近畿地方
兵庫県
青野が原
青野ヶ原 28-220-1
①調査日 平成29年4月6日
②所在 加西市青野原町
緯度・経度:34.9160031441368,134.9068920348427
③地区の沿革 演習場等の国有地が解放され、復員軍人、引揚者ら200人が入植。その後、昭和22年から10年に亘る駐留米軍による旧陸軍演習場の全面接収を経て、その間残った入植者らが米軍から借りる形で耕作を続けてきた土地は整理統合されて開拓農地となり、他の大部分は自衛隊演習場として返還された。
④設置年月日 平成8年11月
⑤設置者 青野原町創立五十周年記念行事
実行委員会
⑥碑文(表面) 希望の碑
加西市長 藤岡重弘 書
⑦碑文(裏面) 沿革
1945.12 国の緊急開拓令により約二百名が青野ヶ原に入植する。
47.7 駐留米軍の青野ヶ原全面接収により、入植者は各地に四散し、三十六名が残る。
49.3青野ヶ原開拓農業協同組合を設立し、認可される。
57.6 接収土地の返還運動の末、一部が返還される。
62 土地を買い受け、本格的に開墾が始まる。
64.1加西、滝野両町に分割されていた青野ヶ原が加西町に一本化される。
65.9台風二十三号、兵庫県を縦断し、壊滅的な被害を受け「激甚地」に指定される。
66.12 台風の災害復旧完了する。
68.1青野原町として認可される。
69.1国道周辺の土地に、企業を誘致する。
70 赤土のままの幹線道路が舗装される。
71 住宅環境じょじょに改善される。
72.1 青野ヶ原開拓農業協同組合解散する。
77.12青野原町公民館が竣工される。
79.12青野ヶ原開拓農業協同組合の精算完了し、一般農政へ移行する。
95.6 糀谷ダム通水により、用水不足解消する。
その他数多くの課題が先輩諸氏により解決され、今日の青野原町の町づくりを達成されました。青野原町創立五十周年にあたり、その功績と努力を讃えるとともに、地区のますますの発展と、子どもたちの健やかな成長と幸せを祈念いたします。
平成八年十一月吉日
青野原町創立五十周年記念行事実行委員会
⑧現在の状況 青野原町公会堂地内で管理されている。
※碑文の沿革の年月日は漢字で記載されているが、判読しやすいように数字に修正した。
兵庫県
「鶉野開拓記念碑」 兵庫県加西市鶉野町
「鶉野開拓記念碑」
兵庫県加西市鶉野町
兵庫県は、北は日本海、南は瀬戸内海に接し、中央には高い山々がある。戦後開拓地は瀬戸内海側に集中的に分布し、標高300㍍以下の地区が多いが、水利条件には恵まれなかった。県南部の加西市は、播磨平野のほぼ中央に位置し、西は姫路市、南は加古川市と接している。人口は約4万人。山林、農用地(田、畑)がそれぞれ総面積の約4割、約2割を占めている。同市には戦後、開拓農協が3組合設立された。
同市南部の鶉野町(うずらのちょう)(旧・加西郡加西町)には戦時中、姫路海軍航空隊鶉野飛行場(以下「鶉野飛行場」)があった。1945(昭和20)年、緊急開拓事業により、県は鶉野飛行場跡の開拓を決定。同年より戦災者、海外引揚者、復員者ら約100戸が入植した。
48年9月、鶉野開拓農協を設立。飛行場建設時に地面を固めており、開墾が困難だった。入植者は開墾・営農に努めたが、土質は強酸性で有機質も乏しく、苦労が続いた。入植者は四散し、5年間で約50戸となった。
63年からの第2次振興対策(開拓営農新振興対策)に基づいて、酪農及び中小家畜を主体とした経営に取り組むことにより、営農も次第に安定してきた。だが、企業の工場進出の増加に伴い、第二種兼業農家(兼業所得の方が農業所得よりも多い)に変わっていく者も増えた。同開拓農協は72年2月に解散した。
