九州・沖縄地方
宮崎県
宮崎県・牛牧
宮崎県高鍋町・牛牧開拓
宮崎県児湯郡高鍋町は県中央部の海沿いの町だが、牛牧開拓は町の西部の高台にある。
47年に海外からの引揚者や復員軍人など31戸が入植した。
この地は、高台地にあり、大部分は開畑されている中、町有林、民有林として残存していた場所を、開拓適地として買収した。1戸当たりの配分面積は0.8~1㏊となっていた。
当初は夏作としてサツマイモ、陸稲、冬作として麦、なたねを作付けしていたが、収益の向上を図るため、55年頃からサツマイモの早植えを行うことによって次第に夏作型のみの作付けに移行していった。
また、牛牧地区では養蚕が導入され、営農の進展が図られてきた。
この間、肥育牛の生産が徐々にではあるが、着実に伸びていった。66年に生産体系が確立された開拓牛(乳用種去勢牛)の生産も広がっていった。
宮崎県乳用牛肥育事業農業協同組合が72年に設立され、1県1単協の広域専門組織として新たな船出となった。
80年に「開拓之碑」が入植者らによって建てられた。辛い時でも皆の励まし合いで、未来ある新しい天地となったこの牛牧開拓を讃えている。
90年代になると、交雑種肥育牛や和牛の生産も伸びてくる。
様々な品種で肉牛生産が発展していったが、2010年、宮崎県で10年振りの口蹄疫が発生してしまった。消毒等の防疫体制を行っていても侵入され、宮崎県全てで約30万頭の牛や豚等が殺処分となった。
高鍋町の開拓肉牛農家3戸の3,588頭も、全頭いなくなってしまった。牛のいない牛舎で、消毒作業を毎日こなすのは、当事者以外には到底わからない苦痛であろう。
しかし、3農家は決して諦めなかった。共に励まし合いながら、着実に復活への道を進んでいった。様々な支援措置もあったが、先人からの魂を受け継いだ証名だ。
現在も牛舎には、立派な牛達が成長している。ここの情報を掲載した「開拓情報」
牛牧(うしまき) 45-401-1
①調査日 令和6年9月25日
②所在 児湯郡高鍋町南牛牧
③地区の沿革 高鍋町南牛牧地区は昭和22年に31戸が入植。
④設置年月日 昭和55年9月23日
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 開拓之碑
⑦碑文(裏面) 第二次大戦後緊急開拓事業ハ / 食糧増産農地改革ト共ニ新 / 生日本ノ礎ダッタ / 昭和二十二年二月十一日海外引揚者 / 復員軍人三十一戸入植シ五十六町余ノ / 荒地ヲ永遠ノ故郷トスベク開墾 / 鍬ヲ手ニ山地ヲ開墾ス / 衣食住凡ノ欠乏ニ耐エ颱風旱魃凍 / 霜害等ノ災害ト戦イ相集イ相励 / シ荒地ヲ沃土トナス官民各位ノ暖イ / 指導ト協力ニ依リ必須ノ道路七 / 四通シ南牛牧開拓地ハ未来アル新 / 天地トナッタ / 鍬入式以来星霜爰ニ三十有余年 / 顧ニ快事タルモノ有リ / 此ノ意義アル事業ヲ悠久ニ傳エ / ンモノトシテ同志ノ熱意ニ依リ / 此ノ碑ヲ建立ス
昭和五十五年九月二十三日
⑧現在の状況 南牛牧公民館の敷地内に有り維持管理されている鹿児島県
鹿児島県・星ヶ丘
鹿児島県鹿屋市串良町の星ヶ丘開拓は、大隅半島の中央部に位置する標高50m程の温暖な地だ。
戦中は、教育航空隊の串良基地があり、戦争末期には特別攻撃隊の基地として使用された。終戦を迎えるまでに、363名の特別攻撃隊員と210名の一般攻撃隊員がこの地から飛び立ち、その若く尊い命が失われた。
終戦後、基地の用地など480㏊が開墾されることとなり、引揚者や戦災者など、多くの人が入植した。
