近畿地方
京都市
京都市北区・原谷地域
京都市北区・原谷地域
都市近郊でも戦後開拓事業が行われた。京都府の26の開拓地のうち、京都市の北区大北山原谷(はらだに)地区は平均標高220㍍の山間盆地。名刹「金閣寺」の北西、約2㌔に位置する。
1948(昭和23)年、中国の東北部・満州開拓からの引揚者19戸が原谷の原野に入植した。同年、洛北(らくほく)開拓農協が設立され、開拓計画を策定した。野菜栽培を計画の柱として開墾したが、土壌は強い酸性重粘土で有機物に乏しく、作物が育たず、苦心が続いた。平行して乳牛・鶏の導入が実施された。
市内だが、開拓当初は電気が通じておらず、ランプ生活だった。50年に京都府の失業対策事業で農道、水路などの建設事業が開始され、同年、ようやく電気が開通した。入植者の団結は堅く、土壌改良を重ね、50年代に農地が完成。酪農・養鶏も本格化した。
失業対策事業は62年まで行われ、開拓地は整備された。環境の改善により、一般の人たちが引っ越してきた。次第に農業を止め、農地を手放し、転業する動きが進んだ。
平成に入ると、市中心部のベッドタウン化し、入植60年目の2008年、開拓農協は解散。敷地は、原谷地域の更なる発展を願い、市に寄附された。
市は10年、その土地に「原谷中央公園」を開園した。公園奥に開拓記念碑「開拓魂」がある。63年の入植15周年記念に建立されたもので、裏面には、入植者全員の氏名が記されている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
原谷(はらだに) 26-101-1
①調査日 平成30年9月19日
②所在 京都市北区
緯度・経度:35.0443814631025,135.7165253506094
③地区の沿革 (洛北農協40年記念誌より)
京都市の西北隅、衣笠山に面する一盆地、名称金閣寺の裏山に位置。標高280米から160米(平均220米)に、昭和23年10月引揚者19戸が原谷開拓地に入植した。/ 開拓地の面積 総面積 55町4反(畑30町1反、宅地1町5反、導水路5町5反、薪炭採草地18町3反)入植者数18戸、増反者数1戸 / 入植者1戸当 畑1町2反、薪炭林8反5畝、宅地180坪 増反者1戸当 畑2反 / 洛北開拓農業協同組合は昭和23年11月に設立、平成20年解散。
④設置年月日 昭和38年11月
⑤設置者 洛北開拓農業協同組合
⑥碑文(表面) 開拓魂
農林大臣 赤城 宗徳 書
⑦碑文(裏面) 拾五周年を記念して入植者の名を録す
入植者38名氏名
昭和三十八年十一月吉祥日建立
⑧現在の状況 原谷中央公園にあり管理されている。(原谷中央公園に説明パネルがある。)
兵庫県
兵庫県・神出
兵庫県神戸市の神出(かんで)開拓は、播州平野西部の松林であった。
満州の国立奉天獣疫研究所長であった井上辰藏氏(神出開拓農協初代組合長)が、戦後、研究所の教え子らに呼びかけて48年に入植した(15戸)。
入植以来、共同経営という形をとり、経営内容は酪農、養豚、水稲、観光芋掘園、ドライブインなど、多岐にわたった。
当初は水不足や、痩せた土地に大変な苦労があったが、皆が団結して乗り越えてきた。
中でも、養豚において四元交配豚(ヨークシャー×中国豚×バークシャー×野猪)にバークシャーを戻し交配した「ゴールデン神出」が開発された。柔らかくておいしく、神戸牛にも引けを取らないとされたが、56年(昭和30年代)は、需要が付いてこれず、81年に生産中止となった。
86年には38年続いた共同経営を廃止した。神出開拓農協所有の施設等は組合員個人に移譲又は貸与した。
また、特定法人貸付事業により、農地の一部は、企業に貸し出され、現在も農作物が生産されている。
神出開拓農協の近くの広場には、今も入植23・40・60周年記念碑と井上辰藏先生の像が、きれいな状態で立っている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
神出(かんで) 28-111-1
