中部地方
岐阜県
岐阜県郡上市高鷲町ひるがの高原
「開拓記念碑」
岐阜県郡上市高鷲町ひるがの高原
岐阜県の北西部に位置する郡上市(ぐじょうし)高鷲町(たかすちょう)ひるがの高原(旧・郡上郡高鷲村蛭ヶ野高原)は、標高900~1000㍍の豪雪地帯。夏は避暑地として、秋は紅葉狩り、冬はスキーと、一年を通して観光客が訪れる。戦後、蛭ヶ野・上野(うわの)・切(きっ)立(たて)の三地区で、緊急開拓事業が実施された。
大日ヶ岳の火山活動でできた扇状地であり、かつては、荒れ地と湿地が広がっていた。各地での開拓は、蛭ヶ野が最初。1940(昭和15)年、郡上郡の青年の鍛錬場が開設され、満州(現・中国東北部)に開拓移民として送り出された。
第二次世界大戦が始まり、戦況が悪化すると、食糧確保のために開拓が進められた。終戦後、46年に満州から引き揚げてきた開拓団員や戦災者ら約100世帯が三地区に入植し、本格的な開拓が行われた。
開拓当初からの方針で、酪農を目指した。まずは、強酸性だった土壌を改良し、主食となる作物を育て、生活の安定を図った。53年にサイロ・堆肥舎施設を建設。54年から乳牛を導入し、本格的に酪農事業が始まった。
また、焼き畑で開墾を進めながら、夏季の冷涼な気象条件を活用して、夏出しダイコンの作付けも行われた。
現在、ひるがの高原では酪農が盛んなほか、ダイコンを中心とした高冷地野菜の一大産地となっている。
同高原を縦断している国道156号線わきの広場に記念碑がある。碑銘は「開拓記念碑」。旧・高鷲村が78年に建立したもので、裏面には碑文が刻まれている。
その後段には、「四通八達した道路網は単に開拓入植者のみならず既存集落住民も亦之を多目的に利用することとなり、高冷地営農の確立とともに観光産業振興の端緒ともなり、ここにかっての荒野は転じて沃野と化し天の恵み地の利を最高度に享受していることはまことに感慨無量である」と記されている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
大日山麓 21-219-1
①調査日 令和3年4月21日
②所在 郡上市高鷲町ひるがの高原
緯度・経度:35.9986112053134,136.9012579040323
③地区の沿革 高鷲村大日山中腹の標高900~1000米の蛭ケ野地区、上野地区、切立地区合わせて約千百七十八ヘクタールに及ぶ山林原野が土地保有者の協力で解放され入植。開拓先駆者の功を称え広く協力者に感謝を表した。
④設置年月日 昭和53年10月
⑤設置者 高鷲村
⑥碑文(表面) 開拓記念碑
⑦碑文(裏面) 碑文 第二次世界大戦による敗戦の結果は、日本国内の情勢を根底から変革させた。これに伴い終戦直後立法化された開拓五カ年計画が遂行され、わが高鷲村にもいち早く開拓地建設が強く要請された。幸いにして土地保有者の大乗的見地に立った協力により蛭ケ野地区約五百八ヘクタール、上野地区約四百四十ヘクタール、切立地区約二百三十ヘクタール、計約千百七十八ヘクタールに及ぶ山林原野が買収され、その大部分が新入植者に譲渡された。爾来山下寛治氏を中心とする開拓者の心境を傾注した努力と公共機関の指導力とが相俟って新集落の誕生を見るに至った。
特に四通八達した道路網は単に開拓入植者のみならず既存集落住民も亦之を多目的に利用することとなり、高冷地営農の確立とともに観光産業振興の端緒ともなり、ここにかっての荒野は転じて沃野と化し天の恵み地の利を最高度に享受していることはまことに感慨無量である。 ここに開拓先駆者の功を称え広く協力者に感謝を表し「開拓は地球を彫刻する最高の芸術である」の古諺を付して碑文とする。
昭和五三年十月 高鷲村長 簑島政一
⑧現在の状況 地区内で管理されている。
岐阜県
岐阜県・上野
乳と蜜の溢れる里めざして
岐阜県高鷲町にある上野開拓は、郡上市の北に位置し、白山国立公園の南側の標高900mほどの雪深い地区だ。周りにはいくつものスキー場がある。
上野開拓は1945年から、開拓適地として入植が始まり、山林原野約450㏊が開墾された。
