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開拓記念碑調査事業

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中部地方

新潟県

「五十嵐浜開拓団 開拓記念の碑」 新潟市西区真砂

アクセス

五十嵐浜開拓団 開拓記念の碑

新潟市西区真砂

新潟県新潟市西区真砂の住宅地内の小さな公園に、開拓記念碑がある。同地区(旧・西蒲原郡内野町)は戦前、不毛の海岸砂丘地だったが、戦後開拓事業が実施された。

1946(昭和21)年頃、新潟市内居住の引揚者から、同地区を開拓地に設定するよう、県に熱心な陳情が続いた。やせた砂丘地で、適地とは言い難かったが、開拓地を最大限確保する必要性から、県は同地区の取得に取りかかった。

入植希望者は案外多かった。4911月、11戸の農家が入植し、五十嵐浜開拓農業協同組合を設立した。標高1~16m、面積52㌶の荒涼たる砂原だった。入植者は、地区の海岸寄りに砂防垣を設け飛砂防止に努めるとともに、開墾作付けや、定住のための各種作業に専念し、数年が経過した。

やせた地力に加え、風害や日照りが相次ぎ、伸び悩みの農業生産に、開拓者の闘志も鈍りがちだった。

養豚経験者が、都市近郊の特殊環境を活用し、残飯主体の養豚を始め、大規模経営に発展した。これに啓発された他の開拓者も、養豚や酪農などに力を注ぎ、一大畜産団地が形成された。

一方、新潟市が発展して大きくなりつつあった。5859年、地区縦断の産業道路が整備されてから、急速に街並みが伸びることになり、近辺一帯の農地転用が著しく増加した。60年1月、内野町は新潟市への編入合併により、町名は真砂町となった(現・西区真砂)。

現在は宅地となり、昔日の開拓地の面影はない。住宅地にある記念碑は、同開拓農協が67年9月に建立したもので、碑銘は「五十嵐浜開拓団 開拓記念の碑」。

裏面には、碑文と入植者11名の氏名・生年月日が刻まれている。碑文の後段には、「入植以来飛砂風雪とたたかい熱砂旱魃に耐え親和協力し よく営農の実をあげ子孫の道を開いた」「当時の姿と努力を偲んでここに記念碑を建て後世に伝えるものとする」と記してある。

 

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2022年3月 新潟・五十嵐浜

五十嵐浜(いからしはま)  15-107-1 

 

①調査日  平成30年4月11

②所在  新潟市西区真砂

緯度・経度:37.8923512727566,138.9820056699274

③地区の沿革  昭和2411月標高1~16米、面積52㌶の荒涼たる砂丘地に11戸が入植。

④設置年月日  昭和42年9月15

⑤設置者  五十嵐浜開拓農業協同組合

⑥碑文(表面)  五十嵐浜開拓団 開拓記念の碑

      新潟県知事 亘 四郎

⑦碑文(裏面)  此の附近一帯(眞砂町5821番地)は裏日本特有の飄々とした不毛の砂丘地であったが太平洋戦争後 国の食糧増産の一旦を担い生活の礎を築こうと昭和2411411戸の農家が入植して五十嵐浜開拓農業協同組合を設立した

 入植以来飛砂風雪とたたかい熱砂旱魃に耐え親和協力しよく営農の実をあげ子孫の道を開いた 昭和35111日内野町が新潟市に合併され大新潟市の住宅地として目覚しい発展をとげ現在の姿となった 当時の姿と努力を偲んでここに記念碑を建て後世に伝えるものとする

昭和42915

     五十嵐浜開拓農業協同組合

  入植者11名の氏名と生年月日

⑧現在の状況  住宅地内の小公園に立地し、管理されている。

新潟県

小栗田原

アクセス

小粟田原(こわだはら)  15-208-

 