元飛行場ということもあり、土壌は硬く、性質の良いものとは言えなかった。作付けしたサツマイモは、何年も小指くらいにしか育たず、厳しい状況が続いた。
地区ごとに星ヶ丘、共栄、辰喰など10の帰農組合が設立された。しかし、台風による度重なる被害などもあり、帰農組合では運営が困難になったことから、58年に星ヶ丘地区を除き串良開拓農協として統合することとなった。
畜産にシフトする生産者が増加し、酪農は大変な努力の末に、鹿屋市は県内有数の酪農地帯として発展することとなった。また、肉用牛生産にも力が注がれることとなっていった。
現在も、薩州開拓農協の組合員により肉牛生産が行われており、畜産が盛んである。
一方、畑作も徐々に伸びていった。用水路を碁盤の目のように整備したり、道路などのインフラ整備を着実に進めていくことで、メロンや花木の栽培も発展していった。
串良平和公園には、戦争で亡くなった方々を祀る慰霊塔が建てられている。74年、この公園内に開拓記念碑が建てられ、慰霊塔とともに、この地を見守っている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
星ヶ丘 46-203-1
①調査日 平成30年
②所在 肝属郡串良町有里
緯度・経度:31.41575187055285,130.929662952229
③地区の沿革 碑文に記載。
④設置年月日 昭和49年10月吉日
⑤設置者 建設委員5名
⑥碑文(表面) 開拓記念碑
太平洋戦争末期串良海軍航空隊ガ開設サレ、終戦直後引揚者、戦災者ガ鍬一ツ持タズニ入植、家モナク兵舎、防空壕ヲ利用シ、食糧ノ自給自足ノタメ飛行場関係用地480ヘクタールノ開墾ガ始マル、開拓組合トシテソノ機能ガ充分発揮出来ル様ニスルタメ地区毎ニ25戸ヲ単位トシテ帰農組合(星ヶ丘、共栄辰喰、栄、東花、新堀、新中堀、水々元、大塚原富郷、麓、矢柄)ヲ設立(当時約400戸)
シカシ度重ナル台風ノ被害等モアッテ帰農組合デハ其運営ガ困難ニナリ星ヶ丘ヲ除イテ昭和31年9月串良開拓共同組合トシニ合併統合シ事務所ヲ牧場内ニ設置星ヶ丘開拓組合モ事務ノ分ヲ昭和38年ニ統合サレル現在組合員戸数104戸星ヶ丘10戸コノ間国ノ補助事業ニヨリエンタイ壕ノ除去段畑ノ整地土壌改良事業耕運機導入、水道増設、道路整備、電気導入事業付帯事業トシテ13塚線及び高松道路改良事業、婦人ホームノ設置(現在医療機関トシテ山崎医院開設)小中学校ノ学級増設等ノ事業ガ施行サレタ、組合員ニハ一時政府資金償還モ困難ナ状態モアッタガ、関係機関団体ノ御指導ト御協力ニ依リ組合員各位モ幾多ノ辛苦ニ耐エ現在デハ既存農家並ノ経営状態ニナリ国ノ施策ト相俟ッテ解散スルノデ之ヲ永遠ニ記念スルタメ開拓記念碑ヲ建立スルモノデアル
昭和49年10月吉日
⑦碑文(裏面) 不明
⑧現在の状況 星ヶ丘地区は、現在薩州開拓組合員がおり、畜産が盛んである。鹿屋市串良町平和公園内に記念碑が設立されている。
鹿児島県
上場地区
鹿児島県
八重地区
八重地区 46-215-1
①調査日 平成29年1月12日
②所在 鹿児島県薩摩川内市 入来町浦之名4494-2
③地区の沿革 薩摩郡樋脇町、入来町では、昭和26年2月2日に市比野開拓農協(13戸)、昭和25年9月30日に大和開拓農協(11戸)、昭和23年5月24日に輪内開拓農協(8戸)、昭和24年2月5日に神岡開拓農協(20戸)、昭和23年6月1日に八重山開拓農協(27戸)、昭和23年7月19日に鹿野開拓農協(5戸)が設立した。この6開拓農協を統合して、昭和29年4月30日に八重総合開拓農業協同組合(正組合員54戸、准組合員17戸)が設立した。
