中国・四国地方
鳥取県
真野原
鳥取県
岩船
岩船 31-371-1
①調査日 平成28年5月18日
②所在 東伯郡琴浦町八橋
③地区の沿革 昭和21年9月に7戸が国有地に入植した。
④設置年月日 (ア)昭和47年3月
(イ)平成6年11月
⑤設置者 不明
⑥碑文(表面) (ア)開拓の碑
(イ)開拓五十周年記念史
敗戦後の食糧不足と復員軍人、海外引揚者、戦災者等失業者の充満は社会不安の惧れを生じ、国家は対策として未利用地の開拓入植を決定したが 容易に軌道に乗らず、当地では先ず民間有志の手で、国有林に開拓の鍬を振り始めた。
昭和二十年九月七戸入植 以下年表 略
⑦碑文(裏面) (ア)昭和四十七年三月建之 町長 戸田 常磐 書
(イ)記念芳名(あいうえお順) 18名氏名
⑧現在の状況 地域内で管理されている。(全景)
鳥取県
鳥取県大山町の香取開拓
鳥取県大山町の香取開拓
鳥取県大山町の香取開拓は、大山隠岐国立公園内の、名峰大山の北側中腹にある。
標高は350~1000㍍、冬には1~4㍍の積雪があり、火山灰土(大山黒土地帯)で酸性が強く、作物が育たない土壌だった。
この地に46年に入植したのが、香川県出身の元満州開拓団100名だった。香取開拓の名は、香川県と鳥取県の文字からきている。
この地では過酷な現実が待っていた。香川では経験したことがない、2メートルも雪が積もる冬、フェーン現象で乾いた高温の風が吹きおろし、頻発する山火事など苦しい状況が続いた。
山麓は松林で、松根堀は大変な仕事だった。東京の三菱重工倉庫に南方戦線に送るはずだった15㌧戦車が何台もあったので、そのうち2台を借り受けた。建設会社に頼んで砲塔を切り、前面に排土盤、抜根装置をつけて改造した。この戦車は燃料を大量に消費するが良く働き、大きな木を倒し、岩をおこして開墾していった。
満州での経験を基に、水田ではなく、畑作畜産営農を推進した。しかし、食料増産の機運の中、家畜の導入がうまく行えず、しばらくは苦しい畑作経営が続く。
48年に香取開拓農業協同組合が設立し、本格的に開墾が進められた。
62年に開拓営農振興臨時措置法の適用や、66年の第1次構造改善事業の導入などで酪農は順調に伸びてきた。
66年の入植20周年には、香川県からはるばるやってきた自然石でできた入植碑が建てられた。
88年には国土庁主催の第3回農村アメニティコンクールで最優秀賞を受賞した。この賞は、農村地域の居住快適性にスポットをあて、「緑豊かな自然環境の保全」「機能性を備えた住みやすさ」「地域特性の活かし方」などを審査基準としており、香取村が農村アメニティ日本一に輝いた。
現在、酪農家の戸数は減少してきているが、毎年入植記念日に集まり、心地良い村づくりに励んでいる。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
鳥取県大山町・香取開拓 31-386-1
①調査日 2016年5月17日
②所在 西伯郡大山町松川原
③地区の沿革 昭和20年11月入植
④設置年月日
⑤設置者 不明
⑥碑名 入植碑
⑦碑文(表面) 昭和20年11月入植 香取開拓入植碑
⑧碑文(裏面) 不明
⑨現在の状況 地区内で管理されている。
鳥取県
神田
鳥取県
萩原
萩原 31-386-3
①調査日 平成28年5月17日
②所在 西伯郡大山町羽田井
緯度・経度:35.43893885430,133.5800226105997
③地区の沿革 昭和22年4月入植
④設置年月日 昭和46年12月
⑤設置者 萩原開拓農業協同組合
⑥碑文(表面) 開拓記念碑
鳥取県知事 石破 二朗 書
⑦碑文(裏面) 昭和弐拾壱年四月弐拾壱日清水建設KKにて鍬入れし昭和弐拾弐年帰農組合として発足初代組合長 佐々本喜一氏 組合員弐拾弐名その間点々として离農者あり昭和弐拾四年四月一日本組合と成る 現在戸数拾八戸 総人口七拾九名(男三五、女四四)総面積百七拾町歩 耕地七拾壱、四町歩