鶉野中町公民館駐車場敷地内に開拓記念碑がある。03年7月、鶉野開拓記念碑建立委員会によって建てられた。碑銘は「鶉野開拓記念碑」(写真)。下部には、入植した組合員とその家族等46人の氏名が刻字されている。
裏面には組合の沿革や歴代組合長名などが記されている。碑文の末尾には「鶉野中町開村五十九年にあたり、先輩諸氏、及び組合員の家族の功績と努力を称えると共に地区のますますの発展と子孫繁栄を祈念しここに記念碑を建立する」と刻まれている。
周辺は平坦で、鶉野飛行場滑走路跡があるほか、家屋や工場が広い畑の中に点在している。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
鶉野(うずらの) 28-220-2
①調査日 平成29年4月12日
②所在 加西市鶉野町
緯度・経度:34.8880906183668,134.865829727762
③地区の沿革 海軍の航空隊基地が解放され、残留海軍部隊を中心とした農耕に従事する地元増反者の他、戦災者、引揚者及び復員者が昭和20年に集団入植する。入植者は当初約100戸に上ったが5年間で四散し約50戸となった。
④設置年月日 平成15年7月
⑤設置者 鶉野開拓記念碑建立委員会
⑥碑文(表面) 鶉野開拓記念碑
鶉野開拓農業協同組合 46入植者氏名
⑦碑文(裏面) 沿革 元姫路海軍航空隊用地を開拓財産に所管換えを受け、昭和二十年より開拓事業として開田及び開畑の開墾を行ってきたのである。終戦と同時に残留海軍部隊を中心に農耕に従事する増反者、戦災者、海外引揚者及び復員者が逐次に入植する、昭和二十三年九月一日鶉野開拓農業協同組合を設立し、開拓に従事して営農に努めていた。
第二次振興対策事業に基づいて酪農及び中小家畜を主体とした経営に取組むことにより営農もしだいに安定すると共に、組合の運営も良くなってきたが本地区に工場の進出が目立ってくるにしたがい第二種兼業農家に変わって行く者も増加してきたので開拓営農総合調整事業の指導の下で昭和四十七年二月二十九日鶉野開拓農業協同組合解散の認可を得て解散し、昭和五十二年六月九日鶉野開拓農業協同組合の精算を完了したのである。
鶉野中町開村五十九年にあたり、先輩諸氏、及び組合員の家族の功績と努力を称えると 共に地区のますますの発展と子孫繁栄を祈念しここに記念碑を建立する。
歴代7組合長氏名 5開拓組合精算人氏名
平成十五年七月吉日
鶉野開拓記念碑建立委員会
⑧現在の状況 鶉野中公会堂裏手駐車場内で管理されている。
兵庫県
石戸
石戸(いしど) 28-223-1
①調査日 平成29年11月21日
②所在 丹波市柏原町石戸
緯度・経度:35.1066142266968,135.0562392824773
③地区の沿革 昭和20年に新井村分村計画に基づき、新井村関係の復員者と疎開者が15戸が入植した。
④設置年月日 平成2年11月
⑤設置者 河村正信
⑥碑文(表面) 沿革 標高百八十米の高原地帯で昭和二十年十一月緊急開墾集団地として食糧増産を目的とし悲壮の覚悟を似て入植した開拓地で在る
昭和二十五年頃より水不足と土地柄開拓地として不適の上開拓資金も乏しい悪条件の下に幾多の逆境にさらされ涙ぐましい努力が続けられる中一人二人と山を下り現在数戸の集落と成る
昭和四十七年より遂時ぶどう栗りんご柿ギンナンを植樹面積二六七アールの石戸観光農園として現在に至る
平成二年十一月 河村正信建之
⑦碑文(裏面) 石戸山の北嵐 粉雪粉々 頬を打つ 有明月に霜踏みて 打振る鍬や 落つる汗 下玄の月は光々と 凍てつく家路 影二ツ 正 枝
⑧現在の状況 石戸公民館の敷地内で管理されている。
兵庫県
嬉野
兵庫県
依藤野
奈良県
奈良県・津風呂開拓