55年に機械開墾が始まるが、それまでは手開墾に頼るほかなく、頑強に張りめぐった笹や樹木の根を打ち切り、土をふるい、石を除く作業が来る日も来る日も体力の続く限り続いた。
開墾を続けるためには、何よりも生活の糧を得ることが先決だったので、疲労に加え生活苦は、当時の開拓者にあたえられた苦しく、つらい試練であった。
56年に、同じく開拓地の大日(だいにち)地区、切(きっ)立(たて)地区の3地区が合併し、大日山麓開拓農業協同組合を設立した(この地域は、西部にある大日ヶ岳の火山活動でできた扇状地)。この地域には、観光地でもある「ひるがの高原」がある。
強酸性土壌を改良しながら、ダイコンを中心とした高冷地野菜に力を注いできた。
54年頃から開拓の指導者が北海道酪農を手本に、この地を「乳と蜜のあふれる里」にしようと目標を掲げ、酪農をスタートさせた。
57年から少しずつ牛乳が出荷できるようになったが、豪雪の時はソリで運んだこともあった。当時としては斬新なパイプラインを約7㎞に渡って敷設するなど、大変な苦労と努力を重ねてきた。
それでも、着実に成果を上げ、88年には、高鷲村酪農生産組合として、農林水産大臣賞(中日農業賞)を受賞した。
84年に、「上野を拓く」と刻まれた記念碑が、白山神社前に建てられた。
記念碑には「入植者の不退転の努力により、厳しい自然条件をも克服し、高冷地を活かした営農体型の確立で、人類の生活を拒み続けたこの地域が、今では理想と安らぎの新天地として生まれ変わるまでに至った」と記されている。
高鷲町には三白産業(雪・牛乳・ダイコン)があり、上野地区にも兼ね備えられている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
上野 21-219-2
①調査日 令和3年4月21日
②所在 郡上市高鷲町
緯度・経度:35.9768599555209,136.911227839474
③地区の沿革 民有の山林原野に47戸が入植した。
④設置年月日 昭和59年9月
⑤設置者 不明
⑥碑文(表面) 上野を拓く
高鷲村長 ●●●●
⑦碑文(裏面) 碑文 第二次世界大戦は 混迷せる世相と疲れきった人間を残し敗戦となり すべての物資は極度に少なくなる わけても食糧の不足は切実であった その中において国策として 食糧増産のために緊急開拓事業が始まった ここ上野地区も開拓適地として 山林原野約四五〇ヘクタールが買収され 公共用地を除き入植者に譲り渡された 国及び県の適確な行政指導と膨大な公共投資 入植者の不退転の努力とにより 溜池を始め縦横に通ずる道路網 電力の導入 電話架設 飲雑用水施設の整備等等行われた 厳しい自然条件をも克服し高冷地を活かした営農体型の確立により 人類の生活を拒み続けたこの地域が 今では理想と安らぎの新天地として生まれ変るまでに至った ここに買収に協力された旧地主の方々に心から敬意を表すと共に 元開拓農業協同組合の役職員並びに中途において他に生活を求め離農した同志の当時を偲び 風光明媚な白山神社の神域に碑を建て 開拓一世夫婦の氏名を刻みその労苦と名誉ある業蹟を称え 豊かな今日の幸せを感謝し 永遠の平和と地域の発展を希って碑文とする
入植者夫婦氏名略
昭和五十九年九月吉日建立
⑧現在の状況 白山神社前で管理されている。
岐阜県
久田見
久田見(くたみ) 21-505-1
①調査日 令和3年4月20日
②所在 賀茂郡八百津町八百津107
緯度・経度:35.4742560157502,137.1691509071622
③地区の沿革 久田見村では昭和19年まで開拓団として満洲に渡り、敗戦後引揚中に多くの同志を失った。
④設置年月日 平成8年7月
⑤設置者 久田見開拓団之碑建設委員会
⑥碑文(表面) 久田見開拓団之碑
⑦碑文(副碑) 碑文
