中国・四国地方
岡山県
「野原開拓之碑」 岡山県新見市神郷
「野原開拓之碑」
岡山県新見市神郷
岡山県では、1945(昭和20)年から57年にかけて、55の開拓農協が設立された(「岡山県戦後開拓史」78年発行)。
県北西部に位置する新見市は鳥取、広島両県に接し、面積の多くを山林が占めている。人口は約2万7千人。農業はブドウやクリなどが栽培されている。北部の中国山地にある神郷(しんごう)(旧・阿哲(あてつ)郡神郷町)の野原地区は戦後開拓地である。
45年10月から、満州開拓の引揚者、復員者等23戸が入植した。標高510~770㍍で、雑木が繁茂していた。冬は積雪量が多く、北風が強かった。
48年、自興開拓農業協同組合(以下「開拓農協」)を設立。土地は強酸性の痩せ地で、霜害もあり、農業には条件が悪かった。入植者は開墾のかたわら、山仕事、日雇いに出て現金収入を得た。開墾が進み、作付けしても収穫がなく、離農者が続出した。
土壌を改良して種々の作物を栽培したが、収穫量は少なかった。59年に酪農、65年には造林用苗木や美濃早生ダイコンの栽培を取り入れ、営農が安定してきた。
開拓行政の一般行政移行に伴い、開拓農協は71年に解散し、新たに野原部落を結成した。残ったのは15戸だったが、経営規模は大きかった。
開拓地の台地に、松並木と大きな石碑がある。松並木は、県が78年に「郷土記念物」に指定。自然に生えていたアカマツを、入植者が防風林として残し、手入れしてきたもので、開拓の象徴となっている。
石碑は、開拓農協の解散を機に開拓の成功を記念して72年に建立されたもので、碑銘は「野原開拓之碑」。裏面には、碑文と入植者の氏名が刻まれている。
碑文には「不毛ノ原野ニ入植シ苦節二十五年粒々辛苦ノ末ココニ当初ノ目的デアッタ自立農家ノ達成ヲ見ルニ至ッタ」、「自興開拓農業協同組合ハソノ任ヲ終エタノデコレヲ解散シ一般行政ノ下ニ移行スル 今コノ偉業ヲ永ク記念スルタメ同士相計リ開拓碑ヲ建立スル」などと記されている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
野原(のばら) 33-210-1
①調査日 令和元年5月28日
②所在 新見市神郷高瀬
緯度・経度:35.0961141505824,133.3447411826833
③地区の沿革 昭和20年10月から、満州開拓の引揚者、復員者等23戸が入植した。標高510~770米で、雑木が繁茂していた。冬は積雪量が多く、北風が強かった。
④設置年月日 昭和47年6月
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 野原開拓之碑
農林大臣 赤城 宗徳 書
⑦碑文(裏面)
野原の開拓は昭和二十一年十月十六日に始まる 不毛の原野に入植し苦節二十五年粒々辛苦の末ここに当初の目的であった自立農家の●成を見るに至った 昭和●十三年九月この事業完遂のために結成した自興開拓農業協同組合はその任を終えたのでこれを解散し一般行政の下に移行する 今この偉業を永く記念するため同士相図り開拓碑を建立する 昭和四十七年六月
⑧現在の状況 開拓地の防風林「郷土記念物 野原の松並木」内で管理されている。
(碑に隣接し、県が設置した野原の松並木の看板)
岡山県
備北
岡山県
鹿久居島
岡山県
岡山県真庭市・蒜山開拓
岡山県真庭市・蒜山開拓
岡山県北中部 の 真庭市は 05 年、5町4村が合併して誕生 。最北部 で鳥取県と境を接する
蒜山(ひるぜん)地区 (旧・ 八束村 、川上村 の蒜山高原 は 標高500~600㍍、夏は避暑地として観光客で賑わう。 風光明媚 で、 キャンプ場やスキー場 、 レジャー 施設が あるが、 戦前は陸軍の演習場だった 。 戦後 、 緊急開拓 事業 で 切り開かれた。
46(昭和 21 )年 12 月から入植が始まり 、 翌年5月に総勢175名をもって 蒜山 原開拓団が結成された。 48年、蒜山原開拓農協を 設立(後に 蒜山開拓農協 した。
雨量が多い地域で 、屋外作業 は 困難を極めた 。冬は 積雪が多く、厳しい気象条件 だった。