①調査日 平成28年10月13日
②所在 神戸市西区神出町
緯度・経度:34.7668270424592,134.9773535805342
③地区の沿革 満州より引揚げた農学博士井上辰藏氏とその家族及び元満州開拓青年義勇隊隊員らとその家族が入植してきたことに始まる。以後昭和30年迄に30戸が入植し、そのうち離農する等の理由から20戸が離脱し、組合員戸数は合計で10戸となった。
④設置年月日 昭和46年3月20日
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 入植二十三周年記念 開拓魂
昭和四十六年三月二十日 井上辰蔵書
開拓は人をつくる聖業である
終戦により我らは全くの裸一貫で満州から引揚げてきた幸いに恩師農学博士井上辰藏先生指導のもとに昭和廿三年三月廿日四十二ヘクタールに及ぶこの地に開拓の鍬をおろした雨露をしのぐため一つの天幕を張り身に弊衣をまとい食うに糧なき時は野草をあさり苦難に絶えつヽ昭和廿四年五月バンガロー式協同宿舎を建設した開墾田畑地は逐次拡大したが水不足により農作物は不作が続いたので昭和三十一年八月地下百四十米迠さく井し日量二千屯余の水資源を得た翌昭和三十二年一月トラクターを導入して七ヘクタールの水田を拓き食糧増産に寄与した我らは当初の目標たる草地農業による畜産主体の開拓に邁進するため昭和三十九年十月大型トラクターと附属作業機械を購入し同年搾乳所をも建設して開拓地における機械化農業の端緒を開いた昭和四十年九月台風により住宅は全壊又畜舎も半壊農作物は半ば減收の被害を被った我らは一致協力被害の復旧と共に新住宅の建設を実現した昭和四十四年には籠の谷の未利用地七ヘクタールを開発し当組合において改良した新品種豚ゴールデン神出種の増殖を図ったこの間有為の若人村瀬泰三森口梅雄初め拓友三十余名のやむなき離農を惜む 我らは青年の情熱と旺盛なる開拓魂に徹し恩師の信条である誠を軌範として共同経営による畜産主体の機械化草地農業を実践して現在に至る 国の開拓行政が一般農政に移行する今日神出開拓入殖廿三周年を記念してこの碑を建てる
昭和四十六年三月廿日
神出開拓農業協同組合 組合員一同
⑦碑文(裏面)
建立者氏名 入植者夫婦10組氏名 故人1名氏名
我らこの地を開拓した者 この家族と共にこの碑の中に永久に眠る
⑧現在の状況 神出開拓農業協同組合の事務所や組合員とその縁故者の家屋が点在する地域にあり、周辺の清掃や碑文の塗り直しを行うなどの維持管理が組合の主導でなされており、綺麗な状態が保持されている。建立当時は納骨堂として使用していた。
兵庫県
千鳥ケ浜
千鳥ヶ浜(ちどりがはま) 28-212-1
①調査日 平成28年4月3日
②所在 赤穂市中広
緯度・経度:34.7291672176161,134.3804532635802
③地区の沿革 昭和18年に神戸製鋼所が海面埋立てした工場敷地が解放され、昭和23年より千鳥ヶ浜開拓農協初代組合長を中心とする15名の入植希望者と70名の増反者が開墾した.
④設置年月日 昭和37年10月1日
⑤設置者 千鳥ヶ浜開拓農業協同
組合長 小野榮太郎
⑥碑文(表面) 燦矣開拓魂
京都農地事務局長庵原文二書
昭和二十三年一月我等は同志相結び 狂瀾岸を噛み疾風 砂を捲く荒蕪の地此処千鳥ヶ浜に決然開墾の鍬を下した 爾耒十有五年相次ぐ台風禍旱魃被害等幾多の試練にも屈せず 或いは寒夜海水に浸りて礎石を定め炎天熱砂を搬んで堤塘を築き また延々水を導して耕地に潅ぎ数里土を客して土壌を改む等よくこれを克服して茲に開拓の大業を完成した これ偏に関係当局の篤き指導援助と同志組合員の不屈の開拓魂戮力恊心の賜である / 我等は茲に創業の労を永えに記念し且つは我等を継ぐ者の大成への道標たらんことを希い此の地に開拓の碑を建てるものである 昭和三十七年十月一日
千鳥ヶ浜開拓農業協同組合長 小野榮太郎
⑦碑文(裏面) 開拓事業完成に際し組合員の名を録す 組合長以下87名氏名
