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開拓記念碑調査事業

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愛知県・伊保原

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愛知県豊田市の伊保(いぼ)原(はら)開拓は、市の西側に位置し、標高6090mの台地にある。

戦中は名古屋海軍航空隊飛行場があった。

45年4~6月にかけて、ここから神風特別攻撃隊《草薙隊》が沖縄戦に向け、4隊4388名が出撃し、56名が散華した(草薙隊の名は熱田神宮の「草薙(くさなぎの)剣(つるぎ)」に由来)。

46年に、地元の二・三男や引揚者、疎開者など49名が開拓増進隊に応募し、愛知県追(つい)進(しん)農場で約1ヵ月の入植訓練を受けた。24名が入植を認められ、49年には新たに34名が入植した。

この地は飛行場だったため、滑走路などはコンクリート並みに硬くなっており、三本備中鍬を振り下ろしてもキズが付く程度だった。

さらに、土壌は酸性の粘土質で、当初は麦、サツマイモなどが栽培されたが収穫は少なかった。

48年には伊保原開拓農協が設立され、土壌改良、水利事業などに着手し、次第に収量も増えていった。

59年9月には伊勢湾台風により甚大な被害を受けたが、皆が一丸となって見事に災害からの復旧を果たした。

61年に愛知用水が通水すると水田も多くなり、スイカは新墾地を中心に各戸で2030a栽培さるようになった。栽培技術の向上により「伊保原スイカ」として、一時は通常価格よりも30%も高く評価された。

しかし、農業の機械化・省力化により余剰労力が発生し、これが農業外に向けられるようになり、兼業化が進んでいった。また、豊田市を中心とする自動車産業の発展で、基幹農業者も工場などに吸収され始め、都市化が進んでいくこととなった。

48年に伊勢神宮からの分神を受けて伊保原神社が造営され、72年に農協の解散にあたり開豊神社と改名された。この時、開拓碑と草薙隊之碑が建てられた。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2025年4月 愛知・伊保原

伊保原(いぼはら)  23-201-

 

①調査日  令和3年4月20

②所在  豊田市浄水町原山

緯度・経度:35.1245028378654,137.1412193693216

③地区の沿革  標高7080米の飛行場跡地が解放され、昭和21年7月に81戸が入植した。

④設置年月日  昭和4612

⑤設置者  伊保原開拓農業協同組合

⑥碑文(表面)  開拓碑

    愛知県知事 桑原 幹根 書

沿革  この一帯は元名古屋海軍航空隊の飛行場跡で戦後国の緊急食糧増産対策の一貫として開拓された土地である。昭和二十一年七月六●人の人達によって開拓事業が始められた。県追進農場で開拓技術を修練し十七人が地区内に居住した。同年伊保原開拓農業協同組合が設立された。この土地は酸性が強く礫の多い粘土質土壌であった。鍬一丁にたよる開墾は遅々として捗らず収入のない歳月が続いて苦闘の連続で多くの人が離農した。屡々挫折感をおぼえ乍らも歯をくいしばって頑張った。組合は設立以来各種事業を完成し二十六年漸く電灯がひかれた。その後開拓地としての整備も徐々に行なわれて将来に希望を見出した。三十年代に入って営農が軌道に乗りかけた矢先に伊勢湾台風に見舞われ大きな被害を受けたが組合員が一丸となって見事に災害復旧をし組合の経済発展を成し遂げて現在に至っている。なお三十三年和田ヶ池三十六年愛知用水の完成により水田十七ヘクタールが開かれたが開拓者にとって素晴らしい光明であった。漸次入植し現在組合員数八一戸耕地面積一七〇ヘクタール余漸くして近代的農業地帯を完成し周辺地区と肩を並べるまでに成長した。これは偏に関係当局の暖かいご指導の賜であり心からの謝意を表しつつ茲に組合解散の記念を碑する