土壌は火山灰 を含む「 黒ボコ 」に覆われ、強酸性。入植者の 前歴は様々で、ほとんどが農業の未経験者であり、鍬一丁の開墾作業は容易 ではなかった。
農業収入が満足に得られぬ歳月が流れた が、52 年 、試作販売した 美濃早生ダイコンが好評を博し、生産を拡大。 59 年、開拓農協による 共販体制が確立した。また、57 年にはジャージー牛による酪農経営が始まった。 次第に頭数を増やし 、国内有数のジャージー牛の産地となった。
現在、ダイコン と ジャージー牛 製品(牛乳・乳 製品)が 蒜山の特産品となっている。
「道の駅 蒜山高原」 近くの八束自然牧場公園内に 、 蒜山拓友会が管理している2基 の石碑がある。 開拓40周年を迎えるにあたり、 蒜山 開拓農協が 2基 とも 85 年に建立したもので 、 翌年 、除幕式が行われた。碑銘は記念碑が 「 蒜山開拓記念碑」 、拓魂碑が 「 拓魂 」。
記念碑 の 裏面には、開拓の沿革と開拓者氏名が刻まれている。碑文の末尾には「記念碑と拓魂碑を建立し亡き友の霊を祀ると共に苦難に徹して立上った我等の開拓精神を後世に伝えんとするものである 」と記されている 。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
〇蒜山開拓記念碑
①位 置 岡山県真庭市蒜山富山根 蒜山自然牧場公園内
35.295928, 133.668682
②設置者
蒜山開拓農業協同組合
③設置日 昭和 60 年5月
④碑文表 ①蒜山開拓記念碑 参議院議長 木村睦男書
②拓魂 内閣総理大臣 中曽根康弘書
⑤碑文裏 ①昭和21年春政府の緊急開拓政策に応じ敗戦の悲しみの中にも欝勃たる気を秘めこの地に馳せ参じた開拓同士の数175名5月9日厳粛に結団式を挙行した然してそこには言語に絶する苦難の日々が待ち構えて いた酸性の強い黒ボコ蒔いても植えても育たない日々が延々と続き遂に鍬を捨て出稼ぎに行かざるを得なくなった加えて冬季は1米余の積雪この苦難の生活に耐え兼ね山を去る者が続出した然しこの苦難によく耐えた我らは立上る努力を怠らなかった巳に昭和23年には美濃早生大根の栽培に着目し漬物による現金収入の道をひらき27年には生果として市場出荷の道を見つけ栽培面積の拡大に伴い34年には開拓農協共販体制を確立更に地元え栽培が拡大され36年に蒜山拓農協共販体制を確立更に地元え栽培が拡大され36年に蒜山地区出荷連合会を設立遂に蒜山大根の銘柄を日本全土に確立し地区出荷連合会を設立遂に蒜山大根の銘柄を日本全土に確立した35年蒜山開拓振興計画が認定され建設工事も着工を見一方され建設工事も着工を見一方一部の同士は大型酪農により生計を安定するに至った茲に蒜山開拓40周年を迎えるに当たり記念碑と拓魂碑を建立し亡き友の霊を祀ると共に苦難に徹して立上った我等の開拓精神を後世に伝えんとするものである
(氏名100名あまり)
昭和60年10月吉日
初代団長 成友正明撰書
②過ぐる昭和 20 年 8 月太平洋戦争終結後の国内は言語に絶する食糧の拂底に対応した政府の緊急開拓実施要領の国策に順応して食糧増産者の名を冠せられ入植致された私達の先輩 同僚の各位が困苦欠乏に耐えて鋤を揮い遂に病に侵され今日の蒜山原を知る由もなく見果てぬ夢に悔いを残して他界致された諸子の心情を思う秋惻隠の情切々と私達の胸を打ちます茲に蒜山開拓40年の節目を迎え開拓者一同相図り諸子の霊魂の御冥福を祈り拓魂碑を建立して諡を碑庫に奉納し幾久しく皆様の追善を行います本碑建立には岡山県八束村各当局を始めその他各方面より絶大な協賛を得更に本碑面題字は中曽根康弘内閣総理大臣の揮毫快諾を得て皆様の霊位に応えて頂きました希わくば在天の霊魂安らかにお眠り下さい
昭和 60 年 5 月吉日
蒜山開拓農業協同組合
岡山県
日本原開拓之碑
「日本原開拓之碑」
岡山県勝田郡奈義町・日本原開拓
岡山県北東部の勝田郡奈義町(なぎちょう)は鳥取県と接し、人口は約5500人で、農業、畜産、林業が主な産業。中国山脈の主峰・那(な)岐山(ぎさん)の南麓に位置し、町の南西部には、緩傾斜の日本原(にほんばら)高原が広がっている。日本原には戦前、陸軍の演習場があった。その跡地で戦後開拓事業が行われた。