⑧現在の状況 千鳥ヶ浜開拓会館(兵庫県赤穂市中広2007)から約250mの堤塘の南端で管理されている。
兵庫県
小野
兵庫県
焼山
焼山(やけやま) 28-218-2
①調査日 平成28年10月29日
②所在 小野市二葉町
③地区の沿革 大正13年200haを消失する山火事以来焼山と呼ばれ、昭和32年に一部の民有地が解放され、引揚者、疎開者等11戸が入植する。
④設置年月日 昭和47年4月
⑤設置者 焼山開拓農業協同組合
⑥碑文(表面) 開拓記念碑
国ノ開拓政策ニヨリ兵庫県並ニ小野市ノ絶大ナ援助ノモト昭和三十二年三月此ノ地ニ入植シ焼山開拓農業協同組合ヲ設立一致協力アラユル困難ヲ克服シ原野ヲ開拓シタ昭和三十六年導水路完成ニヨリ十余町歩ノ水田ヲ耕作シ生活ノ安定ヲ図リ現在ニ至ル入植十五周年ヲ迎ヘルに当リ此ノ碑ヲ建リ
⑦碑文(裏面) 昭和四十七年四月吉日
焼山開拓農業協同組合 10組合員氏名
⑧現在の状況 地区の二葉町公民館地内で管理されている。
兵庫県
兵庫県小野市・草加野開拓地
兵庫県小野市・草加野開拓地
兵庫県の中南部に位置する小野市は、北播磨の中心都市で人口約5万人。多くの企業が本社・事務所を置いている。農業は水稲を中心とする耕種と酪農や養鶏などの畜産がバランス良く営まれている。戦後、県内でも開拓地が集中した地域であり、開拓農協が6組合設置された。
開拓地のうち、東部の草加野(そうかの)地区は現在の大開(だいかい)町に位置する扇状台地だった。用水難のある原野に、1946(昭和21)年から47年にかけて、旧満州からの帰還者ら40戸余りが入植した。
48年、草加野開拓農協設立。米の配給が少なく、生産を目指したが、高原で水源に乏しかった。手作業で開墾した畑にサツマイモやジャガイモなどを作付けし、主食とした。また、旱魃に強い葉タバコの作付けの許可が出て、貴重な現金収入源となった。
食料と水の苦労が続いた。国営事業として51年に完成した「東条ダム」(東条湖鴨川ダム)の水を開拓地に揚水する計画が、55年に採択された。58年、揚水ポンプが始動し、初めて水稲の作付けを行った。ようやく耕地は水田化され、生活は安定するようになった。
60年、開拓農協は入植15周年を記念して、開拓神社と記念碑を建立した。境内にある記念碑の碑銘は「開拓碑」。
下部の碑文には「宿望の水田化は、昭和三十一年着工、同三十三年六月東條ダムの揚水に成功し、今や三十余町歩の美田を見る。かくて他方、乳牛飼育、煙草耕作と相俟って、漸く生活の基盤を築く。これ一つに、我等の親和と協力による開拓精神の象徴である」と記されている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
草加野(そうかの) 28-218-3
①調査日 平成28年9月11日
②所在 小野市大開町
緯度・経度:34.8467421672823,135.00221261759
③地区の沿革 民有と一部村有の原野が解放され、満州より引揚げた満州国浜江省東興県北二屯第9次養父開拓団の団員とその縁故者で構成された40数戸が入植した。
④設置年月日 昭和35年3月
⑤設置者 草加野開拓農業協同組合
⑥碑文(表面) 開拓碑 阪本 勝
滿洲浜江省北二屯を引揚げた、養父郡出身の吾々は、昭和二十一年二月十一日、こゝ草加野の地に一鍬を下す。
爾来十有五年、食糧難に耐え、生活苦と斗ひつヽ、自らの手で住居を構え、道路を拓き、耕地七十余町上歩を算す。而して、宿望の水田化は、昭和三十一年着工、仝三十三年六月東條ダムの揚水に成功し、今や三十町歩の美田を見る。かくて他方、乳牛飼育、煙草耕作と相俟って、漸く生活の基盤を築く。
これ一つに、我等の親和と協力による開拓精神の象徴である。依ってこゝに記念碑を建て、過去を偲ぶと共に將来の戒とする。
昭和三十五年三月
草加野開拓農業協同組合
⑦碑文(裏面) 入植者50名、世話人8名、発起人 組合長以下理事5名氏名
⑧現在の状況 大開開拓神社内にあり、元組合員を含む大開町住民が神社、記念碑を管理している。
兵庫県
広野淡路
広野淡路 28-219-1