満州(中国東北部)の開拓移民は、日本の人口増と耕地不足に対する対策の一つとして策定され計画的移民が奨励された。これに対し多くの農山村がこの困難な募集に応じ、久田見村もその中にあった。久田見村は、昭和十三年から十九年までに八十八戸が離村して、牡丹江省寧安県馬蓮河に入植し久田見開拓団を創設した。曠野茫漠風土の異なる大地に立地、開拓団員はあらゆる困苦欠乏に耐え、ひたすら使命達成に力を注ぎ将来を夢みて敢闘努力を重ね大いなる成果を挙げるに至った。然るに、このすばらしい現実の夢も、昭和二十年の敗戦によって一瞬に消滅し、第二の故郷に哀惜の涙を注ぐ暇もなくすべてを棄てて脱出する過酷な悲運に遭遇した。この頃すでに成年男子は多く軍隊に徴集され、残された老幼男女は、何の救援もないまますべてを棄てて疲労病気に苛まれ医療食糧も不足、周囲に脅え前途を憂い筆舌に尽くし難い流浪の逃避行を続け、脱出者の半数以上百六十九名が満州の野に散るという行程となった。戦後半世紀を経て、ここに久田見開拓団の壮挙の消滅を憂い、その事跡を讃え団員全氏名を永久に伝えんとして、この碑の建立を発起し多くの寄付金をもってここに碑を建立する。
平成八年七月吉日
久田見開拓団之碑建設委員会
八百津町老人クラブ
八百津町地方史研究会
久田見開拓団親睦会
⑧現在の状況 地区内で管理されている。
静岡県
浜松開拓
浜松開拓 22-131-1
①調査日 令和6年5月16日
②所 在 静岡県浜松市中区高丘西2丁目34−30
緯度・経度:34.7609352284981,137.700765114054
③地区の沿革 開拓の史
第二次世界大戦終結時、昭和二十一年政府の緊急措置令により、開拓事業が国家として図られ、当時戦災者、外地引揚者、復員者等の失業者、四百三十余名が軍用地の開放をうけ、面積四百三十二町歩の不毛の原野を、日夜の別なく不撓不屈の開拓魂により開墾が始められた。当初は、各実行組合が中心であったが、昭和二十三年各実行組合が統合し、浜松開拓農業協同組合が設立されたのである。同年、待望の電灯及び動力が導入され、爾来近代的な農業により、近隣に比し遜色のない農業の基礎を築き上げた。昭和四十六年高丘町全域が、新都市計画法により市街化区域に指定され、農業の一大転換の時代を迎えたのである。歳月あわただしく流れ、茲に入植以来三十五周年、同志相計り、往時を忍び、記念の碑とする。
昭和五十六年五月吉日 浜松開拓農業協同組合
④設置年月日 昭和56年5月吉日
⑤設置者 浜松開拓農業協同組合
⑥碑文(表面) 拓魂
⑦碑文(裏面) 昭和56年5月吉日建立
⑧現在の状況 浜松開拓農業協同組合の横の瑞穂神社境内に建立されている。
瑞穂神社には拓魂に燃ゆる先駆者が不毛の原野を開拓し、地下揚水に依る水田稲作の初穂を、昭和二十五年十月八日産土の鎮座祭に供え、よろず発祥の守り神とお祀りしてあります。
記念碑の他に戦死者、戦病死者、戦災死者の「慰霊碑」などが瑞穂神社内に建立。
静岡県
静岡県・三方原
戦いの地を食料の宝庫に開墾
静岡県浜松市の三方原(みかたはら)台地は、浜名湖の東側に位置する。戦国時代、徳川家康と武田信玄が激突した「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」が有名である。
従来この地域には河川が無く、明治以降、先人たちにより天竜川の水を引く利水工事が進められた。
約9000㏊の広大なこの台地は、戦時中には旧陸軍の飛行場と爆撃場として利用されていた。
1945年、この三方原に約600名が入植したが、開墾時に不発弾が爆発して死傷者が出る、という痛ましい事故も起きた。
この土地は強い酸性土壌の赤土で、耕作には不向きだとされていたが、団結を強固にして開墾を進めていった。土壌改良にも力を注いだ。
46年にホルスタインが導入され、土壌改良に一役買うと共に、酪農家も徐々に増えていった。
48年に三方原開拓農協が設立され、現在に至るまで、同開拓地の要としての役割を担っている。
55年頃からミカンの栽培が始まり、基幹作物の一つとなっている。
65年頃にはスイカ部会ができ、後の蔬菜部会となる。品種や生産管理の一元化や、他県へ技術研修などに出かけるなどして技術を磨き、高品質なスイカを生産し、市場評価は格別なものとなった。その後、ハウスによるメロンやトマトなどの栽培へと広がっていった。
現在でも、特産の「三方原馬鈴薯」をはじめ、大根、トマト、ミカン、メロンなど、多くの野菜や果物が生産されている。
組合結成30周年を記念して、78年に開拓之碑が、当時開拓農協のあった浜松市三幸町に建立された。その後、農協の事務所移転に伴い、浜松市北区豊岡町の現在の農協の前に移設されている。