1946(昭和21)年3月、引揚者、戦災者を主体に88戸が入植した。開拓地の面積は156町歩で、表土は火山灰の黒土だった。台風発生時などには、「広戸風(ひろとかぜ)」と呼ばれる強風が山から吹き下ろす地区で、豪雪地帯でもある。土地・資材の配分、地区別の組編成を行い、開拓を始めた。手作業で開墾に打ち込んだ。
48年、日本原開拓農協を設立。カンショ、バレイショの生産、乳用牛の導入などを推進した。50年、電気が導入された。同年、中四国9県の中から、優良開拓地として、農林大臣賞を受賞した。
その後、酪農のほかに肉用牛や養鶏など、畜産が急速に普及した。
61年から、陸上自衛隊演習場の拡張のために、防衛庁による開拓地の買収交渉が行われた。63年、買収が確定(現・陸上自衛隊日本原駐屯地、同演習場)。翌年、76戸が離農し、県内各地に転出した。新野地区のみ12戸が残留し、15町歩の開拓地を基盤に酪農を主体として定着した。
同町上町川の公民館の敷地内に、開拓記念碑がある。入植者が89年に建立したもので、碑銘は「日本原開拓之碑」。裏面には、碑文と開拓者氏名が刻まれている。碑文には、「祖国復興ノ使命感ト開拓魂ヲ矜持シ、新天地ヲ築ク歓ビニ燃エ、一致団結シテ黒土ノ大地ニ挑ミ、営々辛苦、優秀開拓地トシテ農林大臣賞ヲ受クルコト再度」「奈義町ノ陸上自衛隊誘致ニ伴ヒ三十九年三月、十二戸ヲ残シテ七十六戸ハ、其ノ血ト汗ト涙ノ結晶タル農地等百四十町歩ト訣別シ、再ビ新タナル天地ヲ求メテ離散ノ止ムナキニ至ル」と記されている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
日本原開拓之碑 33-623-1
①所在 岡山県勝田郡奈義町上町川
②設置年月日 昭和63年9月18日
③設置者 入植者
④碑名 開拓碑
⑤碑文(表面) 日本原開拓之碑 奈義町長 黒田 貞太郎 書
副碑(表面) 賛助者芳名
⑥碑文(裏面) 昭和二十年八月 大戦に敗れし直後の惨担たる国土荒廃と食糧危機に対処すべく復員軍人・戦災者・海外引揚者等二百十六世帯帰農を志して日本原に結集す。占領軍の強制退去命令を受くるも断固屈せざるもの八十八戸二十一年四月県道百五十六町歩の払下げに成功し祖国復興の使命感と開拓魂を矜持し、新天地を築く歓びに燃え、一致団結して黒土の大地に挑み、営々辛苦、優秀開拓地として農林大臣賞を受くること再度。然れども打続く災害と変転する経済情勢は如何ともし難く、加ふるに奈義町の陸上自衛隊誘致決定に伴い三十九年三月 十二戸を残して七十六戸は、其の血と汗と涙の結晶たる農地等百四十町歩と訣別し、再び新たなる天地を求め離散の止むなきに至る。その後星霜更に二十有余を閲し、既に帰幽せる者半ばに達したり我ら日本原開拓の血涙の歴史を忘るる能はず無量の感慨を以て開拓の碑を建て、鎮魂の祈念を捧げ永く其の経緯を伝へんとす。
昭和六十三年九月十八日 開拓者氏名
⑦現在の状況 日本原開拓記念館地内で管理されている。広島県
広島県呉市・野呂山開拓
広島県呉市・野呂山開拓
広島県の南部、呉市に位置する野呂山(のろさん)は標高839メートルの膳棚山から東の弘法寺山までの高原の総称で、瀬戸内海国立公園の区域に指定されている。国民宿舎やキャンプ場、展望台などの施設がある。展望台からは瀬戸内海を眺望することができる。豊田郡安浦町(現・呉市安浦町)の野呂山開拓地には、終戦後の46(昭和21)年から海外引揚者らが入植し、開墾が行われた。
同県の戦前・戦中の産業構造は軍需産業への依存度が高かったため、戦時経済の破滅により地域経済は重大な危機を迎えた。多くの戦災者、離職者、復員軍人らが農山村における就業機会を求めて、開拓者として入植した59年までの開拓地は197地区を数えた。
野呂山開拓の歴史は、江戸時代に遡る。江戸時代後期及び明治初頭に開拓が実施されたが、いずれも長続きしなかった。終戦後に入植した開拓団は、満州(現・中国東北部)からの引揚者ら71戸294名。手作りの丸太小屋でのランプ生活だった。気温が低く、特に冬の寒さは厳しかった。原野の伐採作業から始めた開拓は重労働だった。34年に瀬戸内海国立公園に指定され、開拓予定地は縮小された。
