関東地方
千葉県
千葉県・南園
千葉県白井市の南園(なんえん)開拓は、県の北西部に位置し、東京都心へのアクセスも良好な地域である。
標高は20~30mの台地で、46年の入植当時は、松やクヌギなどが繁茂した民有地の山林だった。
当地に入植してきたのは、終戦まで南方(マレーシア)でゴム園を経営していた22名の人達であった。しかし、南方では現地の人を雇って農園を経営していたので、農作業の経験が浅く、自分達自身の手での開墾は辛苦を重ねることとなった。
48年には、南方でゴムの生産に携わっていた人達が入植したことに由来して、「護謨(ごむ)従業員(じゅうぎょういん)開拓農協」という、全国的にも珍しい名前の開拓農協が発足した。
入植当時の作物は、小麦、陸稲、サツマイモなどだったが、思い通りの収穫とはならなかった。
59年には、畑地灌漑(かんがい)用の大型ポンプを設置して、畑全体にスプリンクラーで散水できるようになり、干ばつ時にも生産性を上げることができるようになった。
また、白井市で百年の歴史があり、元々盛んだった梨の栽培も導入して活路を開いていった。
組合員の数年に亘る努力の結果、34㏊の農地を作り上げた。
01年に、「開拓の碑」が灌漑(かんがい)用のポンプが収納されていた小屋の敷地に建てられた。
碑文には「南園の命名については、現地が白井市(当時白井村)の南端に位置していること、更に、組合員一同が第二の楽園を建設しようという思いが込められている」とある。
現在は住宅地に変貌しているが、梨などの果樹園が所々見受けられる。ここの情報を掲載した「開拓情報」
南園 12-232-2
①調査日 令和7年4月22日
②所在 千葉県白井市冨士226
緯度・経度:35.7757542206041,140.025088244837
③地区の沿革
④設置年月日 平成13年5月吉日建立
⑤設置者
⑥碑文(表面)
開拓の碑
南園は昔、源内山と呼ばれ、松・檪・灌木等が繁茂した民有地の山林であった。
農地改革に伴い、終戦まで外地南方に於いてゴム栽培経営に従事していた有志が、内地引揚後、昭和21年現地に入植し、手開墾にて辛苦を重ね、23年護謨従業員開拓農業協同組合を設立、組合員22名の数年に亙る努力の結果、34ヘクタールの農地を造り上げ、食料増産に貢献して来た。
尚、昭和33年には、千葉県下に先駆け画期的な畑地かんがい事業を、富士南園土地改良区設立を基に計画着工、翌34年に事業費1000万円で諸施設を完成、旱魃時にはスプリンクラーで水をふんだんに、畑地全面への散布が実現した
顧みれば、50有余年、故人・先輩から引き継がれた粒粒辛苦の実績は、南園そのものである。
因みに、南園の命名に就いては、現地が白井市(当時白井村)の南端に位置していること、更に、組合員一同が第二の楽園を建設しようという思いが込められている。
ここに、開拓の年輪を碑に刻み、後世に伝えるものとする。
平成13年5月吉日建立。
⑦碑文(裏面) ※裏面には20名の氏名が刻まれている
⑧現在の状況 白井ふじこども園が傍にある。
東京都
聖跡開拓公苑
聖蹟開拓公苑 13-224-1
①調査日 平成29年4月9日
②所在 東京都多摩市連光寺3丁目
緯度・経度:35.6394879625854,139.4634181524483
③地区の沿革
④設置年月日 (ア)昭和38年4月
(イ)昭和38年8月
⑤設置者 (ア)満州開拓殉難碑建設委員会
(イ)全国拓友協会
⑥碑文(表面) (ア)拓魂
(イ)満州開拓殉難者之碑建設の由来
(上段)この碑は、満蒙の昿野に無惨に散った八万の開拓者とその人々を守りつつ、自らも逝った関係者多数の御霊が合祀してあります。
昭和七年(1932年)はじめられた満洲開拓事業は満蒙の天地に世界に比類なき民族協和の平和村建設と祖国の防衛という高い日本民族の理想を実現するために重大国策として時の政府により行われたものであります。
凍土をおこし黒土を耕し、三十万の開拓農民は日夜祖国の運命を想いながら黙々と開拓の鍬を振いました。然し、その理想の達せられんとした昭和二十年の夏、思わざる祖国の敗戦により、血と汗の建設は一瞬にして崩れ去り、八万余の拓士と関係者は、満蒙の夏草の中に露と消えていきました。そして、そこには未だ一輪の花も供えられたことはないのです。
