近畿地方
三重県
三重県・城南干拓
三重県桑名市の城南干拓は、揖斐(いび)川と員弁(いなべ)川の河口に挟まれた干拓地だ。
1857年の大津波以降、荒地として放置されていたが、1946年に城南干拓事業として着手された。総工費2億円余りと、11年の長きにわたって干拓し、57年にようやく完成した。
70名が入植し、城南開拓農協が設立され、55年から干拓地の農地・道路・用排水路の整備及び住居の建築などに懸命に取り組んだ。
主に水田で稲を育て、ようやく2期目の収穫が終わった直後に、とんでもない災害が襲い掛かってきた。
59年9月26日、伊勢湾台風が猛威をふるい、東海地方で死者5000名を超える、未曾有の大災害をもたらした。
城南地区は干拓地であったため、堤防が決壊して全土が浸水し、55名の尊い命が奪われるという最悪の状況となってしまった。
これまでに築いてきた土地が一瞬にして沈んでしまった。水田はもちろん、家屋は流出・全壊など、壊滅的な状況だった。
それでも入植者たちは負けなかった。マイナスからの再出発で、仮設住宅で生活すること2年、苦痛と心痛を乗り越え、災害後3ヵ年で復興を成し遂げた。
79年、城南開拓農協を解散するに当たり、犠牲者の御冥福を祈り、城南干拓地の繁栄の礎として、「開拓史の碑」が建てられた。
この碑の2.5㎞ほど北には、62年に建てられた「伊勢湾台風不忘碑」がある。
現在もこの地には、きれいな田園風景が広がっている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
城南干拓 24-205-1
①調査日 令和元年6月25日
②所在 桑名市
緯度・経度:35.0255974451668,136.7055378401284
③地区の沿革 荒地として放置されていた潟を昭和21年城南干拓として着手、70名が入植。
④設置年月日 昭和54年4月
⑤設置者 70名の氏名
⑥碑文(表面) 城南干拓 開拓史の碑
桑名市長 水谷 喜治 書
⑦碑文(裏面) この地は、安静四年の大津波以来荒地として放置されていたが、太平洋戦争後の食糧難を克服するため、食糧の増産を目指し、昭和二十一年城南干拓事業として着手され、総工費二億円余と苦節十一か年余の歳月を費し、昭和三十二年度に完成した。入植者七十名は城南開拓農業協同組合を設立し、昭和三十年から三か年にわたり、干拓地の農地宅地、道路、用排水路の整備及び住居の建築等に専念したしかし、僅か二期の収穫後、昭和三十四年九月二十六日伊勢湾台風による大災害を被り、九仭の功一気に失い、男女合わせて五十五名の尊い人々の命が奪われた。入植者は、家族近隣から多くの犠牲者を出し、被災地において、仮設住宅で生活すること約二か年、苦難と心痛を乗り越え、災害後三か年の短期間に、復旧を成し遂げた。現在この地に居住する私達は、ここに城南開拓農業協同組合を解散するに当たり、御尽力を賜った国・県・市及び、先輩諸氏の御苦労に感謝すると共に、犠牲者の御冥福を祈り、城南干拓地の益々繁栄の礎として、この碑を建てる。
昭和五十四年四月吉日建立
伊勢湾台風による被害者 略
入植後没した者 略
建立者の氏名 略
⑧現在の状況 揖斐川と員弁川に挟まれた干拓地の墓の一部に建立。
三重県
三重県鈴鹿市 ・ 玉垣地区
三重県鈴鹿市・玉垣地区
三重県北部の鈴鹿市は、北の四日市市と南の津市の間に位置し 、東は伊勢湾に面している。 人口約20万人の工業都市で、23の地区から成る。戦前は陸軍、海軍の軍事基地及び軍需工場が数多く建設された。戦後の緊急開拓事業により、軍用地跡に開拓者が入植した。
陸軍、海軍とも 施設は航空関連が中心だった。市北部の深伊沢地区には、陸軍の北伊勢飛行場と追分飛行場があった。航空隊の搭乗員の養成が主な目的だった 。1948(昭和23)年から、56 戸が入植し、開墾。現在、戸数は少なくなったが、酪農などが営まれている( 本紙658号で紹介 )。