入植者は様々な作物の栽培を試みた。やがて、ダイコンが特産品として高値で取り引きされるようになった。しかし、野呂山の観光開発が進むにつれて、離農者が増えていった。
山頂付近に開拓記念碑が立っている。県下最後の開拓組織となった広島県開拓農協が85年10月に建立したもので、碑銘は「開拓記念碑」。裏面の碑文には、「この碑は昭和二十年八月 大東亜戦争の終結に当たり 県内各地において二千七百戸の開拓者が五千四百町歩の荒地を開墾して 戦後の食糧不足に貢献した業績を後世に伝える為に建立したものである」と刻まれている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
野呂山 開拓記念碑
①所在 広島県呉市安浦町
②設置年月日 昭和60年10月10日
③設置者 広島県開拓農業協同組合
④碑名 開拓碑
⑤碑文(表面) 開拓記念碑
⑥碑文(裏面)
この碑は昭和二十年八月 大東亜戦争の終結にあたり 県内各地において 二千七百戸の開拓者が 五千四百町歩の荒地を開墾して 戦後の食糧不足に貢献した業績を後世に伝える為に建立したものである。
昭和六十年十月十日 広島県開拓農業協同組合建之
⑦現在の状況
標高839米の野呂山の頂上付近の道路脇にあり、管理されている。
広島県
広島県北広島町・若林開拓
子や孫の心に残る記念碑
広島県北広島町・若林開拓
広島県北広島町の若林開拓は、県北西部の山地で広島市の北側に位置し、標高は400m近い高地にある。
また、島根県との県境には1000m級の山々が連なり、降雪量も多く、近くにスキー場が集積している。
46年に大陸からの引き揚げ者を含む31名が入植した。
しかし、農業の経験が無く、草の刈り方も知らない人もおり、仲間の人たちに教えてもらいながらの一鍬一鍬となった。
とにかく食料の自給が先決なので、雨降りには湿地を掘り起こし、腰まで浸かって田を起こした。全て人の手作業なので、長い年月を要した。ところが、苦労して作った田も、用水不足で大雨が降らないと田植えができない。主食を自給するまでには長い年月を要した。
一方、野菜で収入を得ようと・ダイコン・ハクサイを育てたが、土地が瘦せているのと、肥料が充分でなかったため、思うように収入が上がらず、前途多難であった。
野菜・モモ・葉タバコなど次々に取り組んだが、決定的な作物とはならず、酪農に落ち着く家がでてきた。
広島県戦後開拓史(広島県開拓農協編)の中で、若林開拓の女性の方が「何よりも辛かったのは、開拓に土地を取られた地主が開拓の子どもたちに、あんた達はひどいことをした、と再三再四言われたこと」として「でも、そんな事に気を取られては作業ができない。何事にも目をつむり、ただ生きるために一生懸命だった」と語っている。
85年、入植40周年を記念して記念碑が建てられ、入植者31名の名が刻まれた。この時は当時の入植者はすでに半数となっていた。
同開拓史の中で女性が「子供が後を継がないことを悲しまないようにしている。自分たちの汗と涙を吸った土地が、厳然(げんぜん)としてここにあるのだから。この石碑が子や孫にとって故郷の証しとしていつまでも心に残るよう願っています」と語っていた。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
若林 34-369-1
①調査日 平成28年12月6日
②所在 山県郡北広島町阿坂
緯度・経度:34.6149972837326,132.4547460179614
③地区の沿革 不明
④設置年月日 昭和60年11月1日
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 昭和二十一年十一月一日入植
若林入植記念碑
昭和六十年十一月一日建立
入植者31名氏名
⑦碑文(裏面) 無し
⑧現在の状況 若林集会所地内で管理されている。
徳島県
徳島県美馬市穴吹町
空野開拓碑
