九州・沖縄地方
長崎県
雲仙開拓・西原
雲仙開拓 西原 42-213-2
①調査日 平成29年1月24日
②所在 雲仙市瑞穂町西郷西原 西原黄門館敷地内
緯度・経度:32.8262431165804,130.246399693595
③地区の沿革 標高200~300米の火山灰土の山腹斜面の台地に、昭和21年から翌22年にかけて24戸が近隣の村から入植した。
④設置年月日 不明
⑤設置者 不明
⑥碑文(表面) 拓魂
⑦碑文(裏面) 開拓とは創造と不屈の精神で耐えることである。一生をかけ二代三代に望みをかけて開拓の鬼となるのがわれわれの運命。食うものだけは、自給したい。個人でも国家でも、これなくして真の独立はない。そう言う天地の理にたつのがわれらだ。開拓の危機はいくらでもくぐろう。開拓は、決して死なん。
⑧現在の状況 地区内で管理されている。(西原公民館内)
長崎県
多比良開拓・百花台
多比原(たいら)開拓(百花台部落) 42-213-3
①調査日 平成29年1月24日
②所在 雲仙市国見町多比原 百花台集落センター内
緯度・経度:32.82553418128695,130.296722828738
③地区の沿革 標高180~240mの火山灰土、安山岩系の大地で眼下に波静かな有明海を臨み、背後に霊峰普賢岳を仰ぐ地区に、昭和21年引揚者を主体に30戸が入植した。開墾着手70町歩 昭和26年開墾完成 昭和27年電燈架設
昭和28年2月24日 記念碑建立
④設置年月日 昭和28年2月24日
⑤設置者 不明
⑥碑文(表面) 開拓記念碑
⑦碑文(裏面) 無し
⑧現在の状況 地区内で管理されている。
長崎県
面高
長崎県
長崎県・奥野原
長崎県西海市の奥野原開拓は、西彼杵(にしそのぎ)半島の北部に位置し、標高250~275mの山あいにある。西には国指定の天然記念物の七ツ釜鍾乳洞がある。北には道の駅さいかい「みかんドーム」があり、地元の特産品が取り揃えられている。
この地は玄武岩地帯の酸性土壌で、畑地として適しているとはいいがたい土地であった。
46年に緊急開拓地区の指定を受け、40戸が入植した。
西彼杵半島では、開拓地が養蚕や種馬鈴薯の新興産地となっていった。しかし、複雑な地形と交通が不便なため、県下で最も開畑が遅れることとなった。
特に、道路の整備がされず、農産物の販売や生活の弊害となっていた。
当初は、サツマイモ、麦、雑穀などを栽培していたが、強酸性土壌のため収量は少なく、困難な状況が続いた。
土壌改良のため、酪農や肉用牛肥育が始まり、やがてミカンの栽培も行われるようになった。
65年には開拓道路4路線ができたが、未舗装のため、農産物の搬送には苦労があった。
それでも、開拓特有の団結力をもって、今日の故郷を切り開いてきた。
95年、在住者により拓魂碑が建てられた。碑文には、先人の苦労と誇りが刻まれている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
奥野原地区 42-311-2
①調査日 平成30年1月18日
②所在 長崎県西彼杵郡西海町
③地区の沿革 西彼杵半島の北部再開町の中央部東側に位置。標高250~275m玄武岩地帯、酸性土壌。当初入植者40戸。当初、甘藷、麦、雑穀、その後、茶、酪農、みかん栽培。その後、酪農、蔬菜、養蚕。
④設置年月日 平成7年3月
⑤設置者 奥野原地区在住者
⑥碑文(表面) 拓魂
我々は 風雪五十年を 生き抜いた さむらいである 世とともに 語りつたえよ ふるさとの 野山拓きし 父母の若き日を 奥野原開拓
⑦碑文(表面) 平成七年奥野地区在住者氏名
建設委員6名氏名 平成七年三月吉日建立
⑧現在の状況熊本県
大谷
大谷 43-103-1
①調査日 平成29年5月23日
②所在 熊本市西区谷尾崎
緯度・経度:32.8079839072071,130.662109765185
③地区の沿革 熊本市内中心部から5㎞程の金峰山南麓に引揚者、県外転職者が入植した。
④設置年月日 昭和62年9月
⑤設置者 山本義雄
⑥碑文(表面) 水魂碑
熊本市長 田尻靖幹書