古の地名を開拓で残す
奈良県山陵町・津風呂開拓
奈良県奈良市山陵町の津風呂開拓は、平城宮跡歴史公園の北にあり、奈良大学や東大寺学園などの教育施設に隣接している。また、五社(ごさ)神(し)古墳(神(じん)功(ぐう)皇后陵)などの歴史的施設も近くにみられる。
元々、津風呂部落は奈良県中部の吉野町(当時は竜門村)にあった。津風呂の地名は万葉集に見る「津布呂」としてよく歌に詠まれた地だ。
ところが、戦後、奈良盆地の水不足解消のために、51年に吉野川支流の津風呂川にダムが建設されることになった。
う余曲折の末、現在の場所(元奈良競馬場跡)に移ることになった。
いにしえより続く、津風呂の村を絶えさせないよう、集団で移住しようとしたが、移転先決定に時間が掛かり、58~59年に移住した時には、当初57戸だったが20戸に減っていた。
新たな郷土を建設するに当たっては、村の象徴ともいうべき氏神の春日神社を移設するために、最も高い丘を社地に選んで神移しの儀を行った。
移籍先は他の開拓地と異なり、田畑・用水・山林原野がある程度備わっていた。しかし、吉野の山村から都市近郊への移住は、日常生活での苦労も多かった。
畑ではサツマイモ・ダイコンなど、樹園ではモモが栽培されていた。また、何戸かが養鶏に重点を置くようになった。
70年に、集会所の敷地に記念碑が津風呂開拓農協により建てられた。
その後は、次第に若い人たちが他産業を志向するようになり、現在では、家庭菜園ほどの畑がみられるだけで、全体的には住宅地の様相を呈している。
吉野にあった旧津風呂は、61年に完成したダムにより、今は津風呂湖の底で静かに眠っている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
津風呂(つぶろ) 29-201-1
①調査日 令和6年5月25日
②所在 奈良市山陵町
緯度・経度:34.7128199566329,135.7857205440098
③地区の沿革 吉野郡津風呂にダム建設が決まり52戸が立ち退きを余儀なくされ、20戸が集団移転を求めたが、移転先が決まらなかった。昭和29年に廃止された奈良市北部にある奈良競馬場跡地が払い下げられ入植した。
④設置年月日 昭和45年4月29日
⑤設置者 津風呂開拓農業協同組合
⑥碑文(表面) 記念碑 奈良県知事 奥田 良三 題
津風呂町由緒
もともと津風呂の地名は遠く万葉集に見る「津布呂」●●として古くより歌に詠まれた地で南北朝の頃 津風呂筑後守総五俵上千開区光字入道●件によって治水産業が拓かれ 五十二戸 田地十六町歩畑地十八町歩山林二百町歩の自給自足の平和な村であった 然るに 昭和二十一年十津川紀の川総合開発事業に依る津風呂ダム建設のためこの津風呂部落は水没し 裏面に銘記の二十戸がこの地に集団移転し第二の故郷津風呂町を創設し昭和三十五年四月二十八日 鎮守の春日の森から御神体を奉還し安栄山阿弥陀●薬師寺を安置し我々は昭和三十三年から移住を始め而後汗と涙で町遷の大事業に専念した 貢献された対策委員長坂口義雄氏建設委員長森中三郎氏開拓農協組合長後藤俊一氏等を始め二十戸の家族の一致協力加えるに土地の交渉工事協力に専念された山陵町の中田宇之吉氏の功績を忘れることは出来ない 吉野の故郷津風呂湖に湛えられた二五〇〇万㎥の水は大和平野一万町歩の旱害を救うと共に工業用水等奈良県産業振興の為に幾久しく貢献されるのであろうことを希うと共に第二の故郷津風呂町が永久に繁栄することを祈念するものである
昭和四拾五年四月二十九日
建設者 津風呂開拓農業協同組合
文献謹書 津風呂町自治会長 片岡一雄
⑦碑文(裏面) 入植者名
⑧現在の状況 地域で管理されている。