ここに同志相図り、水清きこの多摩川の丘に一碑を建てて祖国の民族のために雄々しく不屈の開拓を闘い抜きそして散っていった亡きこれらの人々の御霊をお祈りすると共に再びかかる悲しみのおこることなき世界の平和の実現を心からお祈りせんとするものです。
昭和三十八年 建設委員長 安井謙
(下段)上掲の由来文にもあるように、非業に斃れた満洲開拓犠牲者の御霊を祀るべく、関係者相図り、昭和32年に国や全国都道府県の強力なご支援と、内閣総理大臣や各国務大臣を歴任された方々など多くの有識者のご理解とご協力のもと、満洲開拓殉難者之碑建設委員会(委員長安井誠一郎東京都知事)が発足し、その後、跡を継いだ実弟の安井謙氏(後の参議院議員議長)を筆頭とする建設委員各位の並々ならぬご尽力によって、同38年ようやく満洲開拓に所縁のある景勝の地、ここ聖跡櫻ヶ丘の一角を選定して土地を取得し、その中央に拓魂碑を建立、同年8月10日に除幕式が執り行われました。さらにその後、碑の周囲を取り巻くように関係者それぞれが在満当時所属していた開拓団ごとの団碑の建立も逐次行われ、その総数173基を数えるに至り、現在見られるような拓魂公苑に整備されました。
爾来30有余年、全国拓友協会と拓魂碑奉賛会の共催のもとに、桜花爛漫の4月の第二日曜日を「拓魂祭」の例祭日と定め、毎年毎日全国津々浦々から集い来る老若男女の数はたとえ荒天風雨の日となるも1,000名を下ることはなく、各々がこの拓魂碑及び各団碑の前にぬかずき、香を焚き花を捧げ在りし日の肉親縁者や同志を偲ぶ慰霊の行事を続けて今日に至りました。
いま、私ども満洲開拓関係者の最大の悲願は、この公苑と拓魂碑等の永久護持にありますが、そのための方途として、この度理解ある関係各位のご尽力と東京都知事のご英断により、これらを都有施設としてお引き受け戴くとともに、爾後の維持管理をもお願いすることになりました。
それに伴い、ここに全国拓友協会の所有にかかる公苑敷地1,621㎡及び樹木、拓魂碑、団碑等の一切を東京都に寄付することと致しました。
拓魂よ永遠なれと念じつつ。
平成13年1月吉日
社団法人 全国拓友協会 会長 戸谷義次
⑦碑文(裏面) (ア)満州開拓殉難者之碑
昭和38年4月
満州開拓殉難碑建設委員会建立 加藤完治書
(イ)拓魂公苑拓魂碑団碑建立に尽力を戴いた。
初代委員長 東京都知事 安井誠一郎先生
第二代委員長 参議院議員 安井謙先生
東京都に拓魂公苑の敷地一切を寄付するに伴いその移管に際し、今後の拓魂碑と団碑の維持管理について特段のご尽力をされた方。
衆議院議員 水野賢一先生
東京都議会議員 小磯明先生
満蒙開拓青少年義勇軍ほか61名
(社)全国拓友協会会員一同
本文、由来文並びに裏面にある「満洲」とは、現在の中華人民共和国東北地区のことである。
⑧現在の状況 昭和38年、満州開拓に所縁のある景勝の地、ここ聖蹟桜ヶ丘の一角を選定して土地を取得し、その中央に拓魂碑が建立されている。現在、一切が東京都で管理されている。
神奈川県
北相
神奈川県
麻溝台
麻溝台(あさみぞだい) 14-153-1
①調査日 令和4年7月21日
②所在 相模原市南区麻溝台6-23-3
緯度・経度:35.5266017410437,139.4035937621720
③地区の沿革 神奈川県から選出の満州開拓団の引揚者と、津久井郡から開拓奉仕隊として参加した者ら47戸が昭和21年に解放された旧陸軍演習地に入植した。
④設置年月日 昭和55年3月15日
⑤設置者 麻溝台開拓農業協同組合員
⑥碑文(表面) 開拓記念碑
⑦碑文(裏面) この広場は、住民のみなさんの健全な体と心の憩いの場として、みなさんの共用に供しています。この地域一帯は、旧陸軍演習地として使われた荒蕪の原野でありました。昭和二十一年三月、神奈川県選出の満州開拓民が、祖国の敗戦により、満州の広野に肉親を失い、精魂をこめて拓いた開拓地を捨て、傷心落魄相国に帰り、再び裸一貫から開拓村づくりに更生の望みをかけてここに入植しこの地を麻溝台と命名し開拓を始めました。入植者の主体は、戦時中に国策として神奈川県から選出された満州開拓団の引揚者と、母体村である津久井郡青根村、青野原村から開拓協力奉仕隊として参加した者のうち当地に入植を希望した人であります。敗戦直後の窮乏は蔽うべくもなく、資金、資材、食糧の不足のため開拓事業は困難を極めましたが、入植者全員が一致協力して開墾、家屋の建設、農地の区画割、道路、上下水道、電気敷設など、諸事業を着実に計画推進し、翌二十二年八月には麻溝台開拓協同組合を設立して県に登録しました。