鹿児島県開拓農業協同組合連合会は昭和23年9月24日に設立が認可された。鶴薗徳三氏は、神岡農協の出身で昭和24年5月9日開催の第1回通常総会で理事に就任し、昭和28年8月26日開催の第5回通常総会で4代目会長に選任され、以降昭和51年6月解散まで務めた。
④設置年月日 平成5年5月吉日
⑤設置者 代表者 鶴薗徳三、外一同
⑥碑文(表面) 拓魂
(副碑) 碑文
昭和二十年八月、日中戦争から大東亜戦と続いた、永い永い戦が終わって、海外からの引揚者、戦災者等、多くの人々が、再生の道を求めて、こゝ、八重の新天地に続々入植してきました。昭和二十年末から八重山、輪内、鹿野、神岡、市比野、大和に、二十八年金峰の入植が終る頃は、百三十戸約五百人を数え、昭和三十年に、既存の赤仁田、中津原の、加入をみて、八重総合開拓農業協同組合として、一致団結、八重地区の発展に努力し、苦難の中で、道を開き、八重小学校の建設など、開拓の礎を、築いてまいりました。
今、時代の流れと共に、その使命を終え、八重開拓組合の、全ての解散事務が終了するにあたり、往時を偲び、又、後世に永く、我々の開拓精神を伝えるために、拓魂の碑を、この地に建立いたします。
平成五年五月吉日
代表者 鶴薗徳三 外 一同
⑦碑文(裏面) 不明
⑧現在の状況 旧八重小学校グランド内に設置されている。
鹿児島県
富ケ丘
鹿児島県
鹿児島県・盤山
鹿児島県肝属(きもつき)郡錦江(きんこう)町田代麓の盤山(ばんざん)開拓は、大隅半島南部の山あい(標高500㍍)に位置する。
46年7月に入植してきたのは、与論島から満州に渡り、戦後に命がけで日本に戻ってきた54戸、165名だった。
戦前から与論島は人口過密で、44年3月に満州へ入植したが、わずか1年5ヵ月で終戦を迎えた。
その頃、開拓団の若い男性たちは戦場に召集されており、残っていたのは高齢者や女性、子どものみ。日本の敗戦を知った地元の住民が土地を奪われた恨みから暴徒化し、逃げ場を失った50人もの人たちは自決を余儀なくされた。その後、46年6月に博多に引き揚げるまでに40人以上が栄養失調などで亡くなられた。
与論島はアメリカの統治下にあったため戻れず、新しい土地で開拓をやり直そうという声が上がっていた。
開拓地名は、多数の同胞が犠牲になった満州の地「盤山」を忘れないようにと決まった。
開墾の方法は、木を伐採してから1~2週間して少し枯れた木と下草を一緒に焼き払う焼畑開墾。焼いた跡に野菜の種子をまくと大根も白菜もよくできた。
しかし、この地域は台風の通り道で、49年の台風では死者3名、2年後には住宅5戸が全壊。農作物の被害も甚大だったが、畦に植えていたお茶の木が台風に負けず力強く耐えていた。
このお茶が盤山開拓の救世主となった。57年に新品種「ヤブキタ」を導入し、盤山茶業振興会を結成。営農指導員に技術を教わり、62年に全国共進会で2等を受賞するなど、品質の良さを実感した。この土地は平均気温は低いが、霜も降りにくい。霧がかかりやすい条件も品質に優れた茶の生育に適していた。
60~70年代、開拓地総出で栽培面積拡大に取り組み、銘茶産地としての地位を確立した。
69年に第一の故郷与論町と田代町(現錦江町)が姉妹盟約を締結し、現在も交流が続いている。
81年に入植35周年を迎え、公民館に公園を整備し、記念碑(写真)と慰霊碑が建てられた。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
