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開拓記念碑調査事業

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岡山県

「野原開拓之碑」 岡山県新見市神郷

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「野原開拓之碑」

岡山県新見市神郷

岡山県では、1945(昭和20)年から57年にかけて、55の開拓農協が設立された(「岡山県戦後開拓史」78年発行)。

県北西部に位置する新見市は鳥取、広島両県に接し、面積の多くを山林が占めている。人口は約2万7千人。農業はブドウやクリなどが栽培されている。北部の中国山地にある神郷(しんごう)(旧・阿哲(あてつ)郡神郷町)の野原地区は戦後開拓地である。

45年10月から、満州開拓の引揚者、復員者等23戸が入植した。標高510~770㍍で、雑木が繁茂していた。冬は積雪量が多く、北風が強かった。

48年、自興開拓農業協同組合(以下「開拓農協」)を設立。土地は強酸性の痩せ地で、霜害もあり、農業には条件が悪かった。入植者は開墾のかたわら、山仕事、日雇いに出て現金収入を得た。開墾が進み、作付けしても収穫がなく、離農者が続出した。

土壌を改良して種々の作物を栽培したが、収穫量は少なかった。59年に酪農、65年には造林用苗木や美濃早生ダイコンの栽培を取り入れ、営農が安定してきた。

開拓行政の一般行政移行に伴い、開拓農協は71年に解散し、新たに野原部落を結成した。残ったのは15戸だったが、経営規模は大きかった。

開拓地の台地に、松並木と大きな石碑がある。松並木は、県が78年に「郷土記念物」に指定。自然に生えていたアカマツを、入植者が防風林として残し、手入れしてきたもので、開拓の象徴となっている。

石碑は、開拓農協の解散を機に開拓の成功を記念して72年に建立されたもので、碑銘は「野原開拓之碑」。裏面には、碑文と入植者の氏名が刻まれている。

碑文には「不毛ノ原野ニ入植シ苦節二十五年粒々辛苦ノ末ココニ当初ノ目的デアッタ自立農家ノ達成ヲ見ルニ至ッタ」、「自興開拓農業協同組合ハソノ任ヲ終エタノデコレヲ解散シ一般行政ノ下ニ移行スル 今コノ偉業ヲ永ク記念スルタメ同士相計リ開拓碑ヲ建立スル」などと記されている。

 

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2022年9月 岡山・野原

野原(のばら)  33-210-1

 

①調査日  令和元年5月28日

②所在  新見市神郷高瀬

緯度・経度:35.0961141505824,133.3447411826833

③地区の沿革  昭和20年10月から、満州開拓の引揚者、復員者等23戸が入植した。標高510~770米で、雑木が繁茂していた。冬は積雪量が多く、北風が強かった。

④設置年月日  昭和47年6月

⑤設置者  入植者

⑥碑文(表面)  野原開拓之碑

 農林大臣 赤城 宗徳 書

⑦碑文(裏面)  

野原の開拓は昭和二十一年十月十六日に始まる 不毛の原野に入植し苦節二十五年粒々辛苦の末ここに当初の目的であった自立農家の●成を見るに至った 昭和●十三年九月この事業完遂のために結成した自興開拓農業協同組合はその任を終えたのでこれを解散し一般行政の下に移行する 今この偉業を永く記念するため同士相図り開拓碑を建立する           昭和四十七年六月

⑧現在の状況  開拓地の防風林「郷土記念物 野原の松並木」内で管理されている。

(碑に隣接し、県が設置した野原の松並木の看板)

岡山県

備北

備北(びほく)  33-210-2

 

①調査日 令和元年5月28日

②所在 新見市神郷油野

③地区の沿革 不明

④設置年月日 不明

⑤設置者 不明

⑥碑文(表面) 開拓塔

⑦碑文(裏面) 判読不明

⑧現在の状況 戦後開拓地内に立地するも、周囲は道路わきで笹藪になっている。入植者が自ら石を刻んだ様に見える。裏面に刻文があるようだったが、苔生して判読できなかった。

岡山県

鹿久居島

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鹿久居島(かくいじま)  33-211-1

 

