴルフブームで高値がつくという話を聞き、芝生の栽培に望みを託した。

69年頃の第二次ゴルフブームと共に芝栽培は急速に規模を拡大し、他の集落でも行われるようになった。

 現在、茨城県は芝の日本一の産地で、そのほとんどがつくば市で生産されている。「創郷之碑」の周りは、今も壮大な芝の畑が広がり、筑波山のふもとを緑で染めている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2023年12月 茨城・作谷

茨城県つくば市・南作(つくり)谷(や)開拓   08-220-1

 

①調査日  2022年5月17

②所在  つくば市作谷

緯度・経度:36.1635942438994,140.0315548835439

③地区の沿革  昭和21年から67戸が入植した。

④設置年月日  昭和6011

⑤設置者  南作谷区民一同

⑥碑名  開拓碑

⑦碑文(表面)  創郷之碑

自立農家を目指す五十四戸が開拓の鍬をおろしたのは昭和二十一年、続いて国の開拓増産の訓練を受けた十三戸が加わった。甚だしい痩せ地に加え、肥料・農具は不足、収穫は皆無に近く、そのためこの地を離れる者が多かった。

明日に希望を繋ぎ、家族をあげての努力を続けるうち、国の助成や融資もあり、経営の危機を続けながらも、次第に収穫物と家畜の増加をみるようになった。幾度か凍霜害・冷害・干害があって、経営基盤の浅い我々を苦しめたが全員よく耐え凌いだ。

昭和三十三年に始めた芝の作付けはこの地に適するため、急速に拡がり、全国有数の生産地となるに至っている。

昭和四十年代から入郷する者増加したが、よく協力・融和し、いささかの違和もない。

むら創り四十年に際し、改めて過去の苦難を回想するとともに、将来も益々協調し、繁栄するのを願い、記念の碑を建てる。     昭和六十年十一月吉日               南作谷区民一同

⑧碑文(裏面)  建立者氏名、入植者故人氏名

⑨現在の状況  南作谷公民館の傍の神社横に建立

茨城県

六ツ野地区

アクセス

六ツ野地区  08-221-

 

①調査日  令和7年4月22

②所在  茨城県ひたちなか市中根 千勝神社境内

緯度・経度:36.4069418932461,140.5459962362073

③地区の沿革  

④設置年月日  平成4年11月吉日建立

⑤設置者  

⑥碑文(表面)  開拓の碑 勝田市長 清水昇書

⑦碑文(裏面) 昭和22年4月河部弥十郎山形県に請願し県外入植の許可を受け7月20日出発7名勝田町大島に掘立小屋を建て逐次後続を招き 建築土工援農等で稼ぎ共同生活をし乍ら茨城県に対し入植許可入植地の設定を請願する 8月22日六ツ野地区の現地踏査 昭和23年3月22日枝川小学校に於て那河地方事務所より川野課長 平野係長 勝田町より高野農業会長 清水課長 出席して●拓農地に関する説明会で六ッ野地区の開放も発表された 3月8日●地取得経営の意見を巡り話し合い譲らず共同生活を解散し大島残留 市毛 六ツ野に分散夫々組に入植運動を展開する 一方昭和23年6月樺太引揚者3名勝田町津田に寄宿して入植地の請願を行う

昭和24年2月県外入植

請願者中の11名に仮入植の許可が下り 六ツ野第二開拓組合を設立4月13日●入式挙行

昭和24年8月16日 六ツ野第二開拓農協の設立認可を受け住宅開墾補助金営農貸付金の交付貸付を受け各へ配分地の開墾営農建築等に励み食糧増産に依る新日本の建設に●●努力 昭和30年勝田市各開拓単協合併を協議し31年3月31日勝田地区開拓農協設立認可運営●と共に向上し自立可能として昭和48年3月解散して開拓を終る