開拓之碑には土質不良の開拓地の苦労が克明に刻まれており、入植以来の道程が偲ばれる。
農協の近くに、ファーマーズマーケット「土の市直売場」があり、とれたての農産物などを消費者に提供している。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
三方原(みかたはら)開拓 22-135-1
①調査日 令和6年5月16日
②所 在 静岡県浜松市北区豊岡町411
緯度・経度:34.7932728893513,137.725952910014
③地区の沿革 昭和20年(1945年)、三方原には600余名が入植し、三方原開墾機能組合が結成。開拓者の多くが農業経験に乏しかった。また、道路、水もなく、最初は雑穀や芋などの栽培から始められた。当初、堆肥作りのため落ち葉集めから始め、やがて家畜を導入により有機質肥料源として土づくりが進められた。
④設置年月日 昭和53年5月吉日
⑤設置者 三方原開拓農業協同組合
組合長 鈴木五郎
⑥碑文(表面) 開拓之碑
⑦副碑(表面) 開拓碑之記
当開拓地は、土質不良の為古来農耕不適地として顧みる人もなく大正末年より僅かに飛行隊の爆撃場として使用されたのであります
大東亜戦争の敗戦により我国は国家崩壊の危機に曝されました。此の時に当り我等同志は、国の緊急開墾の要請に応え危機に瀕した国家再建の礎石たらんとして当地に入植し不毛の大地に敢然として開墾の鍬を打ち下ろしたのであります。尓来栄養失調状態にある痩躯に鞭打ち気力のみを以て開墾に従事しましたが、千古、鍬を知らない不毛の地は頑として我等の努力を拒否し開墾は遅々として進まず同志の疲労と窮乏は益々其の度を加へた為に死亡者、脱落者続出しましたが後に残った同志は益々団結を強固にし初志の貫徹に邁進したのであります。其の後幾多の試行錯誤を繰り返し乍らも入植以来三十余年にして漸く中小家畜、柑橘、野菜等の産地として県下有数の地歩を占めるに至りました。
茲に於て同志相図り組合結成三十周年を記念し碑を建て険しかった入植以来の道程を偲ぶと共に次代を継ぐ若き人々の精神的支柱となることを祈念するものであります。
昭和五十三年五月吉日
三方原開拓農業協同組合 組合長 鈴木五郎
⑧現在の状況 三方原開拓農業協同組合の事務所移転と同時に事務所横に移設。
静岡県
「開拓之碑」 静岡県富士開拓
「開拓之碑」
静岡県富士開拓
静岡県富士宮市の朝霧高原は、富士山の西麓に位置し、標高700~1000mのところにある。ここに富士開拓農協があり、酪農を中心に約40戸が営農している。
1946(昭和51)年1月、入植してきたのは、主に長野県下伊那郡大下條村(現阿南町)の、15~25歳の若者たち130名。
今でこそ、日本有数の酪農地帯で、霊峰富士を望む観光地でもあるが、入植当初は他の開拓地に引けを取らない過酷な土地であった。
この地は、終戦まで旧陸軍少年戦車兵学校の演習地として使用されていた。ここは、地元の人々も手を出さないやせた荒地で、富士山から流れ出た溶岩の岩盤がむき出しになっていて、「穀物は実らず、葉物は茂らず、根物は太らず」の時期が続いた。特に厳しかったのは、川が無いので水が手に入らず、屋根に降った雨を溜めてしのぐこともあった。
伸び盛りの若者達の栄養状態はひどくなり、3班に分けて交代で故郷に帰って体力を回復させることにした。西富士にもう戻ってこないのではないかという心配をよそに、皆元気になって戻ってきて団結が深まった。
開拓団には金が無かったので、自分たちで何でも作れるように、製塩部、製炭部、輸送部などを作り、開墾の他に別の仕事も分担して助け合った。
54年にようやく国から高度集約酪農地域の指定を受けて、酪農が本格的に始まった。しかしまだ牛舎は無く、野草地での放牧が主体であった。この頃から個人住宅の建設も始まり、個人経営に移行していった。
65年土地改良事業等により大規模な草地改良
が行われ、飼料基盤の整備や新しい施設の建設が進み、現在の酪農地域としての基盤が確立された。
