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開拓記念碑調査事業

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中国・四国地方

徳島県

徳島県美馬市穴吹町

アクセス

空野開拓碑
徳島県美馬(みま)市は、県北部のほぼ中央に位置する。05年に旧・美馬郡内の4町村が合併して発足。人口は約3万人。南部は山間地で、穴吹町には戦後開拓の集落「空野(あきの)」があった。
空野に至る山道は曲がりくねっており、非常に険しい。行き止まりには、市が管理している「空野放牧場」があり、繁殖和牛が放たれている。標高は約650㍍で、市街地が見渡される。この地域が戦後開拓地であり、道ばたに石碑「空野開拓碑」が建っている。入植の経緯や開拓者名などが記されている。
46(昭和21)年から48年にかけて、中国引揚者、地元縁故者、元・満州開拓青年義勇隊の順に20数戸が入植した。48年、穴吹町開拓農協を結成。入植者は共同生活をし、開墾作業や資材運搬すべて人力によるも、協同の精神で新天地の建設を目指して奮闘した。
51年、待望の空野分教場が開設され、児童17名が就学した。道路開設や電気・給水設備の整備により、ようやく開拓地営農も軌道に乗り、前途に光明が見えてきた。だが、60年代からの高度経済成長期に入ると、次第に離農者や転居者が出始め、71年、同開拓農協は解散の止むなきに至った。現在、廃屋や分教場跡がある。
石碑は97年の建立。碑文の末尾には「町において二一世紀の空野を展望し 牧野造成を行い開拓道路を整備しており その再開発また期してまつべきものあり と云うべし」と刻まれている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2019年10月 徳島・空野

空野(あきの)  36-207-1

          

①調査日  令和元年5月20日

②所在  美馬市穴吹町

緯度・経度:34.0202333185266,134.176690296064

③地区の沿革  昭和21年から23年、標高650米の山間地に中国引揚者、地元縁故者ら20数戸が入植した。

④設置年月日  平成9年8月

⑤設置者  入植者

⑥碑文(表面)  空野開拓碑 

 戦後 国の施策に基づき昭和弐壱年拾月中国引揚者竹内豊一氏一家率先入植 続いて地元縁故者相次ぎ 昭和弐参年弐月布川孝明氏率いる元満州開拓青年義勇隊拾名が双葉開拓団と称して入植 穴吹町開拓農業協同組合を結成せり 県は昭和弐四年七月弐日未墾地買収に伴い県営開拓事業として発展せしめたり

入植者天地根元造に起居し 生活物資建設財の運搬及び開墾作業すべて尽力に拠るも 協同の精神旺盛にして 新天地の建設を目指し奮闘せり

昭和弐六年四月待望の空野分教場開設 児童壱七名と算す この頃開拓道路開設 電気導入 簡易給水設備等逐次整備 漸く開拓地営農も軌道に乗り前途に曙光を見るに至れり しかれども昭和参拾年代の高度経済成長の波にさらわれ遂に昭和四六年拾月開拓農協も解散の止むなきに至れり 爾来町において二一世紀の空野を展望し 牧野造成を行い開拓道路を整備しており その再開発また期してまつべきものあり と云うべし

此処に理想郷建設を夢見 開拓に健闘せし同志拓友各位及び関係機関諸賢の芳名を止めて後世に伝える

 平成九年八月吉日

関係機関御芳名(元穴吹町長 蔭山潔ほか)、同志拓友御芳名(竹内豊一ほか)

⑦碑文(裏面)  無し

⑧現在の状況  地域内で管理されている。


※国道492号から県道254号へ。穴吹川の南側に位置する山の上にある牧場までの道のりは非常に険しい。

(碑文)
戦後 国の施策に基づき昭和弐壱年拾月中国引揚者竹内豊一氏一家率先入植 続いて地元縁故者相次ぎ 昭和弐参年弐月布川孝明氏率いる元満州開拓青年義勇隊拾名が双葉開拓団と称して入植 穴吹町開拓農業協同組合を結成せり 県は昭和弐四年七月弐日未墾地買収に伴い県営開拓事業として発展せしめたり
入植者天地根元造に起居し 生活物資建設財の運搬及び開墾作業すべて尽力に拠るも 協同の精神旺盛にして 新天地の建設を目指し奮闘せり
昭和弐六年四月待望の空野分教場開設 児童壱七名と算す この頃開拓道路開設 電気導入 簡易給水設備等逐次整備 漸く開拓地営農も軌道に乗り前途に曙光を見るに至れり しかれども昭和参拾年代の高度経済成長の波にさらわれ遂に昭和四六年拾月開拓農協も解散の止むなきに至れり 爾来町において二一世紀の空野を展望し 牧野造成を行い開拓道路を整備しており その再開発また期してまつべきものあり と云うべし
此処に理想郷建設を夢見 開拓に健闘せし同志拓友各位及び関係機関諸賢の芳名を止めて後世に伝える
平成九年八月吉日
関係機関御芳名(元穴吹町長 蔭山潔ほか)、同志拓友御芳名(竹内豊一ほか)

