九州・沖縄地方
福岡県
福岡県北九州市小倉南区・平尾台
福岡県北九州市小倉南区・平尾台
福岡県北九州市小倉南区にある平尾台は、日本三大カルストの一つに数えられる。
平尾台は標高300~700㍍、わが国有数の石灰岩台地で、裸出カルストの北東部と、被覆カルストの南西部に分けられるが、北東部の裸出カルストの著しい地域は国指定の天然記念物になっている。
台地上には、大小様々な石灰岩柱が並ぶ羊群原と呼ばれている所や、すり鉢状のドリーネも各所にあり、また古(いにしえ)の修験者たちが厳しい修行をしていたという鍾乳洞などがいくつも点在する。
平尾台開拓は、第二次大戦まで陸軍の演習地だったところに、47年から戦災者や海外からの引き揚げ者など55世帯が入植した。
観光地としては素晴らしい景観だが、農業には適した場所ではなく、北九州地方の開拓地でも売れ残った場所だった。草原に露出している石灰岩を縫うように開墾していったが、非常に困難であった。
当時の様子を開拓碑には「食料、資金に乏しく夢と現実のはざまの中、生活苦、体力の限界などで下山するものも出た。何とか踏みとどまった人たちの苦労は想像を絶するものであった」と刻まれている。
カルストの特徴の一つに、降った雨は鍾乳洞がある地下へと流れるため、基本的に地上に川が無く、水が乏しかった。ダイコン、ニンジン、ゴボウ、ジャガイモ、キャベツなどのような乾燥に強そうな作物が育てられたが、中でもダイコン、キャベツの2つが主に生産された。寒暖差があるため、辛味がある平尾台大根として人気があった。ドリーネと呼ばれる窪地に流れ込んだ土を利用して、ゴボウが作られたこともあった。
酪農、肉牛経営も見られたが、やはり水が乏しいということもあって長続きせず、今は畜産経営は行われていない。
05年に開拓者37名が当時を回想し、平尾台開拓記念碑を建立した。
現在も、2戸の農家が主にダイコン、キャベツを生産している。ここの情報を掲載した「開拓情報」
平尾台 40-107-1
①調査日 令和2年6月24日
②所在 北九州市小倉南区平尾台町
緯度・経度:33.7568107406394,130.894722970543
③地区の沿革 副碑に昭和二十二年より戦災者、海外引き揚げ者など五十五世帯が開拓者として入植と刻まれている。
④設置年月日 平成17年5月
⑤設置者 開拓者
⑥碑文(表面) 平尾台開拓記念碑
⑦副碑(表面) 昭和二十年八月十五日、日本は長期戦争の爪痕を深く残して終戦を迎える。
混沌とした世情の中で、海外引き揚げ復員など次々と帰国、日本国民は極度の食糧難に陥った。
そこで政府は、軍用地を払下げ食糧増産にあたった。ここ平尾台も昭和二十二年より戦災者、海外引き揚げ者など五十五世帯が開拓者として入植した。
食料、資金に乏しく夢と現実のはざまの中 生活苦、体力の限界などで下山するものも出た。何とか踏みとどまった人達の苦労は想像を絶するものであった。
ここに開拓者三十七名、当時を回想し記念して平尾台開拓記念碑を建立するものである。
開拓者37名氏名 平成十七年五月吉日
⑧現在の状況 地区内で管理されている。(平尾台自然観察センター内)
福岡県
「開拓記念碑」 福岡県粕屋町・駕輿丁開拓
「開拓記念碑」
福岡県粕屋町・駕輿丁開拓
福岡県の北西部に位置する糟屋郡粕屋町は、西側を福岡市と接している。福岡市のベットタウンとして発展を続け、人口も約4万8千人と多い。鉄道・バス、高速道路などの交通網が充実しており、商業や流通業が基幹産業となっている。農業は、花き、ブロッコリー栽培などが行われている。
同町は1957(昭和32)年、仲原村と大川村の合併により誕生した。60年代頃までは、石炭採掘と稲作を中心とした農業が盛んだった。