時に耕地は約三十三町六反、組合員四十七戸でした。以来三十余年、荒地だった原野は美しい豊かな耕地となりましたが、時代の勢いによって精魂を注いで拓いた開拓農地は宅地化され現在のような市街地となりました。ここに共有地として確保した三千坪のうち公立保育園用地として一部市に無償提供し、自治会館建設のために一部分譲した残り約六百坪のこの広場を、組合員一同の意志により、開拓広場と名付け、永く住民みなさんの共用に供しようとするものです。よってここに記念碑を建立し、永く開拓の精神を顕彰します
昭和五十五年三月
麻溝台開拓農業協同組合員一同
入植者五十名の氏名
⑧現在の状況 麻溝台自治会館地内で管理されている。
神奈川県
溝上
溝上(みぞかみ) 14-153-2
①調査日 令和4年7月21日
②所在 相模原市南区麻溝台
③地区の沿革 昭和23年4月地元から25戸が入植する。
④設置年月日 平成9年10月
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 溝上開拓記念碑
相模原市長 小川勇夫 書
⑦碑文(裏面) 溝上開拓五十周年記念碑
昭和二十三年四月地元麻溝農協関係者を主体に戸数二十五戸にて溝上開拓農業協同組合を設立する
昭和四十九年七月溝上開拓農業協同組合を解散し組織も溝上自治会に変わり現在に至たる 平成九年溝上開拓五十周年を記念して溝上開拓記念碑を建てる
入植者25名、発起人5名、土地提供者の氏名
⑧現在の状況 住宅地の一角で管理されている。
神奈川県
神奈川
神奈川県
神奈川県横須賀市・十三峠開拓
2世が戻り直売所を継続
神奈川県横須賀市・十三峠開拓
神奈川県横須賀市の十三(じゅうさん)峠(とうげ)開拓は、三浦半島の東側、東京湾を望む標高100mほどの高台にあり、見下ろすと、米海軍横須賀基地が見える。
1948年、山林に23世帯が入植した。中には県の開拓者養成所を経て入植した人もいた。
馬の背のような山なので畑が狭く、斜面にも畑を作ったがそれでも量が集まらず、農協の市場出荷も採算割れが続いた。
ふもとの町から毎日のように、下肥を樽に入れて険しい山道を登って肥料とした。夜明け前には海へ行き、ドラム缶に海水をためて塩を作って販売もした。
ヤギ、牛、鶏など、あらゆる家畜も飼って、必死に生き延びてきた。
57年、組合員ら21名により、小高い丘の海が見渡せる公園に、開拓記念碑が建てられた。
港を見下ろすと、輸入食料品を満載した外国船で賑わっていた。
高度経済成長期を迎え、離農者も増え、農地は半減していった。しかし、あきらめない人達がおり、中には米軍基地に勤めながら農業を続けた人もいる。
00年を過ぎ、開拓2世たちが定年退職で畑に戻ってくると、軒先に直売所を作るようになり、近隣住民やハイキングに来た人たちに人気となった。近くの「港の見える丘」がある塚山公園に、多くの人が訪れる。
無人の直売所は年中無休で開いており、イモ類や、ホウレンソウなどの葉物、夏ミカンなどのかんきつ類の他、マーマレードなどのジャム類や漬け物などの自家製品を販売している。
直売所に自家産品を納めに来ていた開拓2世の藤本初江さんは「ここまで登って来て下さるお客さんががっかりしないよう、毎日店は開けて品物を揃えている」と話す。
また、地元の直売グループが集まって、月2回ほどふもとで直売店を開いている。
「よこすか野菜」「十三峠野菜」として、市のイベントや地元のスーパーなどに出荷している。
今も6戸ほどの開拓農家が、地元の新鮮な野菜を消費者に届けている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
十三峠(じゅうさんとうげ) 14-201-1
①調査日 令和4年7月21日
②所在 横須賀市長浦町
緯度・経度:35.2822343028638,139.6359835950886
③地区の沿革 昭和23年に20戸が入植。
④設置年月日 昭和32年1月
⑤設置者 十三峠開拓農業協同組合
⑥碑文(表面) 開拓記念碑
⑦碑文(裏面) 十三峠開拓農業協同組合
組合長、理事2名、組合員18名の氏名
⑧現在の状況 長浦三丁目公園内で管理されている。
神奈川県
神奈川県・高松山
神奈川県足柄上郡山北町の高松山開拓は、県西部の高松山の中腹にある。