内之牧地区(盤山開拓) 46-490-1
①調査日 平成29年5月10日
②所在 鹿児島県肝属郡錦江町田代麓蕃山
緯度・経度:31.15139425630981,130.8855768839917
③地区の沿革 与論島は戦時中人口過密のため、満州国錦州省盤山県に145戸、635名が移住入植したが、終戦時自決などで多くの犠牲者を出し、1946年6月日本に引き揚げた。米軍統治下の故郷与論島へは帰れず、当地へ同年7月18日、54戸156名が入植した。地名を盤山と名付けて入植した。最盛期は400人以上が暮らしたが、現在(平成28年7月)25戸、64人である。
④設置年月日 昭和56年7月18日
⑤設置者 元満洲国第12次輿論開拓団
⑥碑文(表面) 昭和56年7月18日
拓魂
元満洲国第12次輿論開拓団 団長 伊藤 佐江吉 謹書
昭和19年3月10日旧満州国錦州省盤山県第13次輿論開拓団に145戸635名が輿論島から分村入植した敗戦前後の苛酷な状況の中で多数の人が犠牲となる432人が町清之進氏を団長として肉親の遺骨を抱き、はだか同然で21年6月2日引揚げ上陸内地開拓のため54戸156名が7月18日現在地に入植した。
開拓団長 町 清之進
副団長 池田 福利
団員 52名の氏名が刻まれている。
⑦碑文(裏面) 不明
⑧現在の状況 盤山公民館に隣接する公園に拓魂・入植記念碑・慰亡拓友之碑と整然と建てられている。
昭和56年に田代入植三十五周年に当り記念事業を計画。部落公民館前の小高い丘に入植を記念し、公園を造成、亡拓友之慰霊碑を建立、亡拓友の霊を慰めると共に苦節三十五年の入植を永久に傳えるため、入植記念碑を建立。
(入植50周年記念碑)
(田代入植35周年記念碑)
(慰亡拓友之碑)
(盤山公民館)
(全景)
鹿児島県
大中尾地区・菖栄開拓
鹿児島県
増田
増田 46-501-1
①調査日 平成30年12月17日
②所在 中種子町増田
緯度・経度:30.5548738227984,131.012685877977
③地区の沿革 九州海軍航空隊種子島基地に接収されたが戦後に開放され、昭和24年20戸が入植した。
④設置年月日 昭和24年10月
⑤設置者 増田帰農組合
⑥碑文(表面) 入植記念碑
抑〃コノ部落ハ昭和十七年軍用地トシテ海軍省ノ摂取スル処トナリ往古ヨリ在住セシ三十余戸ノ安住ノ地ハ軍事機構ノ設置ニヨリ殆一片ノ原形ヲモ止メス全面要塞ト一変シタリ然ルニ昭和二十年終戦ニヨリ旧軍用地一帯ヲ耕地トスル縣農業会ノ開拓工事ハ開始サレ旧戸畑部落跡ニ廿戸ノ入植宅地ヲ造成セリ吾等ハ増田開拓共同組合ノ詮衝ヲ経テ昭和二十二年農村省ノ公認スル帰農者トシテ造成宅地ニ入植ノ決定ヲ見タリ尓来建築設備ニ開拓作業ニ幾多ノ苦難ト辛酸ヲ嘗メ克ク乏シキニ堪ヘ漸クニシテ部落建設ノ礎石ヲ築クニ至レリ吾等ハコノ更セル部落ヲ永劫不滅タラシムベク互ニ親和協力シ以テ部落ノ繁栄ト発展ニ力ヲ尽スコトヲ茲ニ誓ヒコノ碑ヲ建ツ吾等ノ子孫●ハ克クコノ意ヲ体セムコトヲ望ム
昭和二十四年十月
増田帰農組合建之
⑦碑文(裏面) 入植者氏名
⑧現在の状況 集落内の広場に立地し管理されている。
鹿児島県
原尾
原尾 46-501-2
①調査日 平成30年12月18日
②所在 熊毛郡中種子町 坂井2093−323
緯度・経度:30.4560410053139,130.9139335893851
③地区の沿革 海外各地からの引揚者、戦災者等70数戸が入植した。
④設置年月日 昭和50年8月20日
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 原尾開拓之碑
