九州・沖縄地方
熊本県
西原
西原(にしはら) 43-432-1
①調査日 平成29年8月23日
②所在 阿蘇郡西原村布田
緯度・経度:32.8350421032588,130.8810969741746
③地区の沿革 黒色火山灰土で強酸性の痩せ地で水利に見放されていた地に、昭和23年13戸が入植した。
④設置年月日 昭和52年10月30日
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 開拓碑
熊本県知事 沢田 一精 書
昭和52年10月30日建立
⑦碑文(裏面) 昭和21年政府は食糧増産ノ一環トシテ 緊急開拓事業ヲ開始シタ 当時旧満州ヨリ引揚デテイタ 旧満州畜産開拓団長デアッタ竹崎正雄氏ガ念願トシタ高遊原ノ開拓ヲ計画シ同士ト共ニ民有地ノ荒野ヲ借受ケ 仮小屋ヲ建テ開墾ノ鍬ヲ打チ込ンダノガ開拓ノ始マリデアル 今ヤ開拓サレタ総面積ハ130町歩ニ及ブ開拓30年ノ歩ミハ次ノ通リデ今日ニ至ル
昭和23年 第1次入植 13戸 昭和23年7月23日 組合設立 昭和25年 日向水田暗渠排水通水建設 昭和25~26年 第2次入植 昭和26年 南北開拓道路 大津-河原線建設 昭和29年 東西開拓道路 熊本-山西線建設 昭和30年 電気工事完成 昭和38年 新水道工事完成 昭和43年 高遊原公民館落成 開拓地ガ今日アルハ農林省県並ビニ西原村ノ好意アル御指導御協力ニ依ルモノデアルコトヲ私達ハ忘レテハナラナイ
入植者40名氏名
⑧現在の状況 地域公民館地内で管理されている。
熊本県
熊本県山都町(やまとちょう)・朝日(大矢)開拓
熊本県山都町(やまとちょう)・朝日(大矢)開拓
熊本県上益城郡(かみましきぐん)清和村(せいわそん)(現山都町(やまとちょう))の朝日開拓は、阿蘇山の南に位置し、標高690~800㍍の高地にある。西側には国指定重要文化財「通潤橋」がある。
地質は火山灰土で、波状形高原地帯である。地力が低く、スズ竹の繁茂により開墾作業が進まず、県内屈指の不振地区であった。
47(昭和22)年、熊本県開拓基地農場(開拓者の基幹養成と、開発のための講習所)から入植設営のために数名が現地に入り、翌年10名が入植した。同年、富山県から十数名が入植している。
49年3月までに入植したのは30名だったが、離農したのが13名にのぼり、定着率は悪かった。しかし、残った人が少ない分、団結は強まっていった。
当初は、掘っ立て小屋の竹の床に草壁の住居で雨露をしのいだ。水の確保も大変で、小川の水を汲んできたが、雨が降ると濁って使えない。
初年度より朝日開拓農協が設立されたが、当地の開墾は困難を極めた。馬を導入してみたが、土が硬くて思うように耕せなかった。
陸稲、ジャガイモ、サツマイモなどを主食として栽培し、換金作物として菜種、陸稲、また裏作としてソバ、麦類の作付けを行ったが、十分な収穫は得られなかった。
50年に各戸に牛が導入され、農家所得の源をなした。また、65年に養蚕部門を導入し、営農不振からの脱却を目指す。そして72年から地力増進を目的に、開拓牛(乳用種去勢肥育)に取り組むことになる。
72年に地区名を「大矢区」に改名。農協は上益城郡の6単協が合併して「上益城開拓農業協同組合」となった。
現在、では9戸、肥育牛経営(3戸が肥後開拓農協組合員)と、野菜、おもに夏秋野菜(トマト、ピーマン)を栽培している。特にトマトは高冷地野菜として人気がある。
78年4月28日(現、昭和の日)に開拓30周年記念式典を行い、碑を建てた(写真)。以来、毎年(今はコロナ禍で中断)「開拓まつり」が盛大に開催されており、今後も開拓魂は引き継がれていく。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
熊本県山都町(やまとちょう)・朝日(大矢)開拓 43-447-1
①調査日 2016年7月28日
②所在 上益城郡山都町大字鶴ヶ田