標高450m程で、火山灰の酸性土壌だ。
52年に県が、高松地区を酪農開拓地区として、入植者を募集した。同年には試験入植が始まり、54年に29戸が入植して協同組合が結成された。
当初は何もない山野の土地で、開拓住宅が3戸ほどで道も無く、全てを一から始めることとなり、開墾より先に、道路と住む家を作らなければならなかった。我慢と努力が要求された。
高松地区への開拓道路が完成したのは58年で、それまでは資材運搬のための索道しかなく、人々はふもとから5㎞はあろうかと思われる急な山道を歩くしかなかった。
酪農は、乳牛2頭、子牛1頭、役牛数頭が県から貸し出され、徐々に頭数を増やしていった。当初は道も索道も無く、クーラーも無かったので、沢の水で牛乳を冷やし、夜明け前に搾った牛乳と合わせて背負い、山道を下っていく日々だった。
65年には35戸中20戸が酪農経営を行い、乳牛は140頭になっていた。
71年には、乳用種去勢牛(開拓牛)肥育が開始された。
入植当初から子どもは多かったが、学校へ通うには細い山道を下っていくしかなかった。川村小学校高松分校が開校したのは56年で、以降2010年に廃校になるまで、高松山開拓の中心となっていた。
学校の向かいの広場には、入植30周年記念碑が建っている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
高松山 14-364-1
①調査日 令和4年7月22日
②所在 足柄上郡山北町向原5069
緯度・経度:35.3755987418883,139.11526208541
③地区の沿革 昭和28年入植。
④設置年月日 昭和60年10月12日
⑤設置者 高松山開拓農業協同組合
⑥碑文(表面) 開拓記念碑
高松山開拓農業協同組合
⑦碑文(裏面)
本組合は戦後極度に悪化した我が国の食糧増産の使命を担うため緊急開拓事業として昭和二十八年六月十六日に発足し高冷不毛のこの地に入植して以来満足な家もなく粗末な衣服をまとい野望を糧とし掘立小屋にランプ生活を送りながら使命達成のため開墾農道開設あるいは住宅畜舎の建設を進め文字どおり裸一貫から想像を絶する苦難と試練の日々を乗り越えて今日に至った ここに開拓三十周年を迎えるに当り不倒不屈の開拓精神と先人の偉業を永く後世に伝え心の糧とならんことを願い記念碑を建立する
昭和六十年十月十二日
高松山開拓農業協同組合
組合長理事小宮新一 ほかに理事4名、監事3名、 組合員29名の氏名
⑧現在の状況 高松山の中腹に建立されており、周辺には数戸の住宅を確認。
神奈川県
中津
中津 14-401-1
①調査日 令和4年7月21日
②所在 愛甲郡愛川町中津
緯度・経度:35.5095911905784,139.3454386882615
③地区の沿革 終戦と同時に軍用施設は解体し、全用地の管理を中津村農業會が受託した。無耕地農民を優先とし、未復員者を考慮して配分し開墾を行う。
④設置年月日 昭和31年8月
⑤設置者 中津村農業委員會
中津村農業協同組合
⑥碑文(表面) 開墾記念碑
中津村は古くから専ら養蚕を営み此耕地の大半は柔林帯であったが支那事変が拡大した昭和十五年二月突如陸軍省は飛行場設置の為約三百町歩を買収した 農民は晴天の霹靂に呆然自失し職を失い業を轉ずるに到るも国家の危急に際し犠牲を忍び涙を呑んで耕地を提供したのである 昭和二十年八月終戦と同時に施設は解体せられ全用地の管理を中津村農業會に委託せられたが前年來未曽有の凶作が連續し極度の食糧飢饉となり農民すら食を草根に求むる惨状を呈した為農業會は国内混乱のさ中に在て上司の許可を待たず技術官を聘して測量を進め区画を整理し無耕地農民を優先とし労力を参酌し未復員者を考慮して配分し開墾せしめたのである 農家は直ちに家族挙って鍬を揮い円匙を踏み堅土を起し食を割いて種子として乏しき肥料を施して作付したのであるが其悲壮なる努力は筆舌に絶し辛く若干の収穫を得て命の糧としたのである かくして此耕地は農民の手に復帰し本村の命脈とし幾多生存の危惧を脱し茲に十年の星霜を閲し今や整然たる区画と豊穣の作況を現実に展望し往時を回想し轉た感慨無量なり仍て梗概を誌し後世への記念とする
中津村農業委員會
中津村農業協同組合
⑦碑文(裏面) 無し
⑧現在の状況 中津工業団地第2号公園の端に建立。



