この大谷地区は、戦後間もない昭和二十六年に、外地引揚者、戦災者等が入植し、食糧増産の挺身隊として開拓した土地であります。 入植時の生活水は、谷間からのわずかな伏流水を、各家庭で貯水しながら開墾に励みました。 昭和三十五年に、旱魃対策の一環として、国有林の谷間に貯水槽を作り伏流水を集め、各家庭まで簡易水道を配管しました。/ しかし昭和四十五年頃に伏流水の水源地付近が開墾されたため、雨季には泥水が流入し飲用水にするのに一苦労で、また渇水期には水不足にため飲用水に支障をきたしていました。/ このため昭和六十年に関係各位の御尽力、御協力により、開拓地(飲雑用水施設)整備事業として採択、着工され、昭和六十二年に竣功しました。通水時には地区民一同会して蛇口を開けた瞬間、今まで見たこともない清水が音をたてて、勢いよく出る様に、誰からともなく、「万才」の声が上がり、胸に、目頭に熱いものがこみあげて、どうすることもできませんでした。/ この事業に関係された皆様方に、心より御礼申し上げ、永遠に、事業の詳細が後世に残る様、祈念します。 「永久に恩を忘れるな。石に刻まん」
昭和六十二年九月吉日 山本義雄
⑦碑文(裏面) 無し
⑧現在の状況 地区内で管理されている。
熊本県
菊池
菊池 43-210-1
①調査日 平成28年10月28日
②所在 菊池市泗水町吉富
緯度・経度:32.9380900721521,130.7891895739906
③地区の沿革 昭和21年2月軍用地跡に50名とその家族で入植した。
④設置年月日 (ア)昭和50年11月
(イ)平成8年11月
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) (ア)開拓記念碑
菊池開拓農業協同組合 台座を囲むように組合員名簿
(イ)菊池開拓 五十周年記念
平成八年十一月吉日
趣旨 昭和二十一年我等五十戸この地に入植し、困苦欠乏に耐え、平成八年五十周年を迎え半世紀の歩みを発刊し入植者所有地に進出し、繁 栄と発展 の礎を築いた菊池農業高校及び企業十二社の協賛を得て、拓友と相計り永遠に苦難の歴史の証として後世に残さんと此の碑を建立する。 敬白
⑦碑文(裏面) (ア)由緒 吾等五十名と同伴家族は国の緊急食糧増産対策の一環として昭和二十一年二月旧陸軍花房飛行場跡に入植し協力一致所有困難を克服し初期の目的を達成すると共に富の原部落発展の基礎を築いた 謹白
昭和五十年十一月乙卯建立
(イ)寄付者芳名、寄贈者芳名、発起人
⑧現在の状況 泗水町の住宅街の神社(富の原伊勢神社)・公民館(富の原中央公民館)の敷地内にあり、周辺は整備され記念碑の状態も良い。
熊本県
富の原
富の原 43-210-2
①調査日 平成30年12月19日
②所在 菊池市泗水町吉富
緯度・経度:32.9383256893036,130.782828714692
③地区の沿革 熊本市から北北東へ15㎞ 旧陸軍航空通信学校跡地(菊池飛行場内)に昭和25年に18名が入植した。
現在、本地域の組合は解散しているが、当時の入植者が「花房(菊池)飛行場の戦争遺産を未来につたえる会」を立ち上げ、町の公民館の一角に入植当時の開拓団員の集合写真、開墾の様子等を展示し、精力的に活動をされている。
④設置年月日 昭和62年11月
⑤設置者 菊水開拓農業協同組合
組合員一同
⑥碑文(表面) 菊水開拓農業協同組合 開拓記念碑
菊水町長 有田義行 謹書
昭和二十五年四月二十五日、我等十八名は国の緊急開拓食糧増産事業に呼應し、富の原開拓地区(旧陸軍航空通信学校跡地)に入植同年八月十七日、菊水開拓農協を設立した。
我等開拓者の日夜 分かたぬ開墾作業も、被爆跡や多数の構築物の為 遅々として進まず其の労苦は言語に絶するものがあったが組合員一同はあらゆる困難を克服、協力一致、開拓を完遂し、生活基盤と併せて地域発展の基礎を築き上げることが出来た。
我等は、当部落の先駆者として一同相諮り、四十三年組合共有墓地500㎡を開放し、近隣住民と共に納骨堂蓮芳殿を建立した。
尚、今回は組合共有地2000㎡を富の原西区の発展の拠点ともなる公民館及び運動場用地として有意義に利用して頂く事とした。
茲に開拓三十七周年を迎えるに当たり我等開拓者の往時の労苦を偲ぶと共に地域発展のために寄與した其の業績が後世に伝承されることを希い、当区の安泰と繁栄を祈念してこの碑を建立する。
昭和六十二年十一月吉日
菊水開拓農業協同組合 組合員一同
初代組合長、副組合長、代表監事、
組合員18名氏名
⑦碑文(裏面) 無し
⑧現在の状況 富の原西区公民館にあり周辺は花壇が整備されている。
熊本県
黒石
黒石 43-216-1
①調査日 平成28年10月27日
②所在 合志市須屋
緯度・経度:32.8658855945612,130.7463650323382
③地区の沿革 熊本市東部の平坦地で軍用地が解放され、昭和21年引揚者、復員軍人が入植。
④設置年月日 平成15年1月
⑤設置者 開拓記念碑建設委員会
⑥碑文(表面) 新開開拓記念碑