①調査日 令和元年5月27日

②所在 備前市鹿久居島

緯度・経度:34.71148588993237,134.28363693712

③地区の沿革 不明

④設置年月日 平成8年4月

⑤設置者 記念事業建立発起人

⑥碑文(表面) 久居島開拓団

 入植五十周年記念碑

⑦碑文(裏面) 開拓入植者50数名氏名

⑧現在の状況 島の船着き場近くに立地し管理されている。

岡山県

岡山県真庭市・蒜山開拓

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岡山県真庭市・蒜山開拓

岡山県北中部 の 真庭市は 05 年、5町4村が合併して誕生 。最北部 で鳥取県と境を接する
蒜山(ひるぜん)地区 (旧・ 八束村 、川上村 の蒜山高原 は 標高500~600㍍、夏は避暑地として観光客で賑わう。 風光明媚 で、 キャンプ場やスキー場 、 レジャー 施設が あるが、 戦前は陸軍の演習場だった 。 戦後 、 緊急開拓 事業 で 切り開かれた。
46(昭和 21 )年 12 月から入植が始まり 、 翌年5月に総勢175名をもって 蒜山 原開拓団が結成された。 48年、蒜山原開拓農協を 設立(後に 蒜山開拓農協 した。
雨量が多い地域で 、屋外作業 は 困難を極めた 。冬は 積雪が多く、厳しい気象条件 だった。
土壌は火山灰 を含む「 黒ボコ 」に覆われ、強酸性。入植者の 前歴は様々で、ほとんどが農業の未経験者であり、鍬一丁の開墾作業は容易 ではなかった。
農業収入が満足に得られぬ歳月が流れた が、52 年 、試作販売した 美濃早生ダイコンが好評を博し、生産を拡大。 59 年、開拓農協による 共販体制が確立した。また、57 年にはジャージー牛による酪農経営が始まった。 次第に頭数を増やし 、国内有数のジャージー牛の産地となった。
現在、ダイコン と ジャージー牛 製品(牛乳・乳 製品)が 蒜山の特産品となっている。
「道の駅 蒜山高原」 近くの八束自然牧場公園内に 、 蒜山拓友会が管理している2基 の石碑がある。 開拓40周年を迎えるにあたり、 蒜山 開拓農協が 2基 とも 85 年に建立したもので 、 翌年 、除幕式が行われた。碑銘は記念碑が 「 蒜山開拓記念碑」 、拓魂碑が 「 拓魂 」。
記念碑 の 裏面には、開拓の沿革と開拓者氏名が刻まれている。碑文の末尾には「記念碑と拓魂碑を建立し亡き友の霊を祀ると共に苦難に徹して立上った我等の開拓精神を後世に伝えんとするものである 」と記されている 。

 

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2020年2月  岡山県真庭市・蒜山開拓

〇蒜山開拓記念碑
①位 置 岡山県真庭市蒜山富山根 蒜山自然牧場公園内
35.295928, 133.668682

②設置者
蒜山開拓農業協同組合

③設置日 昭和 60 年5月

④碑文表 ①蒜山開拓記念碑 参議院議長 木村睦男書
     ②拓魂 内閣総理大臣 中曽根康弘書

⑤碑文裏 ①昭和21年春政府の緊急開拓政策に応じ敗戦の悲しみの中にも欝勃たる気を秘めこの地に馳せ参じた開拓同士の数175名5月9日厳粛に結団式を挙行した然してそこには言語に絶する苦難の日々が待ち構えて いた酸性の強い黒ボコ蒔いても植えても育たない日々が延々と続き遂に鍬を捨て出稼ぎに行かざるを得なくなった加えて冬季は1米余の積雪この苦難の生活に耐え兼ね山を去る者が続出した然しこの苦難によく耐えた我らは立上る努力を怠らなかった巳に昭和23年には美濃早生大根の栽培に着目し漬物による現金収入の道をひらき27年には生果として市場出荷の道を見つけ栽培面積の拡大に伴い34年には開拓農協共販体制を確立更に地元え栽培が拡大され36年に蒜山拓農協共販体制を確立更に地元え栽培が拡大され36年に蒜山地区出荷連合会を設立遂に蒜山大根の銘柄を日本全土に確立し地区出荷連合会を設立遂に蒜山大根の銘柄を日本全土に確立した35年蒜山開拓振興計画が認定され建設工事も着工を見一方され建設工事も着工を見一方一部の同士は大型酪農により生計を安定するに至った茲に蒜山開拓40周年を迎えるに当たり記念碑と拓魂碑を建立し亡き友の霊を祀ると共に苦難に徹して立上った我等の開拓精神を後世に伝えんとするものである
(氏名100名あまり)
昭和60年10月吉日
初代団長 成友正明撰書