徳島県美馬(みま)市は、県北部のほぼ中央に位置する。05年に旧・美馬郡内の4町村が合併して発足。人口は約3万人。南部は山間地で、穴吹町には戦後開拓の集落「空野(あきの)」があった。
空野に至る山道は曲がりくねっており、非常に険しい。行き止まりには、市が管理している「空野放牧場」があり、繁殖和牛が放たれている。標高は約650㍍で、市街地が見渡される。この地域が戦後開拓地であり、道ばたに石碑「空野開拓碑」が建っている。入植の経緯や開拓者名などが記されている。
46(昭和21)年から48年にかけて、中国引揚者、地元縁故者、元・満州開拓青年義勇隊の順に20数戸が入植した。48年、穴吹町開拓農協を結成。入植者は共同生活をし、開墾作業や資材運搬すべて人力によるも、協同の精神で新天地の建設を目指して奮闘した。
51年、待望の空野分教場が開設され、児童17名が就学した。道路開設や電気・給水設備の整備により、ようやく開拓地営農も軌道に乗り、前途に光明が見えてきた。だが、60年代からの高度経済成長期に入ると、次第に離農者や転居者が出始め、71年、同開拓農協は解散の止むなきに至った。現在、廃屋や分教場跡がある。
石碑は97年の建立。碑文の末尾には「町において二一世紀の空野を展望し 牧野造成を行い開拓道路を整備しており その再開発また期してまつべきものあり と云うべし」と刻まれている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
空野(あきの) 36-207-1
①調査日 令和元年5月20日
②所在 美馬市穴吹町
緯度・経度:34.0202333185266,134.176690296064
③地区の沿革 昭和21年から23年、標高650米の山間地に中国引揚者、地元縁故者ら20数戸が入植した。
④設置年月日 平成9年8月
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 空野開拓碑
戦後 国の施策に基づき昭和弐壱年拾月中国引揚者竹内豊一氏一家率先入植 続いて地元縁故者相次ぎ 昭和弐参年弐月布川孝明氏率いる元満州開拓青年義勇隊拾名が双葉開拓団と称して入植 穴吹町開拓農業協同組合を結成せり 県は昭和弐四年七月弐日未墾地買収に伴い県営開拓事業として発展せしめたり
入植者天地根元造に起居し 生活物資建設財の運搬及び開墾作業すべて尽力に拠るも 協同の精神旺盛にして 新天地の建設を目指し奮闘せり
昭和弐六年四月待望の空野分教場開設 児童壱七名と算す この頃開拓道路開設 電気導入 簡易給水設備等逐次整備 漸く開拓地営農も軌道に乗り前途に曙光を見るに至れり しかれども昭和参拾年代の高度経済成長の波にさらわれ遂に昭和四六年拾月開拓農協も解散の止むなきに至れり 爾来町において二一世紀の空野を展望し 牧野造成を行い開拓道路を整備しており その再開発また期してまつべきものあり と云うべし
此処に理想郷建設を夢見 開拓に健闘せし同志拓友各位及び関係機関諸賢の芳名を止めて後世に伝える
平成九年八月吉日
関係機関御芳名(元穴吹町長 蔭山潔ほか)、同志拓友御芳名(竹内豊一ほか)
⑦碑文(裏面) 無し
⑧現在の状況 地域内で管理されている。
※国道492号から県道254号へ。穴吹川の南側に位置する山の上にある牧場までの道のりは非常に険しい。
(碑文)
戦後 国の施策に基づき昭和弐壱年拾月中国引揚者竹内豊一氏一家率先入植 続いて地元縁故者相次ぎ 昭和弐参年弐月布川孝明氏率いる元満州開拓青年義勇隊拾名が双葉開拓団と称して入植 穴吹町開拓農業協同組合を結成せり 県は昭和弐四年七月弐日未墾地買収に伴い県営開拓事業として発展せしめたり
入植者天地根元造に起居し 生活物資建設財の運搬及び開墾作業すべて尽力に拠るも 協同の精神旺盛にして 新天地の建設を目指し奮闘せり
昭和弐六年四月待望の空野分教場開設 児童壱七名と算す この頃開拓道路開設 電気導入 簡易給水設備等逐次整備 漸く開拓地営農も軌道に乗り前途に曙光を見るに至れり しかれども昭和参拾年代の高度経済成長の波にさらわれ遂に昭和四六年拾月開拓農協も解散の止むなきに至れり 爾来町において二一世紀の空野を展望し 牧野造成を行い開拓道路を整備しており その再開発また期してまつべきものあり と云うべし