①調査日  平成30年4月11

②所在  小千谷市小粟田

緯度・経度:37.3407986715118,138.7947478186323

③地区の沿革  雄大な規模の栗田原段丘で米作りが悲願であっが、昭和26年頃より海抜85メートルの段丘に信濃川流水を揚げる構想が、開拓パイロット事業第1号として36年に着工する。

④設置年月日  昭和49

⑤設置者  小千谷土地改良区

⑥碑文(表面)  小粟田原開拓記念碑

   内閣総理大臣 田中角栄 書

⑦碑文(裏面) 海抜八十五メートル 雄大な規模を誇る小粟田原段丘は近世まで雑木原生林に覆われた荒野であったが、代々農民のたゆみない勤労で明治以降その大半は徐々に畑地となり雑穀蔬菜等が栽培されてきた。しかし高台地のため年々旱魃に悩まされ収穫は微々たるものであった。したがってこの大地に大川の水を揚げ米を作ることができたらということは、昔から地元民の夢であり悲願でもあったが、それは実現不可能とされていた。明治三十六年 塩殿に発電所が開設されたとき、その付帯事業として通水が計画され、その後も幾度か話題にのぼったがいずれも陽の目を見ずに時は流れた。

昭和二十六年ごろより千城土地改良区が隣接各地区の揚水開田事業を推進中、ついに待望の信濃川流水による小粟田原台地への揚水が可能であることに確信をいだいた。昭和二十九年十一月、千城土地改良区理事長小林一夫氏が、初めてその開拓についての構想と企画を公表提唱され、翌年に小粟田原開発協議会の結成を見、直ちに関係機関への陳情と事業計画樹立のスタートが切られた。昭和三十五年、小粟田原土地改良区が設立され、翌三十六年、ようやく国の認証による全国総合開拓パイロット事業第一号として、県営事業着工されることとなった。思えば前後約八年間、内外幾多の曲折は誠に言語に絶するものがあったが、よくその苦難を克服しついに昭和三十八年 なお幾多の難問題を包容しつつも開拓の斧が打ちおろされた。昭和四十年、揚水基幹工事に着手、超えて四十三年九月待望の竣工式が挙行された。この間、千城・小粟田原両土地改良区が合併して、小千谷土地改良区となり、以後の整理作業を進め、昭和四十九年、換地登記もすべて終了し、文字どおり全事業の完工を見た。

開拓面積五三八ヘクタール 関係組合員一○二三名 総工費九億円 第一揚水機場二基 馬力二五〇キロワット 揚程九メートル 第二揚水機場二基 馬力一〇二五キロワット 揚程四六メートル 揚水量毎秒一.八トン かくして発足から完成まで実に二十年の年月を費やしたがまさに地元民多年の夢はここにかなえられたのである。

精神一到何事か成らざらん。今、広々と果てしない美田の一角に立ち、過ぎこし方を思うとき小林一夫氏を中心とする関係者一同の終始一貫した磐石の団結と不退転の意思 血涙のにじむ努力は、後に続く者をして奮起せしめずにはおかないものがある。

ここに記念の碑を建てるにあたり経過の一端を刻して永く高くその偉業を偲ぶ。

昭和四十九年中秋   小千谷土地改良区

⑧現在の状況 小公園として整備、管理されている。

新潟県

十日町

十日町  15-210-

 

①調査日  平成30年4月11

②所在  十日町市原町

③地区の沿革  昭和23年新設ダム幹線道水路工事を着工、30年完工し、3150町歩の開田を行う。

④設置年月日  昭和5311

⑤設置者  倉俣区 新里区

⑥碑文(表面)  治水墾田

津南郷土地改良区理事長 祢津文雄書

⑦碑文(裏面)

昭和二十年終戦を期に同二十一年国営にて食糧増産緊急開拓事業として県農業会代行倉俣農業会に事務所を置き着工し同二十三年農水省水沢津南事業所新設ダム幹線道水路着工同三十年完工開田計画により同年正面ヶ原土地設立加入す同三十一年開田に着手同三十六年五拾町歩の開田完了初代理事長祢津文雄倉俣地区理事高橋●蔵当時の部落委員岡村英一斉喜政治岡村佐七島田嘉治高橋熊蔵桒原金治高橋秀●原亀平桒原政義済喜隆一昭和五拾参年拾壱月融資償還完了記念し之の碑を建立す