②過ぐる昭和 20 年 8 月太平洋戦争終結後の国内は言語に絶する食糧の拂底に対応した政府の緊急開拓実施要領の国策に順応して食糧増産者の名を冠せられ入植致された私達の先輩 同僚の各位が困苦欠乏に耐えて鋤を揮い遂に病に侵され今日の蒜山原を知る由もなく見果てぬ夢に悔いを残して他界致された諸子の心情を思う秋惻隠の情切々と私達の胸を打ちます茲に蒜山開拓40年の節目を迎え開拓者一同相図り諸子の霊魂の御冥福を祈り拓魂碑を建立して諡を碑庫に奉納し幾久しく皆様の追善を行います本碑建立には岡山県八束村各当局を始めその他各方面より絶大な協賛を得更に本碑面題字は中曽根康弘内閣総理大臣の揮毫快諾を得て皆様の霊位に応えて頂きました希わくば在天の霊魂安らかにお眠り下さい
昭和 60 年 5 月吉日
蒜山開拓農業協同組合

岡山県

日本原開拓之碑

「日本原開拓之碑」

岡山県勝田郡奈義町・日本原開拓

岡山県北東部の勝田郡奈義町(なぎちょう)は鳥取県と接し、人口は約5500人で、農業、畜産、林業が主な産業。中国山脈の主峰・那(な)岐山(ぎさん)の南麓に位置し、町の南西部には、緩傾斜の日本原(にほんばら)高原が広がっている。日本原には戦前、陸軍の演習場があった。その跡地で戦後開拓事業が行われた。

1946(昭和21)年3月、引揚者、戦災者を主体に88戸が入植した。開拓地の面積は156町歩で、表土は火山灰の黒土だった。台風発生時などには、「広戸風(ひろとかぜ)」と呼ばれる強風が山から吹き下ろす地区で、豪雪地帯でもある。土地・資材の配分、地区別の組編成を行い、開拓を始めた。手作業で開墾に打ち込んだ。

48年、日本原開拓農協を設立。カンショ、バレイショの生産、乳用牛の導入などを推進した。50年、電気が導入された。同年、中四国9県の中から、優良開拓地として、農林大臣賞を受賞した。

その後、酪農のほかに肉用牛や養鶏など、畜産が急速に普及した。

61年から、陸上自衛隊演習場の拡張のために、防衛庁による開拓地の買収交渉が行われた。63年、買収が確定(現・陸上自衛隊日本原駐屯地、同演習場)。翌年、76戸が離農し、県内各地に転出した。新野地区のみ12戸が残留し、15町歩の開拓地を基盤に酪農を主体として定着した。

同町上町川の公民館の敷地内に、開拓記念碑がある。入植者が89年に建立したもので、碑銘は「日本原開拓之碑」。裏面には、碑文と開拓者氏名が刻まれている。碑文には、「祖国復興ノ使命感ト開拓魂ヲ矜持シ、新天地ヲ築ク歓ビニ燃エ、一致団結シテ黒土ノ大地ニ挑ミ、営々辛苦、優秀開拓地トシテ農林大臣賞ヲ受クルコト再度」「奈義町ノ陸上自衛隊誘致ニ伴ヒ三十九年三月、十二戸ヲ残シテ七十六戸ハ、其ノ血ト汗ト涙ノ結晶タル農地等百四十町歩ト訣別シ、再ビ新タナル天地ヲ求メテ離散ノ止ムナキニ至ル」と記されている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2021年4月 岡山・日本原

日本原開拓之碑   33-623-1

 