市東部の玉垣地区には、鈴鹿海軍航空基地があった。航空隊飛行練習生の練習飛行場として建設されたが、戦争末期には実戦部隊の基地となった。 46 年から 入植した開拓者は、その地を開墾し、畑作物を栽培したが、なかなか売れるものができなかった 。
現在、 国道 号線や近鉄名古屋線などが通り、交通の要衝となっている。 電気 や 食品 関係の大きな工場 、大型スーパー などがあり、 工業地域と住居地域が混在している。
同地区の南玉垣町の住宅地の 道路沿いに 、石碑 がある。86年に暁(あかつき)自治会と暁町土地改良区が建立したもので 、「 暁之碑 」と刻まれている 。
裏面には、上端に「 鈴鹿開拓入植と暁町発祥の地 」とある。続く碑文には 、「この地は太平洋戦争終了後の昭和21年2月(西暦1946年)緊急食糧増産の担い手として鈴鹿開拓団を結成し60余戸が旧鈴鹿海軍航空隊飛行場跡に開拓の鍬を下し 、 新しい郷土建設の願い
をこめて 、暁町と命名し今日にいたる。これを子々孫々に伝えるため 、入植40周年を記念してこの碑を建立した」と記されている。
〇三重県 鈴鹿市 南玉垣町地区
鈴鹿市南玉垣町の富士電機工場の近く、ダイニングとしかわの隣に「暁之碑」として建立。住宅地の外れである。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
鈴鹿 24-207-1
①調査日 令和元年6月26日
②所在 鈴鹿市南玉垣町
緯度・経度:34.856934829639,136.580251628780
③地区の沿革 昭和21年2月に解放された鈴鹿海軍航空基地跡に60余戸が入植し、畑作物を栽培したが、なかなか売れるものは作れなかった。
④設置年月日 昭和61年2月11日
⑤設置者 暁土地改良区 暁町自治会
⑥碑文(表面) 暁之碑
鈴鹿市議会議長 杉本彰 書 発起人4名氏名
⑦碑文(裏面)
鈴鹿開拓入植と暁町発祥の地
この地は太平洋戦争終了後の昭和21年2月(西暦1946年)緊急食糧増産の担い手として鈴鹿開拓団を結成し60余戸が旧鈴鹿海軍航空隊飛行場跡に開拓の鍬を下し、新らしい郷土建設の願いをこめて、暁町と命名し今日にいたる。これを子々孫々に伝えるため入植40周年を記念してこの碑を建立した。 昭和61年2月11日 暁土地改良区 暁町自治会 協賛者23名氏名
⑧現在の状況 富士電機工場の近く、ダイニングとしかわの隣に建立、管理されている。
三重県
深伊沢
深伊沢開拓 24-207-2
①調査日 令和6年12月4日
②所在 三重県鈴鹿市長澤町
緯度・経度:34.9404644142332,136.487061169574
③地区の沿革 碑文に記載
④設置年月日 昭和45年8月10日建立
⑤設置者 深伊沢開拓農業協同組合員一同
⑥碑文(表面) 開拓碑
三重県知事 田中覚書
⑦碑文(裏面) 人が生きんが為に山野の開墾に生命を賭る程厳粛にして崇高な事業はない、私達は大東亜戦争が終戦となるや混迷の世相の中にこの地に入植した。当時開拓施策は無くとても悲惨な窮乏生活だった。昭和二十三年八月組合を設立汗と忍耐を合言葉に一路営農の完成に邁進常に隣接開拓地と一致協力し、昭和二十七年二月電気の導入に成功続いて排水路始め建設諸工事も逐次完成今や開発された田畑の上に新たに農業経営が創いた営農が創りだされて居る茲に開拓二十周年記念事業としてこの碑を建立し入植以来御援助賜った関係各位に感謝の意を表すると共に開拓の苦労を後世に伝うものである
昭和四十五年八月十日
深伊沢開拓農業協同組合員一同 林善寿記
⑧現在の状況 追分町自治会が管理する追分町運動広場の片隅に建立
三重県
三重県亀山市・能褒野開拓
三重県亀山市・能褒野開拓
三重県亀山市の能褒(のぼ)野(の)開拓は、三重県の北部で、古墳が多く発見されている地域にある。