⑧現在の状況  千勝神社境内に建立

茨城県

茨城県・大八洲

アクセス

茨城県守谷市と常総市に位置する大八(おおや)洲(しま)開拓は、利根川と鬼怒川の合流地に近い湿地帯と、関東ローム台地の原野に位置し、強酸性土壌の土地だ。

満州の大八洲開拓団が、戦後1年間にわたる流浪避難の末、生き残った40戸が入植したのが4611月。

当初から、全面共同で開墾と耕作に当たったが、47年から7年間、相次ぐ川の氾濫などの水禍に見舞われ、収穫は一粒もないほどの窮地に立たされた。

55年にようやく念願の堤防が完成し、再建の道が開けたかに思われたが、5859年と続けて台風で堤防が決壊し、田畑が押し流され、住宅や畜舎など全ての建物が全半壊という深刻な打撃を受けた。

しかし、組合の共同体制で住宅、畜舎など建設を進めて難局の打開を図った。自治体、開拓組織などの指導援助もあり、堤防は1年で復旧され、奇跡的な復活を遂げた。

水田面積は100haに達し、69年にはライスセンターが設置された。

満州開拓の時から有畜農業を目指してきたので、入植翌年から鶏、豚、乳牛など様々な家畜を導入して共同飼育に取り組んだ。個人経営に移行した56年頃から、養豚や酪農の経営に集中してきた。

また、乳雄肥育から始まり、肉用牛の一貫経営も盛んになった。

2000年に入ると、乳製品加工所として「ミルク工房もりや」がオープンし、ヨーグルトなどの乳製品の製造・販売をしている。

76年に入植30周年を記念して、農協敷地内に開拓碑が建てられた。

「偕に拓き共に築く」の碑文は、初代組合長佐藤孝治氏の執筆による。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2026年3月 茨城・大八洲

大八洲(おおやしま)  08-224-

 

①調査日  令和4年5月17

②所在  守谷市板戸井

緯度・経度:35.9668255300993,139.9541623073959

③地区の沿革  満州から引揚者らが昭和2111月に入植した。

④設置年月日  昭和5111

⑤設置者  大八洲開拓農業協同組合

 組合長 佐藤 孝治

⑥碑文(表面)  皆に拓き共に築く 

⑦碑文(裏面)  大八洲開拓由来の記

昭和十四年一月満州第一次弥栄村開拓団の分村として、三江省樺州県 千振街柳毛河に入植大八洲開拓団が結成された。苦汁六年余開拓団の基礎が漸くまとまりかけた昭和二十年八月、不慮の時局に際会し満州開拓の夢は消え一ヶ年に亘る流浪避難の生活を経て、翌二十一年六月から九月までに引揚げ帰国すると同時に、何もないみすぼらしい姿で、当地に再度の開拓に望みを託して入植した。昭和二十一年十一月十日である。以来三十年あらゆる苦難を乗り越えて今日の基礎をつくり上げることの出来たかげには、組合員の言語に絶する血と汗と涙の努力の積み重ねた結果でもあるが、国策としての開拓行政を基本に県の適切な施策、入植受入れの地元市町村当局の懇切な援助、更に関係各機関・各種団体・開拓者組織の指導、それにも増して地元住民各位の数々の温情あふるる協力の賜であると深く感謝する。

この数々の厚い恩恵に報いる道は只一つ私ども心を一にし更に前進を続け、時代に即した組織農業をつくりあげる事にあると信ずる。入植三十周年に当り各位の恩情に深く感謝するとともに、未知の前途を切り開く決意を披攊し記念の言葉を記す。

大八洲開拓農業協同組合

組合長 佐藤 孝治

⑧現在の状況  大八洲開拓農業協同組合敷地内で管理されている。

茨城県

下館

アクセス

下館  08-227-

 

①調査日  令和4年5月17

②所在  筑西市藤ヶ谷

緯度・経度:36.2655539675490,139.950006038353

③地区の沿革  下館飛行場が解放され、昭和21年2月入植する。

④設置年月日  昭和58年4月29

⑤設置者  関城開拓農業協同組合

⑥碑文(表面)  拓魂   開拓者記念碑

此の土地は支那事変及大東亜戦争中旧陸軍宇都宮飛行学校下館分教場跡地である。私達は戦後食糧増産の為め昭和二十一年二月、政府より開拓者とし開拓を初め幾多の困難を克服し戦後の食糧難を克服し、現在の集畑となった。   