組合員入植順 佐々本福松、佐藤謙吉、佐藤、仙太、原田芳吉、大川賢作、加藤春吉、喜岡博、荘司三郎、菅原末太、寒河江正己、橘直士、後藤芳、堤嶋孝猷、森田繁義、後藤勇吉、畑 正、奥田賢一、西村彰
歴代町村長 小谷亮一 末次博文 徳永尚
昭和四拾六年拾弐月吉日建之
萩原開拓農業協同組合
⑧現在の状況 地区内の萩原神社地内で管理されている。
鳥取県
美野留
鳥取県
林之峯
林之峯(はやしのみね) 31-386-5
①調査日 平成28年5月17日
②所在 西伯郡大山町殿河内
③地区の沿革 昭和20年8月3日に14名入植
④設置年月日 不明
⑤設置者 発起人(入植者並びに入植者の家族と思われる)
⑥碑文(表面) 林之峯開拓之碑
鳥取県知事 石破 二朗 書
副碑 (表面) 我国未曽有の敗戦で祖国は廃墟と化し全国民が精神的虚脱状態の中で先ず主要食糧確保の為昭和二十一年戦後開拓事業発足した時海外引揚者戦災者離耺者等相継ぎ当地に入植し 長峯 富林 清水谷 と各帰農組合を結成
昭和二十四年四月以上三地区が合併し林之峯開拓組合即部落造りに一致団結し貧困飢餓病魔更に立地劣悪俗件筆舌に晝し難きを克服中途空しく不帰の客或は離農された方々を乗りこえ三十年を終えた今日を記念し之を建てる
入植者14名氏名
⑦副碑(裏面) 発起人14名氏名 石工氏名
⑧現在の状況 地域内で管理されている。
鳥取県
鳥取県・笠良原
鳥取県江府町(こうふちょう)の笠(かさ)良(ら)原(はら)開拓は、大山の南麓に位置し、岡山県に接している。標高約7~800mで、本谷と細谷に挟まれた細長い台地にある。
大山(だいせん)隠岐(おき)国立公園内にあり、景観が美しい山里であるが、土地は大山特有の火山灰土で土質が悪く、高冷地なので冬には2m以上の積雪となる。
また、地形が台地ということで、水の確保には困難を極めた。
46年に、鳥取県と出光興産㈱が共同で開拓を行うこととなり、満州開拓からの帰国者を中心に、13戸が入植した。
開拓地としては条件があまりにも悪く、一面カヤの草原で、当初はサツマイモ・ジャガイモ・大豆しか栽培できず、収穫も少なく、厳しい状況が続いた。
51年には、共同経営者の出光興産が撤退してしまい、更なる苦境に立たされることとなった。その後、相次いで離農する家族が増え、4戸だけとなってしまった。
残った4家族は、大根を始めとする野菜栽培、養蚕、和牛飼育、花木栽培へと取り組み、この地を守ってきた。
食用作物が主体であったが、より収益性の高いものにも挑戦するようになった。悪条件を、努力によって好条件に変革させてきた。
ところが2005年、奥大山の天然水を求めてサントリー㈱が進出してきた。この奥大山は日本有数のブナの原生林が広がっており、山や木々でろ過されたおいしい天然水が着目されたのだ。
この笠良原開拓地にも、工場用地提供の要請があった。これまで4家族で必死に守り抜いてきた土地であったが、熟慮に熟慮を重ね、結果、江府町の将来展望を鑑み、我々の分身ともいえる「開拓地」の大半を譲渡することにした。
07年、開拓60周年の節目に当たり「笠良原開拓魂」が未来永劫人々の心に残ることを願い、開拓の歴史を記した記念碑が建てられた。
(今回の記事は、碑文を基に作成した)
ここの情報を掲載した「開拓情報」
笠良原(かさらはら) 31-403-1
①調査日 令和2年10月14日
②所在 日野郡江府町御机
③地区の沿革 昭和21年11月から開放された民有地に、旧満州開拓経験者を中心に38年までに13戸が入植した。
④設置年月日 平成19年5月
⑤設置者 笠良原入植者4名
⑥碑文(表面) 魂
⑦副碑(表面) 開拓史の碑文 この地は江府町の北東に位置し、北は秀峰大山 東は岡山県に隣接しており大山隠岐国立公園内の一部にして休暇村大山鏡ヶ成と下蚊屋集落との間、標高約七百米~八百米で本谷と細谷に挟まれた南北に細長い台地に在する景観優美な里である。