香川県

共和農園

アクセス

共和農園  37-201-1

 

①調査日 令和元年5月21日

②所在 高松市

緯度・経度:34.3823292351488,134.1528218736345

③地区の沿革 不明

④設置年月日 昭和46年秋

⑤設置者 不明

⑥碑文(表面) 共和農園 

時代の要請に応え同志相寄り相謀り 霊峰龍王山麓六十町歩の山を拓き 黄金のみかん園造る一九七一年秋

撰文 鹿冶町長 加茂 静六

⑦碑文(裏面) 沿革、概要等

⑧現在の状況 瀬戸内海を眼下に望む、あじ竜王山公園内に建立され、管理されている。

香川県

香川県さぬき市・大串半島

アクセス

志度開拓神社再建立之碑
香川県の北東部、さぬき市の大串半島は瀬戸内海に大きく突き出た自然豊かな景勝地。自然公園が拡がり、野外音楽広場、キャンプ場などの施設がある。戦後、緊急開拓事業により切り開かれた。
市北部の旧・志度町(しどちょう)と旧・津田町にまたがる開拓地に46(昭和21)年、海外引揚者、復員軍人、戦災者らが入植。その大半は地元縁故者だった。3つの地区が有り、48年、それぞれ開拓農協が発足。その後、合併して志度開拓農協となった。
そのうち、大串地区は半島の山頂部に位置し、急傾斜で季節風が強く、飲用水も不足するという悪条件下だった。解消を図るため、58~66年にかけて、大規模な道路改良、畑の造成、畑地かんがい施設工事が行われた。完成後は水の問題がなくなり、カンキツの栽培が始められた。
半島の中ほどに「開拓神社」(写真㊤)がある。境内右側の「志度開拓神社再建立之碑」(同㊨)には、神社の由来が詳しく記されている。
90年の建立。入植・開墾時について、「大串 上野 末の三地区に五十二戸の帰農を志す人達を迎え 数年の間に五十ヘクタールの開墾地を造成した この間入植者は一致団結 厳しい環境と闘い乍ら血と汗にまみれ鍬を振い 戦後の食糧確保と祖国復興の一翼を担った」と刻まれている。
さらに、開墾の成就や五穀豊穣を願い、入植者の心のより所にと天照大神を祭神とする「開拓神社」を建立したこと、40年経過による老朽化と周辺整備の必要性から、現在地に移転・再建したことなどが記されている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2019年11月  香川・志度

志度(しど)  37-206-1

 

①調査日  令和元年5月21日

②所在  さぬき市

緯度・経度:34.3609426545912,134.2113893044139

③地区の沿革  昭和21年、海外引揚者、復員軍人らが入植。その大半は地元縁故者だった。

④設置年月日  平成2年5月

⑤設置者  志度開拓神社総代

⑥碑文(表面)  志度開拓神社再建立之碑

由来 昭和二十年八月十五日 大東亜戦争はわが国の敗戦によって終結した その結果出征軍人の復員と一般同胞の引揚により人工は急増し 食糧不足は危機に瀕し 経済もまた極度に混乱した 国ではこの対策として緊急食糧増産政策を打出し 開墾可能地を払下げ 各地に於て開拓事業を推進した 本町では大串間に五十ヘクタールの開墾地を造成した この間入植者は一致団結 厳しい環境と闘い乍ら血と汗にまみれ鍬を振い 戦後の食糧確保と祖国復興の一翼を担った その頃 当初の松岡貴次郎らが中心となり 開墾の成就 五穀豊穣を願い 入植者の心の寄り所にと 天照大神を際神とする「開拓神社」を此の地に建立した 以来四十年 高度成長期を経て時代は大きく変遷した 餓死状態の中にあった食糧事情も豊となり それに呼応して昭和五十年代後半により大串半島の開発が企画され 次々とリゾート施設の建設が進められ今日に至った その陰には先人の逞しい開拓精神と大神の御守護があったことを忘れてはならない こうした経過の中で 曽て入植者が勧請し崇敬して来た開拓神社も 歳月と共に老朽化が進み 加うるに周辺整備の必要性から神社の移転を余儀なくし 再建の運びとなった