昭和四十六年十二月吉日建立

    伊保原開拓農業協同組合

⑦碑文(裏面)  井保原開拓入植者 昭和21年度から43年度入植者81名氏名

⑧現在の状況  開豊神社内で管理されている。

愛知県

愛知県豊橋市天伯原開拓記念像

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「土に挑む男」

愛知県豊橋市天伯原開拓記念像

愛知県豊橋市は県南東部に位置し、南は太平洋に面している。東三河地方の経済・交通の中心で、人口は約37万人。市内を流れる豊川からの用水と温暖な気候に恵まれ、農畜産業が盛んに行われている。戦後、15の地区で開拓事業が進められた。

同市南部の天(てん)伯町(ぱくちょう)天伯原地区は広大な台地で、1945(昭和20)年、復員軍人・戦災者ら200戸余りが入植した。明治時代から長い間、陸軍の演習地であったため、軍馬や兵隊に踏み固められた土地だった。機械がない開拓当初は、鍬(くわ)による手作業で苦労して開墾が行われた。加えて、土壌は強酸性で栄養分が乏しく、水利条件も悪かった。

入植者は、48年に天伯原開拓農協を設立して解決にあたった。営農は、麦・サツマイモの栽培から、野菜作へと移行していった。68年に豊川用水が完成し、通水により水不足は解消された。

現在、キャベツやトマトなど、露地や施設での野菜栽培が盛んである。

同町豊栄の天伯山神社の敷地内に、「土に挑む男」の像が建っている。同開拓農協の組合員一同が、開拓30周年を記念して、7512月に建立したもの。鍬で荒野を切り開いた開拓者の姿を表している。台座の裏面には、碑文と入植者の氏名が刻まれている。

碑文の中段には、「昭和二十年十一月五日旧陸軍演習場であったこの天伯原の荒野に、自作農創設の夢を抱いた弐百余戸の開拓者が入植した 爾来風雪三十年 無から有を生み出す開拓農民の筆舌につくせぬ労苦は、汗と涙の尊い軌跡と足らざるを補い合う協同の成果に 美しい同志愛の事績を遺し、あらゆる艱難辛苦に耐えた者のみが知る喜びと緑なす沃野によって報われた」と記されている。

同神社の境内には「豊橋市開拓記念館」もある。開拓35周年を記念して8010月に建設された。館内には、開拓当時の農耕具や生活用具、写真などが収められている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2022年7月 愛知・天伯原

天伯原(てんぱくばら)  23-201-

 

①調査日  令和3年4月19

②所在  豊橋市天伯町

緯度・経度:34.7039456911362,137.4161046898353

③地区の沿革  昭和2011月に解放された旧陸軍演習場に二百余戸が入植した。

④設置年月日  昭和5012

⑤設置者  旧天伯原開拓農業協同組合  組合員

⑥碑文(表面)  土に挑む男

⑦碑文(裏面)  昭和二十年八月十五日、長く苦しかった太平洋戦争が終わったとき、国土と人心は荒れ果て、食糧不足もまたその極みにあった よって 国は食糧増産と人口収容力の拡大をめざし、緊急開拓事業実施要領を施行した / かくして、昭和二十年十一月五日旧陸軍演習場であったこの天伯原の荒野に、自作農創設の夢を抱いた弐百余戸の開拓者が入植した/爾来風雪三十年 無から有を生み出す開拓農民の筆舌につくせぬ苦労は、汗と涙の尊い軌跡と足らざるを補い合う協同の成果に 美しい同志愛の事績を遺し、あらゆる艱難辛苦に耐えた者のみが知る喜びと縁なす沃野によって報われた / この不撓不屈の開拓精神と強固な団結の隂にいまは亡き三十数名の先人の遺風も忘れてはならない / 我々はここに開拓三十年を記念して、その由来を後世に伝えるためこの像を建てる