①調査日 平成29年6月9日
②所在 三田市下内神
緯度・経度:34.9275773572002,135.1742759947718
③地区の沿革 旧満州南部より引揚げてきた淡路広石村分郷開拓団のうち円丁誠一氏率いる50余名が解放された丘陵地の民有地に入植。昭和23年に県より乳牛を借り受け酪農導入。
④設置年月日 昭和43年11月
⑤設置者 三田市淡路開拓農業協同組合員
⑥碑文(表面) 開拓碑
兵庫県知事 金井元彦 書
満蒙の地に楽土建設の夢破れ雄図空しく帰還せる吾等淡路島分郷開拓団の盟友三十一名がこの地を最後の砦として開拓の鍬を投せしは昭和二十二年二月二十六日なりき 一張の天幕に雨露を凌ぎ 嚴冬の松籟に未來を夢み 敝衣をまといて野草をあさり あるはただ旺盛なる開拓者魂と体力をもって孜々として営農に献身して現在に至る 生活環境の峻しさから脱落するもの 新に参加するもの等幾変遷ののち現在個数四十四戸 耕地面積六十六町歩 宅地四町四反 其他合して総面積百町歩に及ぶ 髙燥地のため水利の便悪く連年旱魃に惱まされしが農業用水として利害ある西野上地区住人の深き理解と同情を得て武庫川上流よりの揚水施設と溜池を農林省支援のもとに創設し遂に三十三町歩の水田の造成を果たせり 今や入植以耒の苦難と試錬を経て酪農中心に米作を加味せる経営により更に将耒に飛躍せんとするものなり 吾等が師父と仰ぐ圓丁誠一翁の信条和をもって貴しとなすを軌範となし常に地方住民との調和 関係諸機関への対応等和衷協調して今日に及ぶ過ぎし風雪を回想し吾等因縁浅からざりし四囲の恩義に応えんがため 茲に開拓二十周年を期し碑を建て永く子孫に伝え記念せんとす
昭和四十三年十一月吉日建之
三田市淡路開拓農業協同組合員一同
⑦碑文(裏面) 建設委員氏名 組合員氏名
⑧現在の状況 淡路公会堂敷地内で管理されている。
兵庫県
沢谷
沢谷(さわだに) 28-219-2
①調査日 平成29年6月16日
②所在 三田市上内神
③地区の沿革 広野村の民有原野が解放され、昭和22年10月15日に引揚者、及び、疎開者が入植した。段丘面が広範囲に分布し、用水源の確保の難しい台地であったため、畑作を中心とした営農が行われた。昭和50年代に発表された北摂三田ニュータウン計画(現在のフラワータウン)に開拓地の一部が含まれていたことから、入植者らの一部は離農した他、代替地へ移動する者もあった。同じころ、個人が管理していた神社が沢谷開拓へ移譲されたことを受けて、沢拓神社と名をあらためて現在の場所に移設し、境内に開拓記念碑を建立した。なお、北摂三田ニュータウンが計画されて以降、主に沢谷部落の地名は沢谷となり、沢谷開拓部落の地名は学園と変更された。
④設置年月日 昭和57年10月
⑤設置者 不明
⑥碑文(表面) 昭和二十二年十月、夕日の紅と松の緑が美しいこの丘に、沢谷開拓農業協同組合が誕生した、以後数十年 幼い頃の思ひ出が村祭りと重なり、この村にもお宮さんを、との願が組合員の心に芽生えた頃、幸運にも沢谷部落有志より、池上地区にあった地神様をうけつぐ、以後十月一日を祭日と定め氏子等集いて一日を楽しむ、突然北摂ニュータウンが計画施行された為移転の必要性が生じ昭和五十六年三月この地に沢拓神社を建立し大神の遷宮を希ふたものである
⑦碑文(裏面) 無し
⑧現在の状況 沢拓神社の敷地内で管理されている。(沢拓神社鳥居 沢谷開拓農協)
兵庫県
中野
中野 28-219-3
①調査日 平成29年9月13日
②所在 三田市末
③地区の沿革 民有山林原野を引揚者、戦災者及び疎開者を中心に入植。用水池の母子の池より取水した灌漑用水路が建設され、早い時期から水田経営が行われ、第2次開拓営農振興計画に基づく酪農及び中小家畜の導入。昭和42年以降は青野ダム建設に伴い、開拓地の一部が水没地となった。
④設置年月日 昭和62年 (開拓農協解散が62年9月)
⑤設置者 不明
⑥碑文(表面) 開拓碑 兵庫県知事 坂井 時忠