ここ新開区は、旧軍用地の跡地である 昭和二十年終戦になるや、復員や海外からの引揚げが開始された 当時我が国土は荒廃し、食料や生活物資も欠乏し国民生活は困窮していた 西武軍教育隊隊長の棚橋眞作氏はこの実情を憂い、この演習場跡地の山林原野を開墾し食糧の生産をと志し、これに応じた者は空いた兵舎に移り住み共同農作業に参加した。昭和二十一年、政府の緊急開拓事業が実施され、同年四月黒石原開拓団として起耕式が行われ、ここ黒石原の原頭に立った開拓者達の鍬が、広漠たる大地を拓き始めたのである。昭和二十六年に黒石開拓農業協同組合を設立、当地区は二十余戸の開拓農家とその縁故家族等で里を構成する 三十数戸の居住区となり、新開区との地区名で呼称される集落となる、以後開拓は着々と進展し畜産農業を主体とした農村集落としての地域体制が確立された。
その後、移り行く時代の変遷に伴い、当地区も農業地区から混住地区へと、さらには住宅地区へと居住環境は様変わりした。住宅団地の造成により、此処を郷土と定めて居住する人々が増え、新開区の戸数も増え六百戸の大集落となるに到った。今般防衛庁基地周辺整備事業による新開街区公園の竣工にあたり、戦後の困窮時代に開拓者としてこの地区に入植し、営農に励んだ先人たちの偉功を偲び、今後とも当新開区が良好な地域社会を維持し、住み良い里となることの祈念し、此処に新開開拓記念碑を建立した。
平成十五年一月吉日 文 野田十三生
⑦碑文(裏面) 記念碑建設委員会
委員氏名 入植者20人個人名
⑧現在の状況 住宅街の新開神社にあり、綺麗に整備されている。
熊本県
合志開拓地
合志(ごうし)開拓地 43-216-2
①調査日 平成28年10月27日
②所在 合志市幾久富
③地区の沿革 熊本市の東北に位置する平坦な高原で旧合志、津田、原水の三村に跨る地域で、雑木林地帯の霜深の作物の出来にくい酸性土壌地帯。
④設置年月日 昭和48年4月
⑤設置者 開拓者
⑥碑文(表面) 開拓碑
熊本県知事 沢田 一精
⑦碑文(裏面) 合志開拓地は太平洋戦争終末と同時に我々が土への戦いを挑んだ地である。合志町と菊陽町に跨る總面積二三七ヘクタール 二〇年より二三年にかけて新生の道を求めて入植した開拓者八七名が開墾 鍬を唯一の武器として一鍬ずつ汗と膏で原野を掘起した所である。爾来二八年 言葉に絶する忍苦と和衷協同の実を以て荒地を美田に化したのであったが本年開拓行政の打切りによりこゝに開拓農業協同組合解散という一転機に立つに至った 然し乍らこの地は我々にとって永久に忘れ得ぬ所である たとえ今後いかような変化があろうともこの同汗共苦の地を心の故郷として遺すべくこの碑を建てる。
昭和四十八年四月 (下段に個人名)
⑧現在の状況 熊本市に隣接するベッドタウン「光の森」に位置 し、周辺は住宅街である。本碑は南群コミュニティセンターの敷地内にあり、記念碑の状態もよく碑文は鮮明。
熊本県
西合志
西合志 43-216-3
①調査日 平成29年6月23日
②所在 合志市御代志
緯度・経度:32.89169363649142,130.746735056177
③地区の沿革 雑木林を開墾、強度の酸性土壌で収穫は皆無であったが、昭和26年度から土壌改良事業が行われ、普通畑作が可能となった。
④設置年月日 昭和49年3月
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 開拓碑
⑦碑文(裏面) 往時の地域は一面のくぬぎ林で幾たびか試みられた開墾も土地が瘠せ用水がなく尽く失敗に終った 昭和十年藤井勲君はこの難事業に挑み着々実績を挙げ 仝十六年国策に基づき農地開発営団が一括して事業所を開設するや抜擢されて其の所長となったが比島に於いて戦死した 其後開拓農協を結成 自主的に事業の推進に当った こに入植した人々は皆時局の絶対的要請に応じ 戦場に赴く覚悟で移住し開墾に挺身したが地味薄く水分乏しき為 偶に種子を播いても稔りがなく 楽しい労働の汗を流す水もない実情で その辛苦は言葉に絶するものがあったが一致結束あらゆる困難に耐えつゝ戦中戦後の悪条件を克服し 百三十町歩の開拓を完遂したのである 昭和二十六年各戸もれなく電燈がともり仝四十一年水道が引かれ生活環境も凄く整い 近年は又熊本市近郊の住宅地として面目を一新するの至った この巨大なる記念碑は開拓者の尊き汗と熱き涙でうち立てた誇るべき業績を永遠に伝えるもので 碑面の文字は希望せらるゝまゝに開拓諸兄姉と因縁浅からぬ不肖が各位多年の苦労を偲び其の成功を称えて揮毫したものである
昭和四十九年三月 工藤 誠一 撰文
荒木 美智子 書之
⑧現在の状況 高さ3米近くある大きな碑は地区公民館地内で管理されている。(若原公民館)