昭和五十年十二月吉日

  旧天伯原開拓農業協同組合組合員一同  126名の氏名

⑧現在の状況  天白山神社内で管理されている。

愛知県

岩西

岩西  23-201-

 

①調査日  令和3年4月19

②所在  豊橋市西幸町

③地区の沿革  軍用地跡に170戸が入植した。

④設置年月日  昭和4012

⑤設置者  岩西開拓農業協同組合

⑥碑文(表面)  開拓記念碑

    愛知県知事 桑原 幹根 書

顧みれば昭和二十年日本の重要都市は敵機の爆撃に依り灰燼と化し五月十四日遂に名古屋城をも失い翌六月二十日豊橋の大空襲にて駅を始め市街地の大部分が焦土と化し八月六日広島九日長崎に落とされた原子爆弾と共に遂に来た運命の八月十五日敗戦の詔勅が発せられ国情の急変に人々は心の拠り処を失い不安と動揺にただ混とんとした日日に陥り食糧の不足其の極に達し海外よりの引揚者復員軍人失業者の帰農対策が図られ農地開発法の制定と共に戦後不要となった軍用地の開放により祖国復興の重要なる施策の一環として農地開拓が時代の脚光を浴びる様になった。当時北設楽那豊根村の分村計画の移住者と現地軍人軍属の残留者により十月二十日東明集農組合を結成し開拓の第一歩を踏みだし翌月地元戦災者を加へ岩西開拓団と改め団員一七〇名となった。

当初は小松小笹の強酸性土壌と各所に散兵隊が散在し血と汗による苦闘も人力開墾なるが故に成果は遅々として進まず貧苦の中にも翌二十一年四月個々に土地仮配分と応急家屋が建ち歳月と共に耕地が拓かれ着々開拓の成果を揚げ昭和二十三年五月農業協同組合法制定により岩西開拓農業協同組合を設立組合員数一六五名地区総面積一八〇町歩にて発足続いて東西幸町設定御幸神社建立と村造りを進め二十四年二月一日土地の売渡しを受け自作農となり組合の最大事業として土壌改良十ヶ年計画を実施し貧困とあらゆる苦難に耐えそのもてる一切の力を尽し幾多の変遷を経て三十八年待望の豊川陽水の導入に成功した。  

翌年三月農地局長表彰の栄に浴し年と共に数々の受賞の栄を担う中でも朝日農業賞愛知県代表に選ばれ同志一致団結終戦以来培って来た不屈の開拓精神と貴重な体験を生かし近代的開拓農業に向って邁進することを開拓二十周年を記念して子々孫々に伝え之を建てる。

昭和四十年十二月吉日建立

岩西開拓農業協同組合員一同

⑦碑文(裏面)  開拓者165名氏名

岩西開拓農業協同組合    理事11名 職員11名の氏名

⑧現在の状況  御幸神社境内で管理されている。

愛知県

二川

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二川(ふたがわ)  23-201-

 

①調査日 令和3年4月19

②所在 豊橋市豊栄町東2-1

緯度・経度:34.6989773439348,137.4383981740662

③地区の沿革 昭和2011月解放された陸軍用地跡に130名余りが二川開拓団として入植。

④設置年月日 平成7年10

⑤設置者 入植者

⑥碑文(表面) 開拓

⑦碑文(裏面) 碑文 戦後間もない昭和二十年十一月それぞれに故郷を去り、国策により同志百三十余名は陸軍用地跡に二川開拓団として入植 不毛の原野を切り開く為 幾多の苦難の道あれど互いに励まし合い今日に至る この地域の更なる繁栄を願い ここに入植五十周年を記念して此の碑を建てる

平成七年十月吉日

(下段に記念碑寄付者126名氏名)

⑧現在の状況 葦ケ原明神宮内で管理されている。

愛知県

大清水

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大清水  23-201-

 