③地区の沿革 上益城郡の最東部、阿蘇山の南に位置し、標高690~800米の波状形高原地帯。村有地、民有地275haが解放され、熊本県開拓基地農場(開拓者の基幹養成と開発のための講習所)出身者と県外入植として富山県より入植したが、定着率著しく悪く、広く県内外より入植した。波状高原地帯のため地力悪くスズ竹の繁茂により開墾作業も進展せず、県内屈指の不振地区として諸施策が実施された。
④設置年月日 昭和53年4月
⑤設置者 不明
⑥碑名 入植30周年記念碑
⑦碑文(表面) 拓碑 開拓参拾周年記念 昭和二十三年二月異郷より此の地に住を移し三十年の四季を送る その間 風雪にたえ業を興し相助け励まして部落大矢を成す この偉業をたたえて碑を残し後世に伝える / 昭和五十三年四月 清和村長 平川 亘撰
⑧碑文(裏面) 記録 区長氏名 個人名
⑨現在の状況 標高700米の山あいを通る道路脇にあり、「記念碑の為の広場」というような印象で、管理されている。
熊本県
一武
一武(いちぶ) 43-501-1
①調査日 平成29年12月26日
②所在 球磨郡錦町一武
③地区の沿革 すすきが生い茂る松林に入植した。
④設置年月日 昭和44年4月
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 入植記念碑
(竿の下)一武栄開拓農業協同組合
入植 昭和二十三年十月十四日
組合長、組合員23氏名
⑦碑文(裏面) 昭和二十四年 住宅建設 仝二十五年八月 電気工事 仝二十五年十一月 苗米所建設 仝三十一年十月 三平松土地改良事業 仝三十四年十一月 水道工事 仝四十一年六月 第一次開田 仝四十二年六月 第二次開田 仝四十三年二月 営農振興資金 乳牛農機具畜舎総事業費九百万円
(竿の下側面)記念碑建設発起人4名氏名
碑文 髙田正文 昭和四十四年四月吉日建之
⑧現在の状況 地区公民館地内で管理されている。
熊本県
朝の迫
熊本県
熊本県・高原
幾多の困難に打ち勝った記念
熊本県錦町の高原(たかんばる)開拓は、県南部に位置し、標高150~200mの台地にある。
日本三大急流の一つである球磨川が東西に流れており、朝晩の寒暖差が大きく、よく霧が発生する。
46年に80戸が入植し、当初は寺の御堂に分宿していた。国有林の伐採に従事したが、集材したものが山火事に遭い、賃金をもらえないこともあった。
49年には大干ばつで、陸稲は全滅。51年には雹害(ひょうがい)でサトイモやスイカ等も全滅。その他、2年連続の台風災害で、住宅の全半壊35戸と、非常に多くの困難に立ち向かわなければならなかった。
土質は酸性の火山灰土で、稲作には向いておらず、サトイモや甘藷の栽培が行われるようになった。
50年から茶苗の植栽を始めたが、55年頃から茶の価格が低迷したため、茶樹を抜いてしまい、60年に再び茶苗を植栽するなど、一進一退の営農が続いた。今は緑の茶畑が広がっている。
65年頃からモモ、メロンなど果樹の産地形成ができた。また、69年には高原開拓農協の敷地に、熊本県開拓農協連球磨支所と倉庫が開設された。
70年頃から一部の農家が開拓牛肥育に取り組むようになった。
74年に球磨地域の開拓農協が合併し、球磨開拓農協が発足した。
85年、農協敷地内に入植40周年の開拓記念碑が建てられた。当時の思いが伝わるよう、大きく堂々とした碑となっている。
現在も、広大な茶畑が広がり、肉牛肥育農家も頑張っている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
高原(たかんばる) 43-501-2
①調査日 平成29年5月23日
②所在 球磨郡錦町大字木上東
緯度・経度:32.2466120150062,130.8412514006636
③地区の沿革 檜、松の国有林に昭和21年80戸が入植した。
④設置年月日 昭和60年12月1日
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 開拓碑 錦町長 松田 栄 書