 昭和五拾参年拾壱月吉日  

倉俣区  新里区

⑧現在の状況  地域内で管理されている。

新潟県

新潟県妙高市・大洞原開拓

アクセス

開拓之碑
新潟県南西部に位置し、長野県に接している妙高(みょうこう)市関山は、国内有数の豪雪地帯。戦後、県内最大の入植があったが、残り得たのは25戸の大洞(だいどう)原(はら)開拓集落のみだった。
1946(昭和21)年、妙高山麓の標高600㍍の高冷地に入植したものの、厳寒のため49年に400㍍の現在地に移動。雪深い地域だったが、永住の地と定めた。広大な山野を控えながら稲作しかない地帯に、開拓者達はバレイショ原種栽培や高冷地抑制トマトなどの畑作園芸を取り入れ、酪農も興した。現在、高原の開拓地内では、トマト栽培など高冷地野菜を中心とした営農がされている。
開拓記念碑は87年、開拓地の集会所敷地内に建立された。碑銘は「開拓之碑」で、裏が碑文と入植者氏名となっている。碑文の後段には、「時代の変遷に伴い目的は夫れ夫れ変化しつつあるが開拓一世が残した足跡は厳然として存在するものである」と記してある。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2018年6月 新潟・大洞原

大洞原(だいどうはら)  15-217-

 

①調査日  平成30年4月11

②所在  妙高市関山

緯度・経度:36.9166591149539,138.2087367768678

③地区の沿革  昭和21年に妙高山麓の標高600米の高冷地旧関山村五最地区に入植した25戸が、厳寒のため昭和24年標高400米の現在地に移転し入植した。

④設置年月日  昭和62

⑤設置者  入植者

⑥碑文(表面)  開拓之碑

⑦碑文(裏面)

 昭和二十一年妙高山麓の開拓として旧関山村五最地区に入植せるも諸種の事情により昭和二十四年春現在地を開拓し永住の地を定む 当時二十五戸の同志は現在二十三戸となり若干の変動はあったものの今も尚其の意志を継承す 時代の変遷に伴い目的は夫れ夫れ変化しつつあるが開拓一世が残した足跡は厳然として存在するものである よって開拓四十周年し後世に事業遂行の意義の一端の認知を期待するものである

   昭和六十二年吉日 建之    入植者23名氏名 

⑧現在の状況  高原の開拓地の集会所敷地内に立地し、開拓地内はトマト栽培など高冷地野菜を中心とした営農がされている。大同原バス停横

新潟県

大平峠

大平峠  15-225-

 

①調査日  平成30年4月11

②所在  魚沼市福山新田

③地区の沿革  昭和26年に馬場源太郎外有志が食糧増産の使命感に燃え入植。

④設置年月日  未確認

⑤設置者  大平峠開拓農業協同組合(未確認)

⑥碑文(表面)  記念碑

(調査時1.5mの積雪で碑文等確認できず)

大平峠開拓地は昭和26年 第二次世界大戦後の極めて食糧難の折馬場源太郎外有志が食糧増産の使命感に燃え開拓の鍬を入れたものであるが時代の変せんにより昭和47年開拓農協を解散し苦難を語る記念とするものである

⑦碑文(裏面)  未確認

⑧現在の状況  魚沼市の「山の家」近くにある。

         (鮮明な写真はhttp://ryos-web.mydns.jp/page.php?pid=201309222

から転載)

新潟県

「開拓之礎」 新潟県阿賀野市・畑江開拓

アクセス

「開拓之礎」

新潟県阿賀野市・畑江開拓

 