⑦碑文(裏面) 記 大東亜戦争が終結して、総国民の食糧不足を満す為に、農林省が食糧営団(末野耕地整理組合)の残地を買収して疎開者、地元者並びに増反者に総面積六拾参町歩を開拓せしめる。東山、末、加茂、宮脇、地域の入植者が昭和廿四年五月に、中野開拓農業協同組合を成立する。国は耕地整理組合の負債の一部を金弐拾五万円で肩変りし、末野上池、水路其の他に金参千数百万円の助成を行う。/ 組合は昭和参拾年に県下第一号のブルドーザーにて開墾し、水田耕作農家参拾戸の生活安定を指導する。組合員は団結し、組合の運営並びに生活自営のため努力と忍耐により現在に至る。/ 協同組合を解散するに当り、以前の総べてに感謝すると共に、耕地を基礎として幸福と希望を與えし事実を後生の者に記する。 入植者氏名
⑧現在の状況 中野公民館敷地内で管理されている。
兵庫県
兵庫県三田市・旭開拓地
「開拓碑」「旭魂」 兵庫県三田市・旭開拓地
兵庫県南東部の三田市は、六甲山地の北側に位置し、神戸市と接している。人口は約11万人で、豊かな自然が残る田園都市である。戦後、7ヵ所の開拓地に開拓農協が設立された。そのうち、西北部の旭開拓地は、標高平均約190㍍の丘陵地帯にある。
有馬郡本庄村(現・三田市)にあった帝国飛行協会兵庫県第四滑空場(長坂滑空場、格納庫)が戦後、払い下げられた。藍村(同)にあった軍需工場に配属されていた隊員が中心となり、農工隊を組織し、45(昭和20)年10月、鍬入れを行った。46年に主として復員者、47年に満州開拓引揚者が入植し、合計31戸となった。
49年、旭開拓農協が設立された。入植地は89㌶に及ぶ緩傾斜の山林跡地で、56㌶の開畑を行った。当初は自家用野菜の他、換金作物として麦やナタネ、タバコなどを栽培したが、地力が無いため、安定した収入は得られなかった。酪農を取り入れ、堆肥の投入などで瘠せ地が沃土(よくど)となった。
丘陵地で水資源に恵まれなかったが、54年に水利権の割愛を受けた。国費による建設工事で、ため池の拡張、水田造成を行い、稲作を導入したことにより、生活が安定してきた。
近くには、舞鶴若狭自動車道三田西インターチェンジがある。京阪神の大消費地を控え、水稲の他、酪農、肉用牛など多角的な営農を続けていける地区である。
65年、旭開拓農協は入植25周年を記念して、旭神社の敷地内に記念碑を建立した。自然石に彫られた碑銘は「開拓碑」(写真㊤)。脇の碑文石碑には「内に烈々たる開拓精神と外に不退転の決意を秘めて朝に星を戴き夕に月をふみ乏しき衣食に堪え日夜開墾に従事せり」と記されている。記念碑の隣に95年、入植50周年記念碑が建立された(同㊦)。碑銘は「旭魂」で、裏面には入植者、物故者の氏名が刻まれている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
入植二十五周年記念碑碑文
碑 文
昭和二十年十月六日敗戦に伴う混迷と虚脱の中旧陸軍官庁の有志十八名は緊急食糧増産の使命を擔ひ地元本庄村役場の暖かき援助の下に此の地に開拓の鍬入れを行い引続き翌二十二年三月満州開拓団の同志十三名を迎え内に烈々たる開拓精神と外に不退転の決意を秘めて朝に星を戴き夕に月をふみ乏しき衣食に堪え日夜開墾に従事せり其の間離脱する者参加する者等幾多の変遷を経て脊薄なる耕土を沃土と化せしめたるは偏に酪農を主幹とせる営農経営の確立であった二十九年三月下流西野上地区住民の我等多年の懇望に應えた御理解により水利権の割愛を得又地元用地関係者の方々の絶大なる御援助等により国費による溜池拡張と水田造成なるや連年旱魃による作況の不安定は解消せられ総面積五十五町歩の全地区開拓事業は入植以来の困苦欠乏と幾多の試練にもめげず組合員協力一致鉄桶の団結の下に完成せり我等は更に近隣住民との調和に心を致し関係諸機関とも密接なる連繁を旨とし共存共栄の実を挙げん事を期すると共に慈に本開拓地の由来を記し碑を建立して永く子孫に伝え我等国土報恩の趣旨を解明して記念せんとす
昭和四十五年十月吉日
旭開拓農業協同組合組合員一同




