この地に「古事記」や「日本書紀」に登場するヤマトタケルノミコトの墓とされる「能褒野王塚古墳」がある。ヤマトタケルノミコトは、東国遠征の帰還途中に「伊勢国能褒野」で病死したとされる。
この古墳は4世紀後半築造とみられ、全長90㍍、高さ9㍍の規模で、この地域最大の前方後円墳だ。平安時代以降、ヤマトタケルノミコトの墓の所在地は不明となっていたが、1879(明治12)年に内務省によってヤマトタケルノミコトの墓であると定められ、今日でも宮内庁により管理されている。
太平洋戦争時はここに、パイロットを育てるための北伊勢陸軍飛行場があった。戦局が悪化してくると、特攻隊員を育てる訓練場となっていった。
古代から昭和に至るまで、様々な時代の流れを観てきたこの地に開拓者が入植したのが46年。海外からの引き揚げ者や元軍人など100名が、約2・27平方㌖の飛行場跡地の開墾に当たった。
能褒野や隣りの鈴鹿市北西部の土壌は「黒ぼく土」と呼ばれ、酸性土壌で保水性や排水性に富み、肥料持ちが良く、植木やお茶の生産に適していた。
64年の東京オリンピックを契機に植木の需要が大いに高まり、三重サツキやツツジの生産が急速に増えていった。現在では、植木全般において、全国屈指の生産地としての一角を占めている。
また、この地域は工場地帯でもあり、開拓地の一部は企業の工場などに変貌を遂げている。
87年1月、開拓40周年として開拓記念碑(写真)が、能褒野公民館敷地内に建てられた。碑文の一部には「ヤマトタケルノミコト伝承の地で国家緊急開拓事業の責務の一端を果たし、全国優秀開拓団の栄誉を得た」と刻まれている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
能褒野(のぼの) 24-210-1
①調査日 令和元年6月26日
②所在 亀山市能褒野町
緯度・経度:34.8878546786539,136.4846481036100
③地区の沿革 昭和21年旧陸軍飛行場跡地が解放され、引揚者ら100名が入植した。
④設置年月日 昭和62年1月17日
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 開拓記念碑
農林水産大臣 加藤 六月
⑦副碑(碑文) 開拓記念碑由来
我ラガ 日本武尊伝承ノ地 此処能褒野ニ 開拓ノ業ヲ 起セシハ 戦後ノ混迷未ダ醒メヤラヌ 昭和二十一年如月ノ頃ナリキ 此ノ地ニ集ヒシ者 引揚者 戦災者 及ビ元軍人軍属ノ百名ニシテ 相七携ヘテ開拓ノ実ヲ遂ゲンコトヲ約ス 国敗レテ山河アリ 我ラニ与ヘラレシハ 旧陸軍北伊勢飛行場跡ノ広漠タル原野ナリキ
爾来星霜ヲ重ヌルコト四十年 アルハ灼熱ノ炎天下 アルハ寒風吹キ荒フ月明ノ中 我ラハコノ原野ニ挑ミタリ ソノ辛苦ヤ思フベシ 今ヤ原野ハ化シテ沃土トナリ 我ラハ一戸ノ農家トシテ生計ヲ立ツルニ至レリ 亦 国家緊急開拓事業ノ責務ノ一端ヲ菓シ 全国優秀開拓団ノ榮譽ニ欲スルコトヲ得タリ 以テ自ラ足レリトスルモ 豈ニ神霊ノ加護ヲ想ハザル可ケンヤ
然レドモ 途次ニシテコノ地ニ没セシ者 当初入植者ノ半バニ垂ントス マタ若輩タリシ者モハヤ老境ニ入レリ 漸ク二世ノ時代トハナリヌ 然リ 時ハ移リ世ハ替レド同志ノ血脈ハ縷々トシテ今日ニ及ビ 能褒野農業協同組合ノ支柱トシテ 厳存スルハ偉トスベキナリ
- ●●●●ビニ各界ノ我ラニ寄セラン●●●ニ感謝ノ意ヲ表スルト共ニ 故人ヲ偲ビ 開拓ノ事跡ヲ子孫後世ニ伝ヘンガタメニ コノ碑ヲ建立ス
昭和六十二年一月一七日
⑧現在の状況 JA鈴鹿能褒野店隣、能褒野町公民館に建立、管理されている。
三重県
根乃平
根乃平(ねのひら) 24-341-1
①調査日 令和元年6月25日
②所在 三重郡菰野町
緯度・経度:35.0601507954054,136.483500973789