①調査日  令和3年4月19

②所在  豊橋市南大清水

緯度・経度:34.6968698025638,137.364754942293

③地区の沿革  昭和2011月軍用地が解放され、141戸が入植した。

④設置年月日  平成1012

⑤設置者  大清水農業協同組合 組合員

⑥碑文(表面)  開拓記念碑

⑦碑文(裏面)  昭和五十年建立の記念碑の名列 137名氏名  平成十年建立

副碑(表面)  一九四五年(昭和二十年)八月十 五日太平洋戦争が終結した 国土は焦土と化し混乱と食糧不足が深刻になり政府は緊急開拓事業実施要領を施行し公募が行われた 十一月五日軍用地であった大清水の荒野に自作農創設に夢と不安を抱いて 当初百四十一戸が入植した 農業経験のない入植者は この時から 筆舌では尽くせない苦難が始まった 血のにじむ努力が次第に赤土の荒野から緑の大地へ広がり青年達による文化活動が芽生え 映画劇場 開拓際などが催されるようになり 学校 神社 墓地などの建設も進み 町としての機能が形成された しかも危機的なことも幾度かあった 農協の火災台風災害なども英知と団結で乗り切り今日に至っている 先人の努力は未来に生きる人達に勇気と感動を与え歴史に残るであろう 我々は大清水開拓の由来を後世に伝え平和と民主主義を希求しこの碑を建設する

一九九八年十二月

大清水農業協同組合 組合員一同

⑧現在の状況 大清水神社内で管理されている。

愛知県

碧南開拓

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碧南開拓  23-209-

 