戦後、極度の食糧難となり、政府は全国の開拓可能な原野を収容し、食糧増産を進めた。同町では、駕輿丁(かよいちょう:現在は「駕与丁」)地区で戦後開拓事業が実施された。
町内には、駕与丁池をはじめ、大小のため池がある。駕与丁池の周りには、町のシンボルとなっている駕与丁公園や、遊歩道、粕屋町総合体育館などがあり、その一角で開拓碑が保存、管理されている(写真)。
記念碑の碑銘は「開拓記念碑」。手前は説明板で、駕輿丁開拓史とともに、開拓記念碑建立除幕式(52年)の写真が載っている。
同開拓史によると、47年に駕輿丁開拓農協を結成し、旧・仲原村から16名が選ばれ、25㌶に及ぶ原野の開墾が開始された。山林の切り開きや木の根の掘り起こしを全て人力で行う重労働だった。開墾には成功したものの、開拓地一帯特有の赤土は、作付けを行っても十分な収量は得られなかった。
モモ(桃)の栽培に取り組んだ後、土壌改良を重ねた結果、ブロッコリーの栽培に成功した。町の特産品「粕屋ブロッコリー」の産地として、現在も生産が続けられている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
駕輿丁(かよいちょう) 40-349-1
①調査日 令和2年6月25日
②所在 糟屋郡粕屋町駕与丁
緯度・経度:33.6109814271110,130.4839096910825
③地区の沿革 県北西部に位置し、昭和22年に駕輿丁開拓農業協同組合を結成し、旧仲原村から16名が25ヘクタールに及ぶ原野の開墾を開始した。この一帯特有の赤土は十分な収穫を得ることはできず、土壌の研究を重ね、桃の栽培に成功した。
④設置年月日 昭和27年10月
⑤設置者 不明
⑥碑文(表面) 開拓記念碑
福岡県知事 杉本 勝次 書
⑦碑文(裏面) 5年間の入植、開墾の経過が刻まれているが,経年劣化等で判読が困難である。碑文の後段では「開拓地四十町歩耕地化と開墾●●●完成を記念」の文字が読み取れる。
⑧現在の状況 地区内の公園で管理されている。
佐賀県
金立
金立(きんりゅう) 41-201-1
①調査日 令和6年12月23日
②所在 佐賀県佐賀市金立町金立1197-18
緯度・経度:33.3274679998481,130.3082606685886
③地区の沿革 佐賀市金立町と久保泉町にまたがり、県下各開拓地のなかでも、立地条件・気象条件・生活環境は恵まれていた。標高は50~60mで昭和21年当開拓地の開拓基地農場において、開拓希望者を教育・訓練したものの中から、31名が当地に入植した。約4年間で開墾を終え、昭和24年12月土地売渡しが行われた。(「佐賀県開拓農業三十年史」より抜粋)
④設置年月日 昭和26年4月3日
⑤設置者 金立開拓農業協同組合
⑥碑文(表面) 金立開拓農業協同組合
イロハ順 組合員28名 昭和二十六年四月三日建立
⑦碑文(裏面) なし
⑧現在の状況 地区の「開拓公民館」敷地内に建立されている。
佐賀県
厳木
厳木(きゅうらぎ) 41-202-1
①調査日 令和6年12月23日
②所在 佐賀県唐津市厳木町瀬戸木場浪瀬
③地区の沿革 厳木開拓地区は、東松浦郡の東南端、多久市との境にあり、瀬戸木場・浪瀬団地は、八幡岳(男山)の南北、女山西北面、山頂580mから麓へ約4kmにおよぶ長方形の傾斜地である。土壌は玄武岩、埴土質土壌で、標高300m以内では、地下600m位の所まで幾重にも石炭の層があり、唐津炭田の主流をなしていたところでもある。復員軍人、海外引揚者、2・3男等が、食糧増産の名の下に開拓を思いたち、昭和24年当該地主と交渉し、昭和27年3月全地区の買収を完了した。昭和28年に瀬戸木場団地に20戸、浪瀬団地に8戸が57.4haの荒野の配分を受けて入植した。 (「佐賀県開拓農業三十年史」より抜粋)