昭和二十一年七月三十日旧米澤村は「出光興産株式会社」にこの地を特売し、鳥取県と共同開拓を行うことに決定し、昭和二十一年十一月二十八日旧満州開拓の経験者を中心に昭和三十八年まで都合十三家族が入植した。
其の当時は一面カヤの草原であり、大山特有の火山灰土で土質が悪くその上、高冷地で冬は二米以上の積雪に悩まされ、また台地であるが故に水利に難く畑地としては甘藷・大豆・馬鈴薯等しか栽培できず、真に貧苦との戦いであった。昭和二十六年には共同経営者の出光興産が撤退し、その後相次いで九家族が下山(離村)の道を選んでいった。
その後残った四家族は大根を始めとする野菜栽培・養蚕・和牛飼育・花木栽培へと取り組み営農してきたが、平成十七年奥大山の天然水を求めて「サントリー株式会社」進出に伴う工場用地提供の要請があり、熟慮に熟慮を重ね、なかんずく江府町の将来展望を鑑み、我等の分身ともいえる「開拓地」の大半を譲渡することを決意した。今般開拓六十年の節目に当たり「笠良原開拓魂」が未来永劫人々の心に残ることを願い、ここに開拓史の碑を為し由来とするものである。
⑧現在の状況 地域内で管理されている。
島根県
島根県奥出雲町・三井野開拓
島根県奥出雲町・三井野開拓
島根県仁多郡(にたぐん)奥(おく)出雲(いずも)町の三(み)井野(いの)開拓は、広島県との県境に接し、東に鳥取県の県境もある。
全域が比婆道後帝釈国定公園に指定されており、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治したという伝説の地「船通山(せんつうざん)」の南西に位置する。
当時の住所は、広島県比婆郡八鉾村であったが、53年に島根県に県境変更された。
戦争末期の44年10月、食料難に対応するため、農業報国会島根県支部直営農場がこの地に置かれ、バレイショ種子の採取保護地として島根県農兵隊200人(国民学校初等科第4学年以上の児童、青年学校及び男女中等学校生徒が動員された)で開拓したのが始まり。
この土地は、標高730㍍の高冷地で、火山灰の土壌がバレイショ栽培に適しているとされた。
45年に終戦し、国内は混乱したが、11月には緊急開拓事業実施要領が決定され、事業自体は従前どおり継続された。農業報国会が農事振興会に改組され、開拓の基地農場となった。
47年から近隣(島根・広島・香川など)や満州からの引き揚げ者などが入植してきた。基地農場で訓練した人たちも多く、開拓に役立つこととなった。48年4月に開拓基地農場は三瓶農民修練場へ移転、三井野は純開拓地として入植者を受け入れた。同年10月に戸数30戸で三井野(公式には八(や)川(かわ))開拓農協が発足した。
49年にスキー場を開設した。これはせっかく国鉄木次線が通っているので、三井野原駅を設置するためでもあった。
火山灰特有の酸性土壌のため雑穀は不良で、キャベツ、ダイコン、野菜用バレイショなどの生産が増え、主幹作物として定着していった。
67年、国から夏秋キャベツ産地として指定を受け、生産出荷近代化事業が計画されることになり、八川農協による共販体制に統一された。
78年10月、開拓30周年記念式典が開催され、開拓の碑が建てられた(写真)。
現在は、数戸の農家が高原野菜やトルコギキョウなどの生花を生産している。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
三井野原(みいのはら) 32-343-1
①調査日 令和2年11月11日
②所在 仁多郡奥出雲町八川
緯度・経度:35.0953340660801,133.1200516764256
③地区の沿革 吾妻山の北部に
④設置年月日 昭和53年10月
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 開拓之碑
島根県知事 恒松 制治
⑦碑文(裏面) 三井野原開拓三十年記念
昭和五十三年十月建之 開拓者28名氏名
⑧現在の状況 稚児ヶ池神社地内で管理されている。
岡山県


