⑦碑文(裏面) 戦後海外各地からの引揚者戦災者等七十数戸の者この地に開拓の鍬をおろし原尾部落をつくる以来三十年その間離農者あり新たな入植者あり幾多の変遷苦難をへて今安住の地をなすこれを記念し部落民一同協力してこの碑を建つ
昭和五十年八月二十日
⑧現在の状況 公民館敷地内で管理されている。
鹿児島
鹿児島県種子島南種子町 長谷開拓之碑・原尾
長谷開拓之碑
鹿児島県種子島は鹿児島市から南へ約115㌔に位置し、面積445平方㌔、人口は約3万人。種子島宇宙センターなど宇宙関連施設がある。農業が盛んで、米、サトウキビ、茶などが栽培されている。南部のほぼ中央で、中種子町と南種子町にまたがる長谷(はせ)地区には、南洋群島を主とした海外引揚者らが入植した。
標高200㍍前後で542㌶の広い台地。火山灰地に茅(カヤ)が群生し、強酸性で作物栽培には適さない荒野だった。1946(昭和21)年、パラオ諸島からの引揚者を第一陣に、サイパン、テニアン、その他内外各地から172戸が入植した。
入植当時の第一の苦労は食糧難で、開拓の合間をみては、その日その日の食を得るため、近所の農家に労力を提供した。また、ツワブキ、ワラビなどの山菜は重要な食材となった。
47年に長谷小学校、48年には長谷開拓農協が南種子町に設立された。組合員が協同して開拓に励み、多くの苦難を乗り越えた。所期の目的を達成した同農協は74年に解散。現在、サトウキビやサツマイモなどが豊かに実る地区となっている。
長谷小学校前の道路沿いに記念碑がある。長谷地区民一同と町が96(平成8)年に建立したもので、刻銘は「長谷開拓之碑」。
碑銘板には「茅葺き掘立小屋に食糧不足という厳しい状況下、すべて人力による艱難辛苦の開墾作業であった」「長谷地区全域にかつてなかった開拓者精神が満ち、新しい村づくりが進んだ。一九六二年(昭和三七年)開拓パイロット事業による入植も加わり長谷の荒野は豊かな郷に変貌した」と刻まれている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
長谷 46-502-1
①調査日 平成30年12月18日
②所在 南種子町長谷
緯度・経度:30.4468576297124,130.9089043605178
③地区の沿革 解放された軍用地は火山灰土で耕作不適地であったが、引揚者等が多数入植
④設置年月日 平成8年6月
⑤設置者 入植者・南種子町
⑥碑文(表面) 長谷開拓記念碑
⑦副碑(表面)
火山灰土に茅が群生する長谷の台地は耕作に適さず、古くから牧野として利用され、人々が定住すること希であった。明治時代以降いくばくかの人々が定着した。第二次世界大戦末期は本土防衛に備えて陸海軍の駐屯地となった。一九四五年(昭和二〇年)終戦の直後、外地引揚者等が新天地を求めてこの長谷地区に多数入植した。茅葺き掘立て小屋に食糧不足という厳しい状況下、すべて人力による艱難辛苦の開墾作業であった。一九四七年(昭和二二年)長谷小学校創立。長谷地区全域にかってなかった開拓者精神が満ち、新しい村づくりが進んだ。一九六二年(昭和三七年)開拓パイロット事業による入植も加わり長谷の荒野は豊かな郷に変貌した。現在は本町の副都心として発展し続けている。終戦時の画期的入植から五十年、ここに長谷地区の開拓の歴史を偲びこの碑を建立する。
平成八年六月 長谷地区民一同 南種子町
⑧現在の状況 小学校前の広場近くに立地し管理されている。


