大東亜戦争終結により、国の定めた緊急開拓法に基づいてこの地に入植、開拓事業に参加、山野を開墾、開畑して現在の地区形成をなし遂げた。この偉業を入植四十周年に当り開拓碑を建立し、後世に伝えるものである。
入植 昭和二十一年八月十五日
開拓面積 一六〇ヘクタール
昭和六十年一二月一日建立
副碑(表面)
⑦碑文(裏面) 昭和二十一年八月入植
⑧現在の状況 県道324号線沿いの当地区内で管理されている。
熊本県
西村
熊本県
球磨新興
大分県
大分県別府市・古賀原開拓地
記念碑が3基、水道碑も
大分県の戦後開拓地は県内全域に分布しており、1945(昭和20)年から68年までに4844戸の入植があった。県東部のほぼ中央に位置する別府市内成・古賀原(こがのはる)地区(旧・古賀原村)には40戸が入植。その開拓の歴史は、水を求めての厳しい戦いだった。
47年3月に第1陣35戸が入植、後に5戸追加入植。標高600㍍位の 高い丘陵地だった。開拓者はクワやツルハシで開墾を始め、翌年、古賀原開拓農協を設立。焼き畑農業から始まり、野菜などを作って別府の町に売りに行った。
湧き水や池もない原野で、水不足が深刻だった。入植者は沢水を見つけて飲み水に供する生活が長く続いた。61年に簡易水道が完成したものの、日照りで水が涸れることが多かった。
84年に現在の水道施設が完成し、ようやく水不足から解放された。現在、ダイコン、ハクサイ、キュウリなどの野菜や茶などが生産されている。
古賀原公民館の敷地内に、記念碑が並んで3基ある。古賀原自治会が77年、97年、15年に建立したもので、それぞれの碑銘は「開拓三十年記念」「古賀原誕生五十周年記念碑」「古賀原誕生七十周年記念碑」。
近くに「飲雑用水施設竣工記念碑」もある。碑文には「飲用水の不足で当初は谷間の素掘井戸より泥水を担ぎ上げて使用し それも底をつくと遠くの道なき谷間を水を探し求め歩き焦燥の日々が続く」と苦労が刻まれている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
古賀原(こがのはる) 44-202-1
①調査日 平成30年9月11日
②所在 別府市内成古賀原
緯度・経度:33.2459647012953,131.4998908187733
③地区の沿革 昭和22年3に第1陣35戸が入植、後に5戸追加入植した。標高600米位の丘陵地で、湧き水や池もない原野で、水不足が深刻だった。
④設置年月日 30周年 昭和52年●月
50周年 平成9年10月
70周年 平成29年11月
飲雑用水 昭和59年10月
⑤設置者 30・50・70周年碑 古賀原自治会
飲雑用水 別府市・古賀原水道組合
⑥碑文(表面)
30周年 開拓30周年記念
50周年 古賀原誕生五十周年記念碑
70周年 古賀原誕生七十周年記念碑
飲雑用水 県営古賀原地区
飲雑用水施設竣工記念碑
大分県農政部長 中島恭司
(表 左から70周年、50周年、30周年)
(表 飲雑用水)
⑦碑文(裏面)
30周年 昭和五十二年○月 古賀原自治会
50周年 平成九年十月吉日 古賀原自治会
70周年 平成二十九年十一月吉日 古賀原自治会
飲雑用水
威風 終戦後総ての物資欠乏に因って食糧増産を目的として開拓制度が出来その恩恵に預かりてこの地に入植せるも飲用水の不足で当初は谷間の素掘井戸より泥水を担ぎ上げて使用しそれも底をつくと遠くの道なき谷間を水を探し求め歩き焦燥の日々が続く 後年簡易水道の設置ありたるも水源の湧出量が尠なく始終水不足に悩まされ現世に於いてこの様に水に事欠く生活の惨めさを嘆く声その極みに達したその秋にあたり地区民一丸の願望が叶い国県市各々関係の御温情溢れる格別の御詮議に因って汲めどもつきぬ地底の清水が渾渾と湧き出て御温情の水が各戸に廻るようになった時の感激は何物にも代え難く筆舌に尽くし得ずこの歓喜この御高思に対する感謝は肝に銘じ永久に忘れる事なく後世に語り継がなければならない さらにまた古賀原農業の振興発展を祈願しこの碑を建てる
昭和五十九年十月吉日
別府市長 ほか氏名 事業概要等
(裏 左から70周年、50周年、30周年)
(裏 飲雑用水)