③地区の沿革 昭和22年5月から主に海外引揚者、戦災者30戸が入植した。
④設置年月日 昭和61年11月30日
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 根の平 開拓記念碑
昭和二十二年五月入植
⑦碑文(裏面) 沿革 第二次世界大戦終戦により 食糧人口対策の一環として 政府の緊急開拓事業実施要領に基づき昭和二十二年五月より九月末日までに主に海外引揚者戦災者が入植する 入植戸数三〇戸 入植人口一一二名
地区総面積一一二町歩 内開畑面積 五四町四反
昭和二十二年 朝上開拓農事実行組合
昭和二十三年 朝上開拓農業協同組合
昭和二十三年 地方自治法に定める大字根乃平区設定
昭和二十四年 開拓幹線道路延長三.五K着工
昭和二十六年 電気施設 十月十五日点燈
昭和二十八年 開拓幹線道路延長三.五K完成
昭和三十一年 草里野開拓農業協同組合七戸と合併 朝明開拓農業協同組合
昭和四十七年 朝明開拓農業協同組合解散
昭和六十一年 入植以来関係各機関はじめ地元各位の御指導御協力を賜り四十周年を迎える入植記念碑建立
昭和六十一年十一月三十日
⑧現在の状況 根の平公会所地内で管理されている。
滋賀県
滋賀県安雲川町・泰山寺野開拓
滋賀県安雲川町・泰山寺野開拓
滋賀県は中央部に琵琶湖と近江盆地があり、周囲を山脈・山地が取り囲んでいる。戦後、湖を囲むように46の地区で開拓事業が進められた。
北西部の高島市安雲川町(あどがわちょう)の泰山寺野(たいさんじの)開拓地には、入植者によって開墾された広大な畑が拡がっている。
1949(昭和24)年から52年にかけて、地元の引揚者、二、三男及び長野県から計20戸が入植した。標高約200㍍の扇状大地。雑木や針葉樹が密集していた。マツの木の抜根をともなう開墾作業は大変で、開畑はなかなか進まなかった。
水田作には向かない土地だったため、ナタネやスイカを播種。54年には、みの早生ダイコンを試作した。立派なダイコンがとれ、翌年には作付面積も増え、大津市場や京都市場に出荷できるようになった。農道の整備や水利施設の建設なども次第に進んだ。現在、名産品となっているダイコンをはじめ、高原野菜が広く栽培されている。
集落内の農業用倉庫の近くに開拓記念碑がある。77(昭和52)年に泰山寺野開拓農協が建立したもので、碑銘は「開魂」。裏面には「言語に絶する幾多の苦難も開拓精神と協同の力によって克服し 日と共に発展拡充の度を加え 総面積五十ヘクタールの広大な畑作用地を完成し 二十戸の豊かな明るい農村が誕生した」と記し、入植者の氏名が刻まれている。
・滋賀県高島市安曇川町:泰山寺野開拓
「開魂」 昭和52年5月 泰山寺野開拓農業協同組合
ここの情報を掲載した「開拓情報」
碑文
昭和二十四年十月食糧増産の国策によって泰山寺野開拓事業は発足した。当初の入植者は新しい村落建設の意欲に燃えて泰山寺野山林と原野の開墾に努め以来入植者は協同と隣人愛をモットーとして村づくりを進めた。その間言語に絶する幾多の苦難も開拓精神と協同の力によって克服し、日と共に発展拡充の度を加え、総面積五十ヘクタールの広大な畑作用地を完成し、二十戸の豊かな明るい農村が誕生した。
今日迄苦労を共にした同志相寄り茲に開拓記念碑を建立す。
昭和五十二年五月
泰山寺野開拓農業協同組合
入植者氏名 二十名(略)
滋賀県
青野の郷 開拓記念碑
「青野の郷」
滋賀県東近江市青野町・青野開拓
滋賀県の東部に位置する東近江市は三重県に接し、愛知(えち)川に沿って琵琶湖東岸まで東西に長い。05(平成17)年、八日市市、神崎郡永源寺町・五個荘町、愛知郡愛東町・湖東町が合併して発足。永源寺町の一部を分離し、青野町を設置した。鈴鹿山麓にある同町は、ダム建設に伴う入植移住者が切り開いた。