①所在  岡山県勝田郡奈義町上町川

②設置年月日  昭和63年9月18日

③設置者  入植者

④碑名  開拓碑

⑤碑文(表面)  日本原開拓之碑 奈義町長 黒田 貞太郎 書

副碑(表面)  賛助者芳名

⑥碑文(裏面)  昭和二十年八月 大戦に敗れし直後の惨担たる国土荒廃と食糧危機に対処すべく復員軍人・戦災者・海外引揚者等二百十六世帯帰農を志して日本原に結集す。占領軍の強制退去命令を受くるも断固屈せざるもの八十八戸二十一年四月県道百五十六町歩の払下げに成功し祖国復興の使命感と開拓魂を矜持し、新天地を築く歓びに燃え、一致団結して黒土の大地に挑み、営々辛苦、優秀開拓地として農林大臣賞を受くること再度。然れども打続く災害と変転する経済情勢は如何ともし難く、加ふるに奈義町の陸上自衛隊誘致決定に伴い三十九年三月 十二戸を残して七十六戸は、其の血と汗と涙の結晶たる農地等百四十町歩と訣別し、再び新たなる天地を求め離散の止むなきに至る。その後星霜更に二十有余を閲し、既に帰幽せる者半ばに達したり我ら日本原開拓の血涙の歴史を忘るる能はず無量の感慨を以て開拓の碑を建て、鎮魂の祈念を捧げ永く其の経緯を伝へんとす。          

昭和六十三年九月十八日          開拓者氏名

⑦現在の状況  日本原開拓記念館地内で管理されている。

広島県

広島県呉市・野呂山開拓

広島県呉市・野呂山開拓

広島県の南部、呉市に位置する野呂山(のろさん)は標高839メートルの膳棚山から東の弘法寺山までの高原の総称で、瀬戸内海国立公園の区域に指定されている。国民宿舎やキャンプ場、展望台などの施設がある。展望台からは瀬戸内海を眺望することができる。豊田郡安浦町(現・呉市安浦町)の野呂山開拓地には、終戦後の46(昭和21)年から海外引揚者らが入植し、開墾が行われた。
同県の戦前・戦中の産業構造は軍需産業への依存度が高かったため、戦時経済の破滅により地域経済は重大な危機を迎えた。多くの戦災者、離職者、復員軍人らが農山村における就業機会を求めて、開拓者として入植した59年までの開拓地は197地区を数えた。
野呂山開拓の歴史は、江戸時代に遡る。江戸時代後期及び明治初頭に開拓が実施されたが、いずれも長続きしなかった。終戦後に入植した開拓団は、満州(現・中国東北部)からの引揚者ら71戸294名。手作りの丸太小屋でのランプ生活だった。気温が低く、特に冬の寒さは厳しかった。原野の伐採作業から始めた開拓は重労働だった。34年に瀬戸内海国立公園に指定され、開拓予定地は縮小された。
入植者は様々な作物の栽培を試みた。やがて、ダイコンが特産品として高値で取り引きされるようになった。しかし、野呂山の観光開発が進むにつれて、離農者が増えていった。
山頂付近に開拓記念碑が立っている。県下最後の開拓組織となった広島県開拓農協が85年10月に建立したもので、碑銘は「開拓記念碑」。裏面の碑文には、「この碑は昭和二十年八月 大東亜戦争の終結に当たり 県内各地において二千七百戸の開拓者が五千四百町歩の荒地を開墾して 戦後の食糧不足に貢献した業績を後世に伝える為に建立したものである」と刻まれている。

 

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2021年1月 広島・野呂山

野呂山 開拓記念碑
①所在 広島県呉市安浦町
②設置年月日 昭和60年10月10日
③設置者 広島県開拓農業協同組合
④碑名 開拓碑
⑤碑文(表面) 開拓記念碑
⑥碑文(裏面)
この碑は昭和二十年八月 大東亜戦争の終結にあたり 県内各地において 二千七百戸の開拓者が 五千四百町歩の荒地を開墾して 戦後の食糧不足に貢献した業績を後世に伝える為に建立したものである。
昭和六十年十月十日  広島県開拓農業協同組合建之
⑦現在の状況
標高839米の野呂山の頂上付近の道路脇にあり、管理されている。

広島県

廻神地区(三次開拓)

アクセス

廻神地区(三次開拓) 34-209-1

 

①調査日  令和8年9月15日

②所在  広島県三次市廻神町

緯度・経度 34.7628662159, 132.877878694

③地区の沿革  

④設置年月日  昭和41年11月23日建立

⑤設置者  不明

⑥碑文(表面)  開拓記念碑

⑦碑文(裏面)  開拓者19名の氏名が刻まれている。

碑文(側面):着工 昭和21年9月、総面積 25町歩、用水地面積 3町9反8畝14歩、工費 1948万円、用水路延長3400m

碑文(側面):昭和41年11月23日建立

⑧現在の状況  二十二区集会所敷地端に建立。隣には「牛の草」という「NIHONMATSU FARM」のレストランがある。二本松牧場は近くに農場を経営しており、ジャージー牛の放牧が見られた。