この度 大串半島開発企業より多額の御援助を頂き御神威宣揚にふさわしい風格のある神社の造営が出来たことを心から感謝すると共に 改めて 当時を偲び末永く御神徳を給わらんことを祈念し 茲に経緯を記した次第である  平成二年五月吉日  志度開拓神社総代 松岡義高

⑦碑文(裏面)  無し

⑧現在の状況  志度開拓神社境内で管理されている。
※大串半島の中程、県道135号沿い。近くにさぬきワイナリーがある。

愛媛県

愛媛県西予市大野ヶ原

アクセス

愛媛県西予市大野ヶ原開拓

愛媛県と高知県との堺にある四国カルスト(注)は、日本三大カルストの一つ(他に山口県の秋吉台、福岡県の平尾台)。標高は1100~1400㍍と最も高い。東西約25㌔で、最西端の高原に西予市大野ヶ原開拓地がある。

注:石灰岩が雨水や地下水などで溶けてできた地形。

46(昭和21)年、愛媛開拓増産隊15名が未開の原野に入り、入植を試みたのが始まり。49年、大野ヶ原開拓農協設立。50年に国から開拓地として認可され、同年から63年まで入植が続いた。だが、高冷地で冷害や台風被害などが多く、厳しい自然条件だった。石灰岩が地表に露出し、土壌は強酸性で作物が思うように育たなかった。そのため、多数の離農者が出た。

同農協は、冷涼でも栽培が比較的容易な牧草地とする計画を立て、酪農経営への移行をめざした。59年から乳牛が導入され始めた。以降、徐々ながら草地を基盤とした高原酪農が軌道に乗っていった。

現在、県内でも有数の酪農地帯となっている。素晴らしい景観に加え、牛乳・乳製品の店などもあり、観光客が多く訪れる。

開拓地を見守るように記念碑がある。77年の建立。力強い筆勢で「開拓魂」と刻まれている。下方の碑文には開拓の沿革が記してあり、中頃に「幾多の障害を克服し かつての熊笹の昿野は栄養豊かな牧野と化し 放牧牛の群れが長閑に草を喰む さながら絵の如き 大規模近代農業の基盤確立の偉業を成せり これ一偏に不撓不屈開拓魂の精華」とある。

 

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2019年12月  愛媛・大野ヶ原

大野ヶ原  38-214-1

 

①調査日  令和元年5月23日

②所在  西伊予市

緯度・経度:33.4798831938637,132.8743050417427

③地区の沿革  四国カルスト山頂に近い1100~1400米の開拓地に72戸が入植した。

④設置年月日  昭和52年10月1日

⑤設置者  入植者

⑥碑文(表面)  開拓魂

大野ヶ原開拓は昭和二十一年増産隊の若人が無住の原野に踏み入り開拓を試みしに始る 二十二年実験農家七戸が入山 茅屋で雨露を凌ぎ開墾の鍬を下した 開拓地区計画が樹立され二十五年本格的に事業が始まる 新天地を求め次々に同志集い六十三戸が定住せり 斧音山野にこだまし活気漲る されど秘境の地の開拓の道は遠く険しく 苦難想像を絶する酷寒零下十八度荒れ狂う猛吹雪 乏しい食糧生木で飢えと寒気を凌ぎ 木を倒し根を掘り一鍬一鍬拓き土壌を改良し 稔りの秋を待てど 冷害台風等自然の 猛威は苛酷を極め 収穫皆無の年を重む 生活は極度に困窮し 幾度となく危機にさらされる この試練に屈せず逞しい生命力と英知は高冷地蔬菜栽培で活路を拓き 更に進歩を求め酪農経営に踏み切り 幾多の障害を克服し かつての熊笹の曠野は栄養豊かな牧野と化し 放牧牛の群れが長閑に草を喰む さながら絵の如き 大規模近代農業基盤確立の偉業を成せり これ一偏に不撓不屈開拓魂の精華であり 大勢の方々の善意と関係機関の篤い指導支援の賜である 