右の碑は、当農協が76年11月、富士宮市人穴の西富士霊園内に、開拓30周年を記念して建立したもので、碑銘は「開拓之碑」。富士山と共に、今も続いている酪農大国を見守っている。
『霊峰富士を仰ぎ、南に駿河の海を望むこの地。ここに永住の地を求め、新天地を開拓せんと大志を抱き、三百余戸一団となり、昭和二十一年一月入植せり。
この地もと北部六ヶ村の入会秣場なりしが、その後陸軍の演習場となり戦後解放されて開拓地となりしものなり。』
ここの情報を掲載した「開拓情報」
富士開拓 22-207-1
①調査日 平成29年1月 18日
②所在 静岡県富士宮市人穴
緯度・経度:35.3833247453819,138.5908207025406
③地区の沿革 陸軍少年戦車兵学校の演習地が1946年の緊急開拓事業で国営の開拓地として自作農家創設事業が開始され、長野県阿南町を中心とした15~20歳の青年が分村計画に則り集団入植。国営事業を中核に開墾作業を共同生活で実施した時代であり、食料増産中心の農業を行うが「穀物は実らず、葉物は茂らず、根物は太らず」の厳しい時代である。畜産農家への転換を目指し、54年に国からジャージー牛250頭余りが導入され、酪農地帯としての第一歩を踏み出す。65年には大規模な草地の改良、飼糧基盤の整備や新しい施設の建設が進み、より生産性の高いホルスタイン種への移行と相まって現在の酪農地域としての基盤が確立される。この時期から経営の拡大を志向する農家が増加した半面、小規模農家の離農も目立ち始めた時代であった。80年代には国の事業で草地や施設の整備、高性能の大型機械の導入を行い酪農地域として名実共に発展した。
④設置年月日 昭和51年11月
⑤設置者 富士開拓農業協同組合
⑥碑文(表面) 開拓之碑
⑦副碑(表面) 霊峰富士を仰ぎ 南に駿河の海を望むこの地 ここに永住の地を求め新天地を開拓せんと大志を抱き 三百余戸一団となり 昭和二十一年一月入植せり この地もと北部六ケ村の入会秣場なりしが その後陸軍の演習場となり戦後開放されて開拓地となりしものなり 元来地力弱く高冷地なれば不毛の原野として顧みざりし土地への入植に対し村人はひそかに事業の成功に危惧の念を抱けり入植当時は物資窮乏の折にて 開拓者の生活は筆舌に尽し難き苦難の連続にして 遂に前途に希望を捨て離脱する者さえ出でたり 然し踏止どまる者よくこの苦難に耐え 悪条件を克服し 次第に成果を挙げ 今や富士西麓の酪農は日本全国にその名聲を高むるに至れり 苦節三十年過ぎし苦難の道を顧み悲喜交々誠に感に堪えざるものあり 一同にここに碑を建ていささか由来を記し三十周年を記念する
昭和五十一年十一月吉日
富士開拓農業協同組合
⑧現在の状況 西富士霊園内で管理されている。
※その後、令和6年5月16日の調査で、他に記念像などを確認した。
西富士長野開拓団による「開拓記念像」と「富士を仰いで」の碑が建立されている。
○碑文
富士を仰いで国破れて山河あり。昭和二十年八月十五日日本は太平洋戦争に敗れた。この日わがふる里伊那谷は古い衣を脱ぎすてた。
昭和二十一年一月三十日西富士長野開拓団の第一陣七十三名は、村の道をふみしめ国鉄飯田線温田駅に集まった。寒冷は身にしみたが旅立ちにふさわしい晴朗の朝だった。ここ東海の天に「峨々タル精骨」として屹立する霊峰はわれらをしっかり抱きよせてくれた。その日から三十二年長野県下伊那郡大下條村助役伊藤義実を団長とする一九九名は朝な夕な富士を仰ぎ豊かな精算と高い文化の村づくりをめざしひたぶるにただひたぶるに歩みつづけた夫と妻は肩を組み、子らを背負うてのながい道のりであった。今初志は貫徹されようとしている子らはわれらを越えてあたらしい牛飼いの道を歩きはじめた。
富士は、今日も、明日も、西富士長野開拓団の道しるべとして、ここに聳える。
一九七九年十一月三日 西富士長野開団
静岡県
東富士
東(あずま)開拓 22-207-2
①調査日 令和6年5月16日
②所 在 静岡県富士宮市上井出
緯度・経度:35.3094569721950,138.604389373551
③地区の沿革 不明
④設置年月日 昭和46年12月吉日
⑤設置者 東開拓記念碑建立者一同