新潟県では65地区で戦後開拓事業が実施された。下越地方に位置し、新潟市に接する阿賀野市は04年に旧・北蒲原郡安田町、水原町、京ヶ瀬村、笹神村の4町村が合併して発足。旧・笹神村の畑江地区には、旧・満州(現・中国東北部)からの引揚者等が入植した。

満蒙開拓移民事業により、旧・南蒲原郡の町村で構成する「刈谷田郷開拓団」は45(昭和20)年夏に渡満したが、荷物の到着も待たずに終戦を迎えた。悲運の開拓団は死線を越えて引き揚げたものの、住む場所もなく、同郡見附町で待機した。

46年9月、同開拓団のうち21戸が畑江地区に入植。用地は国有林で、扇状の緩傾斜地だった。地元縁故者も加わって、開拓事業が始まった。地元縁故者以外は、共同小屋から出発し、生活も作業も共同で進められた。

開畑を計画したが、石(せき)礫(れき)が多く、開墾・耕作ともに困難で、可耕地が少なかった。また、春から夏にかけて季節風が強く、作物の地上部が傷めつけられた。不慣れな帰農者が大半を占めていたこともあり、営農は伸び悩みの期間が長く続いた。畑作の基幹形態を決め難いままに、営農は養蚕、畜産などの方向に分かれた。

同市畑江の畑江公民館の敷地内に開拓記念碑があり、地区内で管理されている。畑江開拓農協(76年解散)の顕彰を記念して、97年に建立されたもの。周辺は中山間地で、畑作、畜産を中心に営農が行われている。

記念碑の碑銘は「畑江開拓農業協同組合顕彰記念之碑 開拓之礎」。裏面には碑文と組合員氏名が刻まれている。碑文には、「当時、戦後の食糧難と合わせてほとんどが手作業による山林開墾という重労働は想像を超えたものであった。それこそ毎日が貧困と重労働による二重の生活苦との戦いであった」「以来、苦節五十余年が経過し、ようやく人並みの生活基盤を持つことができるようになった」と記してある。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2021年3月 新潟・畑江開拓農業協同組合 開拓之礎

畑江  15-223-

 

①調査日  平成30年4月11

②所在  阿賀野市畑江

緯度・経度:37.8251318761129,139.2992327703164

③地区の沿革  満州引揚者を主体に21戸が、国有林が解放され、昭和21年9月に入植した。

④設置年月日  平成911

⑤設置者  畑江開拓農業協同組合組合員

⑥碑文(表面)

畑江開拓農業協同組合顕彰記念之碑

     開拓之礎   組合長 渡邉隆司 著

⑦碑文(裏面)  昭和二十一年(一九四六)九月一日、満州開拓引揚者を主体に二十一戸がここ笹神村(笹岡村)畑江(勝屋)の地に入植し、開拓事業がはじまる。当時、戦後の食糧難と合わせてほとんどが手作業による山林開墾という重労働は想像を超えたものであった。それこそ毎日が貧困と重労働による二重の生活苦との戦いであった。

そのため昭和二十六年頃になると、貧困と重労働 それに将来の希望が持てないということから離村者が出はじめるようになったが、新しい入植者もあったりして戸数減ということにはならなかった。

以来苦節五十余年が経過しようやく人並みの生活基盤を持つことができるようになった。

昭和五十一年三月三十日付けで、新潟県通達の解散命令により畑江開拓農業協同組合は解散となる。

平成九年十一月、これまでの畑江開拓農業協同組合の顕彰を記念してここに記念碑を建立する。

            下段に組合員47名氏名

⑧現在の状況  畑江公民館敷地内に立地し、管理されている。

富山県

富山県・万願志

アクセス

若い団結力で不良土壌を克服

 富山県富山市の万願志開拓(地名は万願寺)は、県のほぼ中央に位置する台地で、標高は90240m。積雪量は約1・5mとなっている。

 土壌は赤土の粘土質で、強酸性の地力の乏しい土地だった。この地区の近くに、富山県農業試験場(現、県立中央農業高校)があり、当時あまり営農試験成績が上がっておらず、場長より「この土地は開拓不適地である」との勧告があった。