広島県

広島県北広島町・若林開拓

アクセス

子や孫の心に残る記念碑

広島県北広島町・若林開拓

 広島県北広島町の若林開拓は、県北西部の山地で広島市の北側に位置し、標高は400m近い高地にある。

 また、島根県との県境には1000m級の山々が連なり、降雪量も多く、近くにスキー場が集積している。

46年に大陸からの引き揚げ者を含む31名が入植した。

しかし、農業の経験が無く、草の刈り方も知らない人もおり、仲間の人たちに教えてもらいながらの一鍬一鍬となった。

 とにかく食料の自給が先決なので、雨降りには湿地を掘り起こし、腰まで浸かって田を起こした。全て人の手作業なので、長い年月を要した。ところが、苦労して作った田も、用水不足で大雨が降らないと田植えができない。主食を自給するまでには長い年月を要した。

 一方、野菜で収入を得ようと・ダイコン・ハクサイを育てたが、土地が瘦せているのと、肥料が充分でなかったため、思うように収入が上がらず、前途多難であった。

 野菜・モモ・葉タバコなど次々に取り組んだが、決定的な作物とはならず、酪農に落ち着く家がでてきた。

広島県戦後開拓史(広島県開拓農協編)の中で、若林開拓の女性の方が「何よりも辛かったのは、開拓に土地を取られた地主が開拓の子どもたちに、あんた達はひどいことをした、と再三再四言われたこと」として「でも、そんな事に気を取られては作業ができない。何事にも目をつむり、ただ生きるために一生懸命だった」と語っている。

 85年、入植40周年を記念して記念碑が建てられ、入植者31名の名が刻まれた。この時は当時の入植者はすでに半数となっていた。

 同開拓史の中で女性が「子供が後を継がないことを悲しまないようにしている。自分たちの汗と涙を吸った土地が、厳然(げんぜん)としてここにあるのだから。この石碑が子や孫にとって故郷の証しとしていつまでも心に残るよう願っています」と語っていた。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2024年5月 広島県北広島町・若林開拓

若林  34-369-1

 

①調査日  平成28年12月6日

②所在  山県郡北広島町阿坂

緯度・経度:34.6149972837326,132.4547460179614

③地区の沿革  不明

④設置年月日  昭和60年11月1日

⑤設置者  入植者

⑥碑文(表面)  昭和二十一年十一月一日入植

  若林入植記念碑  

昭和六十年十一月一日建立

入植者31名氏名

⑦碑文(裏面)  無し

⑧現在の状況  若林集会所地内で管理されている。

広島県

千町原地区(開拓)

アクセス

千町原地区(開拓) 34-369-2

 

①調査日  令和8年9月15日

②所在  広島県山県郡北広島町都志見千町原入口

緯度・経度 34.657467042, 132.471012174

③地区の沿革  

④設置年月日  昭和62年5月吉日

⑤設置者  原村長吉原寿郎氏外村民有志

⑥碑文(表面)  開拓記念碑

千町原開拓入植者 この碑は昭和20年8月第二次世界大戦の終結と共に緊急開拓臨時措置法により農林省の開拓用地106町の山野に昭和21年5月に85戸入植、原村長吉原寿郎氏外村民有志の御尽力を得開拓し自立農業に成果を挙げた所以を記念し後世に残すためのものである

昭和62年5月吉日

山口県

井関地区(阿知須開拓)

アクセス

井関地区(阿知須開拓) 35-203-1

 

①調査日  令和8年9月14日

②所在  山口県山口市阿知須

緯度・経度 34.013161449, 131.367878399

③地区の沿革  

④設置年月日  着工:昭和22年11月

竣功:昭和39年9月

⑤設置者  

⑥碑文(表面)  阿知須干拓竣功碑

⑦碑文(裏面)  当阿知須干拓は第二次世界大戦後祖国復興の緊急開拓事業の一環として自作農創設食糧増産失業救済の目的をもって国営事業として発足したもので事業の概要は次のとおりである

着工 昭和22年11月、竣功 昭和39年9月、総面積 二百八十五陌、造成面積 二百二十二陌、堤防延長 五千二百四十米、事業費 十億四千万円

⑧現在の状況  

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