此処に理想郷建設を夢見 開拓に健闘せし同志拓友各位及び関係機関諸賢の芳名を止めて後世に伝える
平成九年八月吉日
関係機関御芳名(元穴吹町長 蔭山潔ほか)、同志拓友御芳名(竹内豊一ほか)
香川県
共和農園
香川県
香川県さぬき市・大串半島
志度開拓神社再建立之碑
香川県の北東部、さぬき市の大串半島は瀬戸内海に大きく突き出た自然豊かな景勝地。自然公園が拡がり、野外音楽広場、キャンプ場などの施設がある。戦後、緊急開拓事業により切り開かれた。
市北部の旧・志度町(しどちょう)と旧・津田町にまたがる開拓地に46(昭和21)年、海外引揚者、復員軍人、戦災者らが入植。その大半は地元縁故者だった。3つの地区が有り、48年、それぞれ開拓農協が発足。その後、合併して志度開拓農協となった。
そのうち、大串地区は半島の山頂部に位置し、急傾斜で季節風が強く、飲用水も不足するという悪条件下だった。解消を図るため、58~66年にかけて、大規模な道路改良、畑の造成、畑地かんがい施設工事が行われた。完成後は水の問題がなくなり、カンキツの栽培が始められた。
半島の中ほどに「開拓神社」(写真㊤)がある。境内右側の「志度開拓神社再建立之碑」(同㊨)には、神社の由来が詳しく記されている。
90年の建立。入植・開墾時について、「大串 上野 末の三地区に五十二戸の帰農を志す人達を迎え 数年の間に五十ヘクタールの開墾地を造成した この間入植者は一致団結 厳しい環境と闘い乍ら血と汗にまみれ鍬を振い 戦後の食糧確保と祖国復興の一翼を担った」と刻まれている。
さらに、開墾の成就や五穀豊穣を願い、入植者の心のより所にと天照大神を祭神とする「開拓神社」を建立したこと、40年経過による老朽化と周辺整備の必要性から、現在地に移転・再建したことなどが記されている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
志度(しど) 37-206-1
①調査日 令和元年5月21日
②所在 さぬき市
緯度・経度:34.3609426545912,134.2113893044139
③地区の沿革 昭和21年、海外引揚者、復員軍人らが入植。その大半は地元縁故者だった。
④設置年月日 平成2年5月
⑤設置者 志度開拓神社総代
⑥碑文(表面) 志度開拓神社再建立之碑
由来 昭和二十年八月十五日 大東亜戦争はわが国の敗戦によって終結した その結果出征軍人の復員と一般同胞の引揚により人工は急増し 食糧不足は危機に瀕し 経済もまた極度に混乱した 国ではこの対策として緊急食糧増産政策を打出し 開墾可能地を払下げ 各地に於て開拓事業を推進した 本町では大串間に五十ヘクタールの開墾地を造成した この間入植者は一致団結 厳しい環境と闘い乍ら血と汗にまみれ鍬を振い 戦後の食糧確保と祖国復興の一翼を担った その頃 当初の松岡貴次郎らが中心となり 開墾の成就 五穀豊穣を願い 入植者の心の寄り所にと 天照大神を際神とする「開拓神社」を此の地に建立した 以来四十年 高度成長期を経て時代は大きく変遷した 餓死状態の中にあった食糧事情も豊となり それに呼応して昭和五十年代後半により大串半島の開発が企画され 次々とリゾート施設の建設が進められ今日に至った その陰には先人の逞しい開拓精神と大神の御守護があったことを忘れてはならない こうした経過の中で 曽て入植者が勧請し崇敬して来た開拓神社も 歳月と共に老朽化が進み 加うるに周辺整備の必要性から神社の移転を余儀なくし 再建の運びとなった
この度 大串半島開発企業より多額の御援助を頂き御神威宣揚にふさわしい風格のある神社の造営が出来たことを心から感謝すると共に 改めて 当時を偲び末永く御神徳を給わらんことを祈念し 茲に経緯を記した次第である 平成二年五月吉日 志度開拓神社総代 松岡義高
⑦碑文(裏面) 無し
⑧現在の状況 志度開拓神社境内で管理されている。
※大串半島の中程、県道135号沿い。近くにさぬきワイナリーがある。



