 しかし、1730歳の若い力を結集して事に当たり、比較的平坦な土地で、機械化農法でやればできないことはない。笹や松に覆われた不良土壌も、開墾熟畑化すれば充分な営農成果を上げることができる、との確信があった。

 20名が入植した46年から48年春までは共同経営だった。粗末な丸太小屋から、4612月には住宅資金を出し合って共同宿舎ができた。

 初めは鎌や鍬での手作業であったが、この土地を肥沃な一面緑の畑に変えるのだ、という共通の想いで頑張り続けた。

 47年にはトラクターが導入され、開墾もはかどるようになってきた。

その後は次第に個人経営に移行し、それぞれが家庭を築いていき、24年3月には完全な個人経営となった。

スイカやダイコンが主に作られるようになり、堆肥を確保するために、乳牛などの家畜も少しずつ導入していった。

 不良土壌を改善するために、堆肥などの施肥の方法を学んだり、スイカの先進地に視察に行ったりと、できる限りの最善を尽くした。

 48年には万願志開拓農協が発足し、販売部がスイカやダイコンなどの販売を行うようになった。品種の選定などもあり、大変良い品質の作物ができるようになった。

 98を増頭し、本格的に酪農を経営する農家も出てきた。

 98年には神明社(地元の氏神様)の境内に、開拓一世が中心となり、入植記念碑が建てられた。

 今も次世代の開拓者が、スイカやダイコン、酪農などを引き継いでいる。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2024年9月 富山・万願志

万願寺  16-201-

 

①調査日  平成30年5月14

②所在  富山市万願寺

緯度・経度:36.5924909933473,137.2385292704740

③地区の沿革  ダイジロ山の北方標高90240米の民有地が解放され、昭和2129戸が入植した。組合は万願志開拓農業協同組合

④設置年月日  平成1012

⑤設置者  入植者

⑥碑文(表面)  入植記念碑

⑦碑文(裏面)  第二次世界大戦後、理想の新農村を築かんと昭和二十一年春より青年等順次入し、事業に携わる。然し、農地は地力に乏しく筆舌に尽くせぬ苦労を重ねる事となるも、良く工夫と研鑽に励み関係機関並びに、地元の暖かき御協力も戴き次第に優秀なる実績を挙げ、農林大臣賞を初め数々の賞を得て今日に至る。入植以来五十有余年当地区の運営も漸次、次世代に移りこれを機に、初代間に俄かに此の碑を建立せんとする気運高まり、協力一致事に当った。

ここに我らが思いをこめて記念碑を建立す。

入植記念碑名簿順(順不同)(入植者氏名 30数名)

蒼天へ鍬ふり揚げし拓者哉

   平成十年十二月吉日

        入植者一同建之

⑧現在の状況  地区の神明社敷地内に有り維持管理されている。

富山県

富山県南砺市・立野原開拓地

アクセス

拓魂豊潤

富山県南砺市・立野原開拓地

 

富山県の西部、砺波平野の南西端に位置する立野原(たてのがはら)は、戦時中、陸軍の軍事演習場だった。45(昭和20)年11月、約600㌶の旧・陸軍用地が戦後開拓地として払い下げられ、復員軍人や引揚者らで組織する立野原開拓団によって開墾が進められた。

立野原は県内でも入植者の多い戦後開拓地だった。広大で、南砺市福光地区(旧・西砺波郡福光町)と同城端地区(旧・東砺波郡城端町)にまたがっている。戦後開拓地は山間地が多かったが、立野原の北部はほぼ平坦で、南部も傾斜の緩い台地である。標高は平均190㍍。小渓流があるが、水量が少なく、土壌は強酸性だった。白山山系の急峻な山々に接しているので初雪が早く、融雪は遅いため、作物の作付けに制約を受けた。