八日市市の陸軍飛行場跡をはじめ、永源寺町、愛東町などに属する平地林は、国の緊急食糧増産対策により、開拓地に設定された。46(昭和21)年11月、開拓計画に基づき、先発隊がまず八日市地区の測量を行い、翌年から入植が始まった。
併行して、愛知川の上流に農業用水国営愛知川ダムの建設が計画された。永源寺町の三地区が水没するため、住民213戸のうち何十戸かは、同町青野玉緒地区に入植移住することとなった。
第一次の入植は57年で、翌年、青野開拓地の入植起工式が行われた。その後第二次、第三次と続き、合計90戸余が入植した。農地配分は1戸当たり約0.8㌶。57年に県が約5㌶を重機で整地し、稲の作付けができる運びとなった。だが、地質は強酸性の瘠せ地。入植者は山深き谷間から下山した人々で、畑作の経験しかなく、水田の肥培管理は苦労が多かった。
開墾が進み、区画された圃(ほ)場が拡がっていった。宅地化も進み、移り住む一般人が多くなった。現在の青野町の世帯数は約200、人口は約570人となっている。
三重県に通じる国道421号線沿いの多目的集会場の広場内に、記念碑がある。青野町自治会が07年に建立したもので、碑銘は「青野の郷」。隣の副碑には「青野町誕生の歩み」が刻まれている。
中段に「当時の開墾には機械の導入も少なく、人力、牛馬の力にて開墾が行われ、先代の方々は毎日汗と泥にまみれ大変な苦労をされ、現在の青野の基礎を築かれた」、末尾に「ダム建設に伴う入植から五十年となるこの期に、先代の方々への感謝の気持ちと、この歴史を次代の子孫に伝えるため茲に記念碑を建立し、顕彰するものである」と記されている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
青野の郷 開拓記念碑 25-213-1
①所在 滋賀県東近江市青野町
②設置年月日 平成19年10月
③設置者 青野町自治会
④碑名 開拓碑
⑤碑文(表面) 青野の郷 東近江市長 中村 功一 揮毫
⑥副碑(表面) 青野町誕生の歩み
鈴鹿山麓の裾野に開けたこの地青野は、永源寺ダム建設に伴い水没する旧永源寺町、佐目、九居瀬、萱尾の三地区が入植移住した地である。
昭和三十三年には青野開拓地の入植起工式が行われ、第一次による原野の開墾が始められた。その後、第二次、第三次入植が行われ、入植者による開墾が進められた。当時の開墾には機械の導入も少なく、人力、牛馬の力にて開墾が行われ、先代の方々は毎日汗と泥にまみれ大変な苦労をされ、現在の青野の基礎を築かれた。今、我々は尊い汗の結晶のこの地に感謝し、愛着を持って先代の方々の意思を次代に引継がなければならない。
顧みるとダム建設により入植移住した戸数は当初九十戸余であったが、昭和三十五年には青野住宅が建設され、その後平成二年には青野ニュータウンが開発された。戸数も百五十戸余に増えたが、各地区別の自治会として活動されていた。平成十五年各自治会が話合いの上、青野自治会が発足した。
平成十八年には市当局のご尽力と深いご理解により「青野町」が誕生した。併せてダム建設に伴う入植から五十年になるこの期に、先代の方々への感謝の気持ちと、この歴史を次代の子孫に伝えるため茲に記念碑を建立し、顕彰するものである。
平成十九年十月吉日 青野町自治会
⑦現在の状況 青野多目的集会場広場で管理されている。
滋賀県
滋賀県・八日市
都市化の波にも「拓魂」は残る
滋賀県東近江市の八日市開拓は、琵琶湖の南東に位置し、湖との間には、戦国武将、織田信長が建てた安土城跡がある。
同開拓地は、旧陸軍飛行場跡地で、標高130mほどの比較的平坦な土地である。しかし、滑走路付近には空襲により壊れた武器庫や、練習機の残骸などが散乱し、荒地となっていた。
この地域の土地は石が多く、開墾というより、石出し作業といわれるほどで、この地のことを「地球の骨」と称されることもあった。握った鍬の柄は赤く血に染まった。
46年冬に46名が入植し、そのほとんどが、旧兵舎での生活となった。その年は異常なまでに降雪が多く、開墾の出鼻を大雪にくじかれた。