⑧現在の状況 公民館地内で管理されている。
大分県
大分県・鎌城
景勝地に受け継がれる「開拓魂」
大分県中津市耶(や)馬渓(ばけい)町の鎌(かま)城(ぎ)開拓は、県の北西部で奧耶馬渓に位置する。耶馬渓は日本新三景(他は北海道・大沼公園、静岡県・三保の松原)の一つに挙げられる景勝地。
標高400mの高地で、土壌はおもに安山岩を母体とし、比較的良質であったが、谷が深く日照不足や冬季の寒害が障害となった。
52年、長野県の伊那地方から来た若者が中心となって35戸ほどが入植。台地は荒れ果てた山林原野で、想像を絶する困難が待ち構えていたが、割り当てられた農地を一鍬、一鍬開墾していった。
当初の栽培作目は、サツマイモや雑こくなどを自給自足していた。
中津市でも海岸に近い開拓地では、生活水準の上昇に伴い、ミカンやブドウなどの果樹栽培が増えてきたが、同地域では気候条件などのためにこれらへの切り換えは困難だった。
傾斜地が多く、畑作でも思うような収穫ができず、畜産や養蚕にシフトしていった。
55年頃には乳牛が導入され、酪農が始まった。当初、牛乳を出荷する際には、旧耶馬渓鉄道の白地駅までの長い山道を、牛乳入りの缶を背負って運んでいたという。
長年の努力と試行錯誤の末、2010年には畑地の50%以上を牧草地とし、酪農・肉牛・養豚・養鶏などの畜産団地として生まれ変わった。
今年3月には、耶馬渓酪農組合、下郷農協、生協の3者で立ち上げた牛乳工場が稼働を始める。
旧鎌城開拓農協「開拓20年の歩み」の中の「追想」という詩に「今振り返り佇めば歩みし道の厳しさは、不屈の開拓魂の汗と涙の結晶を物語るだろう。 とこしえに語りつたえてくれるだろう」(抜粋)とある。
地区の道路わきには「開拓の碑」が建てられており、乳牛のモニュメントの畜魂碑とともに、鎌城開拓地を見守り、その歴史を伝えている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
鎌城(かまぎ) 44-203-1
①調査日 平成30年9月10日
②所在 中津市耶馬溪町大字金吉鎌城
緯度・経度:33.39451503719704,131.076206674073
③地区の沿革 荒れ果てた山林原野に、長野県伊那地方出身者を中心に昭和27年入植した。
④設置年月日 不明
⑤設置者 不明
⑥碑文(表面) 開拓の碑
⑦碑文(裏面) 確認できず
⑧現在の状況 地区内の道路脇にあり、畜魂碑とともに管理されている。
(全景 右に「畜魂碑」)
大分県
西国東干拓地
西国東干拓地 44-209-1
①調査日 平成30年9月10日
②所在 豊後高田市呉崎
緯度・経度:33.5804872867140,131.432078172908
③地区の沿革 農家の二三男対策で昭和28年から3ヶ年に63名が干拓地に入植した。
④設置年月日 昭和63年10月
⑤設置者 不明
⑥碑文(表面) 入植記念碑
大分県知事 平松 守彦
戦後の食糧増産と農家の二三男対策事業として県は西国東干拓地に入植を前提に大分県郷土
開発青年実践班を県内外より募集 昭和二十八年 二十九年 三十年の三年間に六十三名が第一工区に入植した / 二十九年五月西国東干拓地開拓農業協同組合を設立し五十二年に解散する迄 政府資金の借入返済生産物の共同販売をし村作りの基盤を作る / 入植時は水道電気はなく道路もない干拓地を日夜除塩作業の傍ら住宅の建設にあたったときに平均年齢二十三才であった / 当干拓地は海抜零米にして雨季に入るや畑宅地共冠水し作物の被害は言い知れぬものがあった 三十六年水害対策として干拓土地改良区を設立し県営による排水ポンプの新設により水害から多少はまぬがれたものの充分ならず五十三年より道排水路の整備を現在も着々と進められ念願の排水も容易になる事と思考する / 入植三十五周年を記念し入植者の氏名を後世に伝えこの碑を建立する
昭和六十三年十月吉日
⑦副碑(表面) 入植者氏名
⑧現在の状況 地区公民館地内で管理されている。(桂区集会所)


