④設置年月日 昭和31年4月1日
⑤設置者 厳木開拓農業協同組合
⑥碑文(表面) 開拓記念碑
⑦碑文(裏面) 不明
⑧現在の状況 県道322号板屋厳木線沿いに建立されている。
佐賀県
二里
二里(にり) 41-205-1
①調査日 令和6年12月23日
②所在 佐賀県伊万里市二里町大里甲1346
緯度・経度:33.2599070584769,129.8629424968930
③地区の沿革 腰岳北西斜面の山裾に位置し、10~25度位の傾斜地である。もとは私有地で、松を伐採した跡地の払い下げを受けたものである。土壌は第3紀層の埴壌土で土層の深さは40cm位あるが瘠地であった。前面には国見連峰を望み、眼下には伊万里湾に流れる有田川が蛇行している。昭和22年7月10日、入植と同時に手開墾にとりかかった。
(「佐賀県開拓農業三十年史」より抜粋)
④設置年月日 昭和42年4月
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 開拓記念碑 入植 昭和二十二年七月十日
十市 德二/泉 熊市/白水 己代治/
大川内 高市/永田 松雄/丸岡 清
⑦碑文(裏面) なし
⑧現在の状況 地区内に建立され管理されている。
佐賀県
鹿嶋市
鹿島市 41-207-1
①調査日 令和6年12月23日
②所在 佐賀県鹿島市浜町1397番地
緯度・経度:33.0957059921855,130.1097312354247
③地区の沿革 昭和42年に佐賀県開拓農協が設立され、平成28年8月まで畜産専門農協として約50年間事業推進と組合員の生活向上を図っていたが、組合運営の合理化と畜産生産者の技術指導強化を図るため開拓農協は解散したが、開拓者の精神を継承し、新たに佐賀県開拓畜産事業協同組合を設立し、平成28年11月14日に本所を鹿島市に移転して業務を開始した。鹿島市での業務を開始するに当り、それまで佐賀に設置していた「拓碑」と「畜魂碑」も移設した。
④設置年月日 昭和53年11月
⑤設置者 佐賀県開拓農業協同組合
⑥碑文(表面) 拓魂 佐賀県知事 池田 直 昭和53年11月建立
⑦碑文(裏面) なし
⑧現在の状況 佐賀県開拓畜産事業協同組合の敷地内で管理されている。
佐賀県
佐賀県・値賀
土壌適さず、畜産に活路を
佐賀県玄海町の値賀(ちが)開拓は、県北部に突き出た東松浦半島の西側に位置する。
標高180mで、地質は玄武岩・粘土質の強酸性で、畑作にはあまり適していなかった。
46年に引揚者や地元の2・3男などの開拓志願者が、15日間開拓訓練所で基礎訓練を受けて、28戸が入植した。
原野と雑木が生い茂る解放地に、1戸当たり1㏊余の配分を受けた。いわゆる、開墾鍬による手開墾だったので、大変な苦労となった。
最初に作付けしたのはさつまいも、じゃがいも、菜種、大根などだが、強酸性土壌のため収穫は少なかった。
50年には農村工業として、精米・精粉を行い、素麺も作った。地区外からの利用者も多く、大繁盛したこともあった。また、この年に電気が開通し、皆で涙を流して喜びあった。
60年頃には、これまでの作物だけでは経営を確立することができないので、梨・みかんを植栽した。しかし、玄海灘から吹きつける風により、品質が悪かった。
また、北海道から乳牛17頭を導入し、17戸に分配して経営の安定を図った。その後、増頭を重ね、酪農団地として県内外から注目を浴びるようになった。
76年時点で、酪農家5戸、肉牛2戸、養豚3戸、養鶏1戸、みかん農家3戸、畑作1戸となった。