茲に風雪三十年の足蹟を永久に留め後世の大成への指標たらんことを願って此の碑を建立するものである

昭和五十二年十月一日  関係者29名氏名

⑦碑文(裏面)  無し

⑧現在の状況  地区内で管理されている。ミルク園の斜め前の公園に建立。

高知県

高知県南国市・日章開拓地

アクセス

記念碑と記念広場
高知県南国(なんこく)市の高知空港の前身は、1944(昭和19)年に設置された日本海軍の日章(にっしょう)第一海軍航空基地。空港と南西の水田地帯との間に、日章開拓農協が建立した記念碑などがある。
41年、海軍は香美郡三島村(当時)に航空基地を建設するため、2184反の土地を接収。263戸、1500人余りの住民は急遽、退去を命じられた。翌年、人口が激減した三島村は、同郡の田村、立田村と合併し、日章村(現・南国市の物部川河口部)が発足した。
終戦後、一部の農地が元・住民に返還された。農地に戻すために、住民らは日章開拓農協を設立。組合員は、失った古里の再興のため、汗にまみれ、ひたすら開拓の鍬(くわ)をとった。
しかし、国と県は、859反を高知大学の設立用地、空港用地などに決定。組合員の全土払い下げの悲願は断たれた。さらに83年、滑走路の延長や空港敷地の拡張が行われた。2年後、開拓農協は解散することになった。
85年3月、農協解散に際し建立された記念碑の刻銘は「開拓記念碑」(写真㊤)。碑文には開拓の沿革が記してあり、末尾に「思えば半生 時の流れには抗し難し 古里再び旧に還らぬ いまはただ来る世の礎石となりせめて学究の若者達の開ける道と県土夜明けの空の道とならんことを」と刻まれている。
近くに、日章開拓農協が同年同月に設けた広場があり、石碑「記念広場」が建立されている(写真㊨)。裏面には、唱歌「ふるさと」の歌詩と広場の由来が記されている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2019年9月 高知・日章開拓地

日章(にっしょう)  39-204-1

 

①調査日  令和元年5月22日

②所在  南国市

緯度・経度:33.5389430083254,133.6760999084529

③地区の沿革  明治の頃より沃土であったところを昭和16年海軍が接収。戦後改めて開拓する。

④設置年月日  昭和60年3月

⑤設置者  日章開拓農業協同組合

⑥碑文(表面)  

(ア)開拓記念碑 この地は明治二十二年七月物部久枝下島三村が相寄って誕生し香美郡に属した元の三島の里である 沃土は農を興し黒潮に恵まれて文化の香り高く県下屈指の優良村となって栄えた

秋田川の流れは老若に憩を授け鎮守室岡山は白鳳から明治にわたる数多い津波洪水に村人避難の神域となり命山と呼んでその信を集めた

第二次世界戦争の予兆濃い昭和十六年早々日本海軍はここに航空基地を建設す 総面積二一八四反を接収 二六三戸 一五00余の住民ら急遽退去を命ぜられる 人々互いに別れを惜しみ父祖の霊位を抱き慌しく村を去る 翌十七年日章村発足となる 年を経ずして敗れて戦は終り接収土地の還元を見る 縁りの者らは組合をつくり失った古里再興に祈りをこめ 汗にまみれ苦難を乗り越えて只管開拓の鍬をとる 退去を急がれた寸土を守り続けた者達も一つの思いに力をあわせた

しかるにすでに国県は八五九反を高知大学 空港用地と決定し われら農民の全土払下げへの悲願を断つ 続いて工専が開設され さらには今次空港の再拡張となり開拓の面影は潰え去るに至った 思えば半生時の流れには抗し難し古里再び旧に還らぬ

いまはただ来る世の礎石となりせめて学究の若者達の開ける道と県土夜明けの空の道ならんことを茲に組合を閉ざすに当り後世のため碑を建て沿革の大略を誌す

元日章村長 元県会議長 西内四郎 撰書

 日章開拓農業協同組合

 昭和六十年三月

 (イ)記念広場 日章開拓農業協同組合

 高知県知事 中内 力 書

⑦碑文(裏面)

(ア)無し

 (イ)うさぎ追いしかの山 こぶなつりかの川 夢は今もめぐりて わすれかたきふるさと

その昔ここを流れていた貝田川は地域の潤いであり なお懐かしく望郷を呼ぶ

大東亜戦が終った後旧飛行場跡地の開拓を実施してまた日章開拓農協は総てを終り解散するに際し南国市高知県の協賛を得てここに記念の広場を設けた 

往年の夢を追いみんなの憩の場として残りの少ない自然を守り育てようではないか

昭和六十年三月之建

⑧現在の状況

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