立野原開拓農協が設立され、土地の配分や開墾作業、土壌改良、入植施設事業などを推進した。入植者は、酪農の導入、葉タバコや野菜の栽培などに取り組んだ。

現在は、ダイコン、タマネギ、サトイモなどの野菜やイチゴ、同市特産の「干し柿」用の柿が栽培されている。また、観光農業として、「イチゴ狩り」が行われている。

福光地区に、78(昭和53)年に建立された開拓記念碑がある。大きな記念碑で、碑銘は「拓魂豊潤」、揮毫者は「農林大臣 中川一郎」。隣の副碑には碑文が刻んである。

前段に「明治の後期から終戦までの四十数年間は立野原陸軍演習場に接収され 多くの集落が解村離村を余儀なくされた」とあり、先住者が立ち退きを求められ、移転に至ったことが判る。

続いて、「戦後一転して二百十世帯に及ぶ開拓団の入植地と変わったが しかしその艱難辛苦の開墾営農は言語を絶するものであった」「昭和四十二年念願の国営刀利ダムの完成により当地の用水源が確立し 先史以来の夢が遂に実現の運びとなった」と記されている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2020年12月 富山・立野原

立野原(たてのがはら)地区 16-210-

 

①調査日  平成30年5月14

②所在  南砺市立野原西

緯度・経度:36.5167526513076,136.8602066767040

③地区の沿革  昭和2011月、約600㌶の旧・陸軍用地が戦後開拓地として払い下げられ、復員軍人や引揚者ら210戸で組織する立野原開拓団によって開墾が進められた。42年刀利ダムの完成により用水源が確立したことで優良農用団地となる。

④設置年月日  昭和53年9月

⑤設置者  立野原地区委員会

⑥碑文(表面)

 県営農地開発事業立野原地区完工記念

  拓魂豊潤  農林大臣 中川一郎

⑦碑文(副碑)  我々が生活の基盤として深い愛着をよせる「立野ヶ原」は今から約一萬五千年前先土器時代の人跡に始まり長い歴史と変遷に伴い極めて多難な道を辿ってきた 珠に明治の後期から終戦までの四十数年間は立野原陸軍演習場に接収され多くの集落が解村離村を余儀なくされた 戦後一転して二百十世帯に及ぶ開拓団の入植地と変ったがしかしその困難辛苦の開墾営農は言語を絶するものであった 昭和三十年台に入るとこの地域を含めた抜本的開発を指向する小矢部川総合開発計画が樹立なされこれに基づき昭和四十二年念願の刀利ダムの完成により当地の用水源が確立し先史以来の夢が遂に実現の運びとなった ここにおいて関係農家が総結集して一大決意を固め拓魂の機熟するにいたり 昭和四十四年県営総合農用地開発事業立野原地区として着手され以来幾多の困難を克服し長い歳月と巨費を投じて南砺を一望するこの高台に優良農用団地として新しい「立野原」が堂々完工した

偉大なる本事業の遂行にあたっては郷土の先覚松村謙三翁を始め諸先輩・農林水産省・富山県・福光町・城端町そして施工業者各位の献身的な尽力に対し深甚なる謝意を表するものである 

この恩恵に支えられ全関係農家が一糸乱れぬ団結と互譲の精神を発揮してきた偉業を讃え無窮の繁栄を祈念するものである 

昭和五十三年九月

   小矢部川上流用水土地改良区

   立野原地区委員会

   事業概要

  1.総地区面積   五八五ヘクタール

  1.農地造成面積  四四二ヘクタール

  1.総事業費    三拾二億一阡萬円

  1.工事期間    着工 昭和四十五年

完工 昭和五十三年

  1.関係組合員数  八七六名

⑧現在の状況  植栽に囲まれ綺麗に管理されている。

富山県

立野原

立野原  16-210-

 