⑥碑文(表面) 東開拓記念墓地公園の中心に設置された球体に近い楕円体の立体的な記念碑である。周囲には4枚の石板が設置され3枚は記念碑建立協力者名を、1枚は次のとおり刻まれている。
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開拓碑に寄せる 第二次世界大戦に因って破壊し尽くされた国土の中から新しい農村社会を創る理想に燃えて我等は相結び協調融和して二十五年の歴史を重ね、ここに西富士の新天地を開拓した渦巻く社会の変遷に耐え一歩を踏みしめ一歩を積み上げて得た偉大な成果こそ我が故郷である。 昭和四十六年十二月吉日 東開拓記念碑建立者一同 |
⑦現在の状況
静岡県
元富士開拓
元富士開拓 22-210-1
①調査日 令和6年5月16日
②所 在 静岡県富士市森下52-1 (富士南まちづくりセンターの駐車場)
緯度・経度:35.1379704539601,138.6445414836175
③地区の沿革 第二次大戦中、陸軍富士飛行場の建設により立ち退かされた住民が、戦後再びその地に帰郷。戦後、開拓事業10周年を記念して、元富士開拓農業協同組合が建立した。
④設置年月日 昭和30年5月3日
⑤設置者 元富士開拓農業協同組合
組合長 齋藤新作
⑥碑文(表面) 開拓記念
大東亜戦争の末期、昭和十九年春俄かに此の地に陸軍飛行場の設定を決定せられ関係の/農民は一途に戦勝を祈って祖父傳来の土地を提供し二百三十餘名の住家を移轉して同年末/東西千米南北千八百米の飛行場を完成した昭和二十年八月戦終るに及んで政府は農民の/熱望に應じて此の地を開拓地とし嘗ての土地提供者並びに一部の復員軍人及戦災者を詮衝の上入植させた/入植者四百六十六名は昭和二十一年八月元富士飛行場開拓組合を組織し昭和二十三年九月/元富士開拓農業協同組合に改組して國の補助を得協力一致凡ゆる困難に堪え四ヶ郷用水/幹線を擴張し地區内道水路橋梁を整備し砂礫と闘い耕土の不足を克服する等鋭意開墾に/努めて遂に井然たる耕地を造成することが出来た此の間富士川堤防の補強排水門の擴張/汐除堤防の構築等を併せ行い今日全地域百八十餘町歩内道水靣積二十二町餘耕地百六十三町餘/を拓き汐除堤防四百二十間の築造を了り食糧増産の上に大なる貢献を為し得るに至った/今日此の美田を望み苦難の十年を省みて感慨眞に深いものがある茲に開拓事業十周年を/記念して碑を建て梗概を刻んで永くこの事蹟を傳えんとするものである
昭和三十年五月三日
元富士開拓農業協同組合 組合長 齋藤新作
⑦碑文(裏面) 副組合長、専務理事等の名前が刻まれている。
⑧現在の状況 現在の富士南地区にあたる区域は、昭和41年の2市1町の合併による新制「富士市」の誕生、昭和47年の「線引き」による市街化区域への区分などにより急速に宅地化が進み、昭和53年に開校した富士南小学校の校区と同一。昭和56年の富士南公民館の開設に合わせ、富士駅南地区の一部及び田子浦地区の一部を持って組織された。
静岡県
大原開拓
愛知県
北山
北山 23-201-1
①調査日 令和3年4月19日
②所在 豊橋市大岩町北山
緯度・経度:34.7275164941335,137.441230200090
③地区の沿革 昭和26年に入植11戸、増反87戸が国有地を開拓した。
④設置年月日 不明
⑤設置者 記念碑建設委員会
⑥碑文(表面) 開拓記念碑
豊川総合用水 土地改良区
理事長 小久保 三夫書
⑦碑文(裏面) 碑文 北山開拓地区の歩み
昭和二十年、国に対し佐藤勇、小林芳治郎を中心に国有地払い下げ運動を重ねた結果、農地にする条件で払い下げを受ける。
昭和二十六年、北山開拓農業協同組合を設立し、道路、水路等建設し開拓事業を行う。入植十一戸 増反八十七戸
昭和四十三年、豊川用水全面通水する。
昭和四十七年、北山開拓農業協同組合としての使命は終わり、解散し清算活動に入る。
平成二十二年、終了する。
記念碑建設委員
佐藤巧宜 後藤一男 彦坂静男 林貫司
記念碑協力者 特別寄付者10名、寄付者19名の氏名
⑧現在の状況 伊寶石神社の麓で管理されている。