①調査日  令和6年12月3日

②所在  愛知県碧南市川口町1丁目

緯度・経度:34.8407954812724,136.9794675084981

③地区の沿革  碑文に記載

④設置年月日  平成7年11月吉日建立

⑤設置者  碧南開拓記念碑

建設実行委員長他21名

⑥碑文(表面)  碧南開拓記念碑

四十年の歩み

碧南干拓事業は、終戦直後、当時の深刻な食糧難打開のため大浜町、棚尾町、旭村の各町村が干拓地造成の期成同盟会を結成し、運動を展開したのが始まりである。

まず、昭和二十一年十月、耕地造成による食糧増産と自作農創設により、農業経営の安定を図る目的で、緊急開拓政策として、農林省直轄で、碧南干拓地造成工事が開始された。

昭和二十八年九月の台風十三号によって大きな被害を受けたにもかかわらず、昭和三十一年十月「碧南干拓」は竣工した。その間実に十か年の歳月を要した。

そして、昭和三十年四月と三十一年十月に、この地を新生活の場所と定め、百世帯が入植し営農の基盤造りに困難な作業を始めた。

それから四十年。昭和三十四年九月の伊勢湾台風による未曾有の大災害を始め、幾多の苦難をのり越え、緑豊かな川口町を築いた。

今年、入植四十周年の節目の年にあたり、全区民の発意により碧南市を始め、関係の方々、並びに地区民全員の協力により、碧南開拓四十周年を記念する碑を建立した。

ここに、開拓の歴史を永く後世に伝えることを祈念する。

昭和二十一年(1946)十月 農林省直轄事業として干拓造成工事が始まる

昭和二十八年(1953)九月 台風十三号により堤防など大きな被害を受ける

昭和二十九年(1954)五月 築堤工事最後の難工事であった潮止工事が成功する

昭和三十年(1955)三月 入植予定者は愛知県基地農場で入植訓練を受講

碧南開拓農業協同組合設立

昭和三十年(1955)四月 第一次入植者七十七世帯が現地入り、住宅建築を始める

昭和三十一年(1956)八月 干拓造成工事竣工 総面積百七十二ヘクタール

田三十ヘクタール 畑百五ヘクタール 宅地七ヘクタール

昭和三十一年(1956)十月 第二次入植者二十三世帯現地入り

 入植者計百世帯 愛知県 五十世帯 長野県 二十六世帯 山梨県 十四世帯 岐阜県 十世帯

昭和三十二年(1957)四月 行政区は旭地区に属し八区となる

昭和三十四年(1959)三月 農林省より第一次土地売渡し念書が交付される

昭和三十四年(1959)九月 伊勢湾台風襲来

九月二十六日 午後六時から午後十一時

堤防決壊 東側四百四十三メートル 西側二百六十七メートル 瞬間最大風速 六十一メートル 総雨量 百六十ミリメートル

昭和三十九年(1964)三月 碧南開拓農業協同組合を解散

 同年四月 碧南市農業協同組合に加入

平成五年(1993)四月 行政区が旭地区から大浜地区に変わる 

大浜地区(下区)川口町町内会となる

⑦碑文(裏面) 入植者102名の氏名、現住者95名の氏名、5社名が刻まれている。

⑧現在の状況  川口神社境内に建立

愛知県

高町

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高町  23-211-

 

①調査日  令和3年4月20

②所在 豊田市高町東山

緯度・経度:35.1358937153152,137.1825856950564

③地区の沿革  標高70100米の民有地で、強酸性のやせ地で湧水が乏しい旱魃常習地に軍需工場工員、戦災者、疎開者等20戸が入植した。

④設置年月日  平成20年3月

⑤設置者  高松自治区

⑥碑文(表面)  開拓碑

   豊田市長 鈴木 浩平 書

⑦副碑(表面)  碑文 高町の開拓は、昭和二十年十一月、国の施策に沿って二十戸九十余名が入植し、家族の助力も得ながら手開墾が始まった。しかし荒地での農作物の栽培は、収穫できるまでに相当の年月がかかり農作業は困難を極めた。また入植者も半数が入れ替わる中、果樹・酪農へと手を広げ苦労を重ねながら生活の基盤を築いていった。昭和四十八年その目的は達成され開拓農協は解散する。区創設六十周年を迎え往時の苦を偲ぶと共に区への功労に感謝を込めてここに碑を建立する。

平成二十年三月吉日  高町自治区

⑧現在の状況  高町区民会館敷地内で管理されている。

愛知県

明治

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明治  23-212-

 

①調査日 令和3年4月20

②所在 安城市橋目町宮東

緯度・経度:34.9853657916595,137.1156644542273  

③地区の沿革 岡崎海軍航空隊の跡地が解放され、13名の旧軍人が入植した。

④設置年月日 昭和30年3月

⑤設置者 入植者

⑥碑文(表面) 開拓記念

⑦碑文(裏面) 記念碑由来  此地は大東亜戦争に際し海軍航空隊の用地となり終戦後農林省の緊急開発事業として着工昭和二十九年二月を以って八十餘町歩の耕地を完成した記念碑は飛行場内にあった防空施設の一部を使用したもので開拓記念の為橋目丙小針柿碕尾崎宇頭茶屋の開拓関係者に依り之を建設した 

昭和三十年三月

⑧現在の状況 橋目霊園内で管理されている。

愛知県

「本地ヶ原開拓記念碑」 愛知県尾張旭市南新町

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「本地ヶ原開拓記念碑」

愛知県尾張旭市南新町

愛知県尾張旭市は尾張中部に位置し、北西部は名古屋市と接している。名古屋市の衛星都市として発展し、現在の人口は約8万3千人で、工業・商業が盛んである。国道363号線(瀬港線)沿いの本地ヶ原(ほんじがはら)地区には戦前、陸軍演習場があり、戦後、緊急開拓のための集団入植地となった。

1945(昭和20)年から63年にかけての本地ヶ原への総入植戸数は188戸、うち定着戸数は148戸。入植者は軍需工場等の工員60戸、軍人33戸、商人19戸、農家19戸などで、うち18戸は海外引揚者だった。48年に本地ヶ原開拓農協が発足した。

入植地は台地で水利が悪かった。土壌は強酸性だったため、入植初期は開墾とともに土壌改良が必要だった。開拓者は麦やサツマイモなどの畑作に励んだが、農業経験が浅かったこともあり、収穫は少なかった。