初年度に主に栽培したのはジャガイモやカンショだったが、収穫したイモはあまりに小さかった。48年頃より徐々に桃などの果樹を植えていくと、2年後には実をつけるようになった。
50年に揚水機(ポンプ)施設が補助事業で完成し、畑地の水田化が行われた。自分たちの手で収穫した香り高い新米は、格別のものであった。
桃なども、八日市開拓農協のラベルが付いたケースで出荷されるようになった。開拓事業が軌道に乗ってきたのである。
53年には役牛が耕運機に変わり、酪農家が急増してきた。
ところが、日本経済の発展に伴い、八日市市は市発展のため、工場誘致が強く推進されることとなってしまった。当開拓地や近くの長谷野開拓地なども工場団地化された。行政と粘り強く交渉したが、手塩にかけた開拓地の多くが、工場や住宅に変貌した。
79年、初代入植者らにより、地元の会館敷地内に、当地の発展を願って開拓碑が建てられた。
現在の当地は、名神高速道路が走る、工場地帯となっている。
しかし、工場と住宅の間にある手入れが行き届いた田んぼには、収穫間近の稲が黄金色に輝いていた。しっかりと「拓魂」は受け継がれている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
八日町 25-213-2
①調査日 平成30年9月19日
②所在 東近江市沖野町
③地区の沿革 昭和20年12月解放された飛行場跡地に46名が入植した。
④設置年月日 昭和54年1月
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 拓魂
滋賀県知事 武村正義書
昭和五十四年一月吉日建立
拓魂碑の隣に初代入植者三十九名の氏名碑
⑦碑文(裏面) 顧みるに昭和二十年十一月戦後の国策である食糧増産と併せて拓士達による新農村建設を目的とする緊急開拓事業のために発足した当地は、蒲生、神崎両郡の境界線を中心にもつ飛行場跡地であり、我々も此処を永住の地として同年初冬の十二月此の地に第一歩を印した。翌春四十六名による開墾作業は敢行された。異郷の地での生活は容易でなく剰え石礫が非常に多く人力による開墾作業はまことに困難を極めたが、一致協力あらゆる困苦に耐え営農の拡充に期した。 / 同三十三年四月、自らの力と良き理解者を得て、幸にも当沖野町の制定をみるに至ったのである。/ 以来二十幾星霜此の度当町在住の拓友相計り悲運にも開拓の夢半ばに世を去った肉親同志を偲び、諸霊の冥福を祈るとともに、我々もまたこの碑に集い近隣の人々とともに当地の発展を願わんとして、此の地に、拓魂の碑を建立するものである。
昭和五十四年一月吉日
⑧現在の状況 地区の会館地内で管理されている。
滋賀県
長谷野
長谷野(ながたにの) 25-213-3
①調査日 平成30年9月19日
②所在 東近江市蛇溝町
③地区の沿革 昭和21年3月に入植した。
④設置年月日 和47年3月31日
⑤設置者 長谷野開拓農業協同組合
⑥碑文(表面) 開拓碑
⑦碑文(裏面) 本開拓地は昭和二十一年三月十六日長谷野緊急開拓に発足し、昭和四十七年三月二十一日開拓行政の一般農政への移行を契機に終了せり。総面積三十ヘクタールたりしが、昭和四十五年十一月、八日市市南部開発計画に基づき、株式会社大林組へ農地の移譲を余儀なくせられたり。茲に開拓記念碑を建立し、益々開拓精神の昂揚に資せんとす。
昭和四十七年三月三十一日
長谷野開拓農業協同組合
(入植者の氏名の碑の表面) 入植者氏名
(入植者の氏名の碑の裏面) 当長谷野地区は、開拓碑に記す如く開拓農地として発足 その間表記の入植者に依って荒土と戦い村落建設の基となしたる者の行績を茲に記す
昭和五十年三月
⑧現在の状況 長谷野公民館地内で管理されている。
滋賀県






