96年、栄公民館敷地内に「栄区50周年記念碑」が建てられた。栄区の由来として記念碑には「一鍬、一鍬山林原野を切り開き、眠れる大地を開墾する偉業を為し、村の発展を期して<栄村>と命名し」(抜粋)とある。
現在も肉牛農家ががんばっており、この地を守っている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
値賀(ちか) 41-387-1
①調査日 令和6年12月23日
②所在 佐賀県東松浦郡玄海町大字石田
緯度・経度:33.484366224335,129.8693462216694
③地区の沿革 東松浦半島の西南端、玄海原子力発電所の南東、2.5kmの起伏の多い上場台地に位置する。標高180m、玄武岩・粘土質・強酸性の土壌で気候は比較的温暖である。昭和21年11月、引揚者や地元2・3男で開拓を志願する者が開拓訓練所に入所し開拓者としての基礎訓練を受け、1戸当り1ha余の配分を受け28戸が入植した。(「佐賀県開拓農業三十年史」より抜粋)
④設置年月日 平成8年11月23日
⑤設置者 区五十周年記念事業委員会
⑥碑文(表面) 栄区50周年記念碑
⑦碑文(裏面) 碑文
昭和二十年(一九四五)八月十五日/第二次世界大戦の終結に伴い、復員/軍人、外地引揚者、戦災者、農家二三/男の就労と食糧確保を目的とした緊/急開拓事業に基く農地改革の自作農/創設特別措置法により昭和二十一年十一/月二十三日この地に入植し鍬入れをした/二十八名の闘士は、筆舌に尽し難い困難/を克服し、一鍬、一鍬山林原野を切り開/き、眠れる大地を開墾する偉業を為し、/村の発展を期して「栄村」と命名し、粉骨砕身、一致団結して住宅を建設し、道路/電気、上水道、公民館、土地改良事業/等あらゆる辛苦を七転八起の精神で/克服し既存農家の営農をはるかにし/のぐ現在の地位を築きあげた/ 茲に近代オリンピック百周年の年に/そして世界焱の博覧会が開催された/この年に開村五十年を記念し、新農/村の村づくりに命をかけた先駆者の方/々のご冥福をいのり栄区の将来に限り/なき繁栄と発展を祈念し、本碑を建立/して二十世紀へ向けて前進するもの/である。
平成八年十一月二十三日 栄区五十周年記念事業委員会
⑧現在の状況 地区内に建立され管理されている。
佐賀県
大福
大福(だいふく) 41-425-1
①調査日 令和6年12月23日
②所在 佐賀県杵島郡白石町 福富下分3311
緯度・経度:33.1823363639916,130.216625900919
③地区の沿革 この地区の干拓事業は、昭和8年に地元の耕地整理組合によって行われ、潮止め工事も終え一部干陸化が進んだが、戦中にはいり工事が中止された。戦後埋立権など一切の権利を国に移し、昭和27年から代行干拓として工事が再開された。戦後の入植は昭和27、28年に工事の完工をまたず行われた。入植農家は80戸。1戸当たりの土地配分は120アールであった。(「佐賀県開拓農業三十年史」より抜粋)
④設置年月日 (ア)不明、
(イ)昭和38年1月20日
⑤設置者 (ア)入植者
(イ)入植者
⑥碑文(表面) (ア)岸川善之助翁頌德碑 佐賀県知事 池田 直 書
(イ)大福干拓完工紀 佐賀県知事 池田 直 書 昭和38年7月20日建立
⑦碑文(裏面) (ア)経年劣化等により判読が困難
(イ)碑文なし
⑧現在の状況 (ア)(イ)共に地区の集会所の敷地内に建立されている。(栄公民館)
長崎県
小長井
小長井(こながい) 42-204-1
①調査日 平成29年1月25日
②所在 諫早市小長井町川内名943 鬼木宅前
③地区の沿革 多良山麓山間部、佐賀県との境に近く長里、広川原、雨提、黒似田の四地区からなる。昭和22から32年に74戸が入植し、39~44年に22戸が離農。