土壌改良資材の導入により、55年以降、10㌃当たり収量が既存農家並みとなった。野菜生産を増やし、特にスイカとハクサイは名古屋市などに出荷され、好評を博した。愛知用水が61年に通水し、水稲作も行われるようになった。

尾張旭市で唯一の集団農業地帯を形成していたが、後継者には他産業従事者が多かった。65年以降は住宅団地や工場などの建設により、農地転用が増加した。かつての農業地域の様相は次第に失われていった。

宅地や商業地としての開発が進み、現在、開拓地の面影はない。だが、開拓者の苦労や願いが忘れられないよう、本地ヶ原神社の鳥居の近くに開拓記念碑と開拓者慰霊碑が建立されている。記念碑は同開拓農協が66年に建立したもので、碑銘は「本地ヶ原開拓記念碑」。慰霊碑は02年、本地ヶ原連合実行組合によって建てられた。

記念碑の碑文の末尾には、「今 過ぎし日々を顧み 故人を偲び 無量の感懐なきを得ない ともあれ 相寄り 相援け合う 団結のみが最後の救いであったことを肝に銘じ 新たな意志を漲(みなぎ)らせ 開拓者一同の浄財を集めて ここに桑原愛知県知事の揮毫を得 この記念碑を建てる次第である」と記されている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2022年1月 愛知・本地ヶ原

本地ヶ原(ほんじがはら)  23-226-

 

①調査日  令和3年4月20

②所在  尾張旭市南新町中大田

緯度・経度:35.1979820463684,137.0317845968827

③地区の沿革  昭和2011月に 軍用地が解放され、軍需工場の工員、軍事、復員者等150世帯が入植。入植地は台地で水利が悪く、土壌は強酸性だったため、土壌改良が必要だった。

④設置年月日  昭和411120

⑤設置者  本地ヶ原開拓農業協同組合

⑥碑文(表面)  本地ヶ原開拓記念碑       愛知県知事 桑原 幹根 書

⑦碑文(裏面)  その日 昭和二十年十一月二十日 敗戦という未曽有の衝撃を受け 打ちのめされた悲運の中から 志を祖国再建 国土開発に樹て 全国各地よりこの地 本地ヶ原に集るもの百五十世帯 旧軍人あり 戦災者 復員者 離職者等 多彩な顔ぶれをもって緊急開拓措置法に基づき 不退転の決意を胸に 最初の鍬を打ち下したのである 爾来 雨に泣き風に苦しみ営々と力めてやまず 星霜二十年 田は稔り畑は豊かに輝き 昔の面影は何處にも見當らない 然し乍ら この間 伊勢湾台風を初め 自然の猛威に耐え 危機の数々を幾度か潜り抜け 曲折はあったものゝ 問題は悉く解決を告げた 今 過ぎし日々を顧み 故人を偲び 無量の感懐なきを得ない ともあれ相寄り 相援け合う 団結のみが最後の救いであつたことを肝に銘じ 新たな意志を漲らせ 開拓者一同の浄財を集めて こゝに桑原愛知県知事の揮毫を得てこの記念碑を建てる次第である / 昭和四十一年十一月二十日建立  本地ヶ原開拓農業協同組合  下段に入植者氏名

⑧現在の状況  本地ケ原神社前で管理されている。

愛知県

伊良湖

伊良湖(いらご)  23-231-

 

①調査日 令和3年4月19

②所在 田原市西山町 

③地区の沿革 低地の原野、砂丘地に150戸が入植した。

④設置年月日 昭和4811

⑤設置者 不明

⑥碑文(表面) 開拓記念碑

愛知県知事 桑原 幹根 書

⑦碑文(裏面)  開拓者名簿 入植者氏名多数

昭和四十八年十一月建立

⑧現在の状況 西山公民館地内で管理されている。

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