中山喜八郎

昭和五十八年四月二十九日建

⑦碑文(裏面)  関城開拓農業協同組合

清算人代表 中山喜八郎 

副 大高 弘

会計 小波正二ほか組合員氏名

⑧現在の状況  下館飛行場跡地の靖空神社で管理されている。

茨城県

本新

アクセス

本新(もとしん)  08-229-

 

①調査日  令和4年5月16

②所在  稲敷市本新

緯度・経度:35.9482740960472,140.468909840801

③地区の沿革  昭和21年7月、霞ヶ浦の東南端夢の浮島と本新島に抱かれた蓑和田浦と呼ばれる公有水面五百余町歩を新工法サンドポンプによる築堤工事を行い干拓。昭和28年に第1次入植者36戸の手により開拓の鍬入れがなされ、第3次入植を含め191戸が入植した。

④設置年月日  昭和4811月3日

⑤設置者  本新農業協同組合員

     土地改良区 東部水道管理委員会一同

⑥碑文(表面)  開拓碑

干拓は国土の創造である。秀峰筑波がその影を映ずる霞ヶ浦の東南端夢の浮島と本新島に抱かれた蓑和田浦と呼ばれる公有水面五百余町歩に終戦直後の国民食糧逼迫その極みに達した昭和二十一年七月、国の委託事業として株木政一氏により干拓着工となる。緊急開拓五ヶ年計画の国策樹立実施に伴い、国営事業茨城県代行工事となる。天候の急変に一瞬にして荒海原と化す名湖霞ヶ浦の中に、新工法サンドポンプによる築堤工事日本農業土木技術の粹と英知を結集工事進行中の昭和二十八年四月二十一日、夕日映ずる湖水の中の真新らしき砂の堤防上仮宿舎に、山形県宮ノ下、大林、若林の三開拓地区並に山梨県梨ケ原開拓地区からの第一次入植者三十六戸の手により開拓の鍬入れが行われることに初まる。同年六月本新島開拓農業協同組合の設立と干拓促進協議会の発足を見る。翌二十九年四月、県内出身者九十戸、千葉県八戸、山梨県一戸、の九十九戸、第二次入植す。全地区内湖水の排出された三十一年四月、第三次入植者 県内四十二戸、山形県九戸、千葉県五戸により総勢百九十一戸の入植完了となる。十月地区中央部に六十四坪の組合事務所新築落成を見る。三十二年六月、工費四億一千余万円、地区面積五百六十八町歩の干拓竣工となる。同年十月 百五十坪農業倉庫完成、三十三年四月、電気導入、三十四年七月、飲料水道施設完成、三十五年七月、全地区確定測量、製図完了、東村大字本新と命名土地買受完了する。三十六年十一月、干拓促進協議会として進められて来た、圃場整備、地区維持管理事業を、本新土地改良区に改組設立する。四十三年四月集会所、婦人ホーム完成する、又この間、三十一、二年の両年に亘り、近接、東村、櫻川村、麻生町、牛堀町、潮耒町の五ヶ町村からの、三百四十二戸の増反者を迎え、共に、営農の拡大、安定と新らしい村づくりを、自から選んだ天職として開拓者一同一致団結を堅く、営々努力を続けて二十年を過ぐる今日、米三万五千俵、三億五千余万円、乳牛約二千頭、牛乳七百万キロ、四億五千余万円の年間生産を挙げ、全ての文化機具を持つ新農村の完成を見たるは、十年余に亘る干拓基本工事に寝食を忘れ努力を続けられた技術陣と関係機関各位と、入植開始より今日までの二十年を越える長きに亘り、日々御協力と御指導賜った全ての関係機関各位の功績と、開拓者の栄光を永遠に傳える碑を建て、新村の限り無き繁栄と、平和の守神、鹿島神社鎮座を得て開拓に二十周年記念事業とする

題額 撰文 組合長 細谷登喜雄  酒井雲壑書

昭和四十八年十一月三日建立

本新農業協同組合員一同

本新土地改良区一同

東部水道管理委員会一同  

結城郡千代川村柴山石材工業(株)刻

⑦碑文(裏面)  無し

⑧現在の状況  本新婦人ホーム地内で管理されている。

1 2 3 4 5
pagetop