①調査日  平成30年5月14

②所在  南砺市城端町 

③地区の沿革  昭和21年に軍用地が解放され入植。

④設置年月日  昭和513

⑤設置者  不明

⑥碑文(表面)  農魂

⑦碑文(裏面)  開拓三十周年記念

昭和五十一年三月建

⑧現在の状況  大谷島公民館前で管理されている。

富山県

富山県南砺市・利賀村開拓

アクセス

開拓記念碑
富山県の南西部に位置し、岐阜県に接する南砺(なんと)市(し)利賀村(とがむら)は、標高1000㍍を超える山々がそびえる、南北に細長い地形。村域の約9割が山林で、県内屈指の豪雪地帯でもある。
戦後、山村農業経営の樹立にあたり、水田造成を必要とし、山林が開拓地として開放された。8地区に計37戸の入植があった。だが、山肌に階段式に開墾した耕地は狭く、食糧の自給自足は困難を極めた。また、東西の交通は峠道が唯一の経路だった。
53(昭和28)年、「新農村建設計画樹立指定村」として、農林省(当時)の選定を受けた。利賀村開拓農協を設立。西側の地区では大規模な開田計画が立案された。かんがい用水を、村の東側を縦断している百瀬川から導くため、峠を貫く800㍍超の水路を掘る大工事を完成させた。歩道が併設され、村の東西が結ばれた。
その後の拡幅工事で自動車も通れるトンネルとなった。その西口に68年、記念碑が建立された。碑銘は「開拓記念碑」で、裏に碑文が刻んである。末尾には、「言うは易く行うは難し 総ゆる苦難に打ち勝った開拓者の強固なる団結心で夢の美田は完成 あゝうれしきかな同志相計り溢るる喜びと偉業を讃えこの碑を建立する」とある。
なお、トンネルは廃道(新トンネルが開通)となったが、路面地下に用水路があり、現在も使用されている。記念碑の左側には用水施設がある。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2018年9月 富山・利賀村

利賀村(とがむら)  16-210-

 

①調査日  平成30年5月14

②所在  南砺市利賀村

緯度・経度:36.45503662482127,137.0302307483321

③地区の沿革  岐阜県に接する県内屈指の豪雪地帯で、地域の9割が山林で、山林農業経営の樹立にあたり、水田造成を必要とし、山林が解放され8地区に37戸が入植した。

④設置年月日  昭和43年8月

⑤設置者  利賀村開拓農業協同組合ほか

⑥碑文(表面)  開拓記念碑

  • ●長 宮崎博至 書 

⑦碑文(裏面)  詞「衣食足つて礼節を知る」これが人生の根本理念であり、斯くあらしめることを施策の要諦とする 郷土の実態に即応し不断の努力を払われて来たのであるが、時恰も昭和二十八年 農林省新農村建設計画指定村として発足するや左の地区でそれぞれ開拓計画を立案され利賀村開拓農業協同組合を設立 野原久吉 宮崎博至 野原清治が組合長となり現在に至る。   記 地区名 代表者  千束 上田権平  阿別当 本田裕也 岩淵 久保田信次 (昭和三十八年まで)高藤栄治(同年より)利賀 野原清治  大豆谷 野原啓蔵  草嶺 荒井徳次郎 上百瀬 野原久吉  百瀬川 宮崎博至

開拓総面積二百四十町歩である 就中利賀、岩淵地区は百十二町歩で 百瀬川を利賀川筋へ導入する大事業を完成今や全村自給自足更に供出する等安定農家が創設され当初目標は完成す 言うは易く行うは難し総ゆる苦難に打ち勝った開拓者の強固なる団結心で夢の美田は完成あゝうれしきかな同志相計り溢るる喜びと偉業を讃えこの碑を建立する

(銘版下)開拓記念碑寄付者芳名(いろは順)  金十五萬円 利賀村開拓農業協同組合 以下個人名

(側面) 昭和四十八年八月建之

⑧現在の状況  地区内で管理されている。

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