④設置年月日 昭和55年9月15日
⑤設置者 不明
⑥碑文(表面) 拓魂
副碑(表面) 昭和廿二年九月十五日この地を定め爾來困に耐え一之を忍び開拓に従事す 和を以って一致協力その成果を挙ぐ更に昭和五十三年秋基盤整備事業に着手し本年春耕地整備を完工す、茲に於て拓魂の碑を建立し子子孫々に伝えんと為す。
昭和五十五年九月十五日
⑦碑文(裏面) 不明
⑧現在の状況 地域内で管理されている。
長崎県
長崎県・雲仙開拓(東原地区)
長崎県・雲仙開拓(東原地区)
長崎県雲仙市瑞穂町の雲仙開拓(東原(ひがしばる)地区)は、島原半島の北部で、雲仙岳の北側山腹斜面に位置している。
標高は250~320㍍、地質は火山灰土でリン酸欠乏土となっている。雲仙岳を背に、有明海を臨む風光明媚な開拓地だ。
46年から翌47年にかけて、海外からの引き揚げ者を中心に20戸が入植した。
この東原地区はほぼ雑木林で、トウグワ一本の道具だけで木の根を掘り、開墾していった。雪が降れば布団が白くなるような小屋に住みながら苦闘を重ね、20戸が互いに励まし合い、時には競い合いながらの生活だった。
この土地は火山灰土ながら肥えていて、温暖な気候を生かした麦、バレイショ、サツマイモなど、各種野菜作りは比較的良好だった。
51~58年頃にかけて毎年のように台風などの自然災害が襲ったが、みんなで乗り越えてきた。
すでに戦前、外地で苦労してきた人たちなので、常に積極的な営農を取り入れ、10年目頃には将来のめどが立ち始めた。
61年以降の振興対策事業を契機として、経営を肉牛、酪農、養豚などの畜産業に転換する農家も出てきた。飼料作物も多くの収穫があり、酪農が栄えていった。また、長崎県開拓農協指導のもと、乳用種去勢牛肥育の開拓牛事業も行われた。
肥沃な土地でダイコン、キャベツ、バレイショなどの畑作や、ミカン、ナシなどの果樹、花木栽培も盛んに行われている。
入植20年目(66年)頃には住居や生活環境も一応整い、生活も安定してきた。また、30周年には「東原霊園」が造られ、この間に物故した父や母、兄弟たちの霊(他家に預けられていた)を弔うことができた。
77年には全体で肥育牛2500頭、乳牛200頭、バレイショや野菜などの畑地約40㌶の専業農家集団となった。
91年には入植45周年を記念し、「開拓之碑」が建てられた(写真)。
驚くべきことに、現在でもほぼ全戸がこの地区で生活している。お互いに尊重し合いながら、自分たちで切り拓いてきた美しい故郷を守り続けている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
長崎県・雲仙開拓(東原地区) 42-213-1
①調査日 2017年1月24日
②所在 雲仙市瑞穂町西郷 東原コミュニティーセンター敷地内
③地区の沿革 島原半島北部に位置し、標高250~320米。昭和21年から翌22年にかけて20世帯の海外引き揚げ者が入植。この東原は雑木林で、トウグワ一本の道具だけで、木の根を掘り雨が降ればびしょぬれになり、雪が降れば布団の上に積もるような小屋に住みながら苦闘を重ね、20世帯の人が互に励まし合い、競い合いながら、麦のおかゆと、芋だけの食事で10年の生活を続けた。常に積極的な営農を取り入れ、10年目頃から将来のメドもたち始め、20年目ごろには住居も一応整い、安定した生活を得た。
④設置年月日
⑤設置者
⑥碑名 開拓碑
⑦碑文(表面) 開拓之碑
昭和二十一年この地に入植す。
何時の世にも語り伝えよ、
東原の野山拓きし、父母の若き日
歴代開拓組合長名 入植者氏名
⑧碑文(裏面) 無し
⑨現在の状況 地域内で管理されている。















