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開拓記念碑調査事業

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中部地方

長野県

広瀬地区

アクセス

広瀬地区  20-305-

 

①調査日  平成30年5月30

②所在  南佐久郡南牧村

緯度・経度:35.94717790887139,138.4501718563906

③地区の沿革  昭和46年国有原野80haを借受け、八ヶ岳連峰裾野を開拓。

④設置年月日  昭和5411

⑤設置者  広瀬八ヶ岳開拓組合

⑥碑文(表面)  開拓記念碑

衆議院議員 ●●●●

⑦副碑(表面) 碑文 広瀬部落は文治年間以来の既存農家にして米穀養蚕馬産地として生計をたてし世代の推移に伴い大東亜戦争後は、高原野菜栽培経営に移行、国の八ヶ岳高原野菜指定産地に期待をかけこれに全力投入せしも狭隘の耕地により、自立経営は困難に到り、村当局もいたく心痛され、近代化農業経営樹立の方途を規模拡大に求め開拓を決意す、爾来先輩諸兄及び林野庁はじめ関係官庁等多くの人々のご理解と御尽力により念願叶い此処八ヶ岳連峰の裾野に新天地を開拓するため我等同志一同闘魂にもえ、万難を排して完成することを誓いあえり、昭和四十六年営林署より八ヶ岳国有地六十六林班、八十ヘクタールの原野を借受け、県営農地開発事業として当初総工費三億二千万円五ヶ年計画で発足せしが、国の高度成長政策は一変し抑制政策移行のため国県陳情数十回に及びしが不況の風は冷たく事業の遅延やむなきに到る、事業の進展は厳しく、昭和五十二年漸くにして開墾面工事終了、昭和五十四年防除用水工事ほか残工事終了、総工費四億五千五百六十万円の巨費を投入 念願の土地払下げ確定し続いて三月二十七日個人売買登記完了此の額約二億円 我等組合員五十三名、団結の念厚く幾多の困難を克服して初志貫徹、立派に成就せり、ここに工事竣工を記念し、永く後世に伝えるものなり

昭和五十四年十一月吉日 

広瀬八ヶ岳開拓組合

⑧現在の状況  高原の畑の一角で管理されている。

長野県

南牧村開拓

アクセス

南牧村(みなみまきむら)開拓  20-305-

 

①調査日 令和6年1015

②所在 長野県南佐久郡南牧村

緯度・経度:35.9865729011113,138.4857029234027

③地区の沿革 昭和231122日、三地区より選考された入植者及び広瀬開拓地区の入植者を含め同志52名により南牧村開拓農業協同組合を結成。

④設置年月日  平成12年6月吉日 建立

⑤設置者  南牧村農業協同組合

⑥碑文(表面)  南牧村開拓農業協同組合  開拓記念碑  長野県知事 吉村午良 書

⑦碑文(裏面) 南牧村開拓農業協同組合は昭和二十年十一月九日緊急開拓事業実施要領に基く国の開拓政策により敗戦復興の為め混迷と不安の中で食糧の確保と自作農創設の為め野辺山原の開拓計画が作定され野辺山の(二)地区と定められ旧軍用地内(海ノ口、板橋、樋沢)地域の開拓事業は南牧村緊急開拓組合が推進となり入植者並に地本増反者により開拓が行はれた 昭和二十三年十一月二十二日三地区より選考された入植者及び広瀬開拓地区の入植者を含め同志五十二名により南牧村開拓農業協同組合を結成し大東亜戦争終戦直後の極めて混乱窮亡の世相の中にあつて暁の荒野に鍬を振り幾多の筆舌つくし難い艱難辛苦と戦い苦節五十有余経た その結果今日の高原野菜産地の発展に又酪農の先達と組合員の生活の向に些かつとめ得たと確信し組合員の使命を終結したのでここに解散することにした よって住時を偲び同志の健闘を永久に残さんと碑に刻し開拓の証とする

平成十二年六月吉日

(※碑文の下段に歴代組合長、建設委員の氏名が刻印されている。)

⑧現在の状況  国道141号線(野辺山高原サラダ街道)のJA長野八ヶ岳南牧農機センター近くの丁字路沿いに建立。

長野県

長野県軽井沢町・大日向開拓地

アクセス

「開拓之礎」長野県軽井沢町・大日向開拓地
長野県の東部、群馬県境に位置する北佐久郡軽井沢町は標高900~1000㍍の高原の町で避暑地、別荘地として有名。同町の大日向(おおひなた)開拓地は、南佐久郡の旧・大日向村(現・佐久穂町大字大日向)から旧・満州(現・中国東北部)に開拓団として渡り、戦後に引き揚げた人たちが入植した地区である。
満州移民政策で、町村ごとに農民を送り出す「分村移民」が推進された。大日向村は1937(昭和12)年、分村移民を計画。約220戸約680人が満州吉林省に渡り、第二の大日向村をつくった。全国初の分村だった。しかし、45年の敗戦で、村民の生活は一変。逃避、引き揚げ中に食糧不足や寒さ、疫病などで多くの犠牲者が出た。
苦難を乗り越えて46年に帰国した人たちだったが、大日向村に住む場所はなかった。そのため、65戸168人は47年、浅間山麓の軽井沢町に入植。入植地を再び「大日向」と名付け、開拓を始めた。土地は払下げの国有林で、人力による森林伐採、一鍬一鍬の開墾は困難を極めた。 火山灰の砂礫が多い高冷地で、強酸性の土壌だった。肥料不足もあり、作物の生育は良くなかった。その上、冷害、霜害、浅間山噴火の被害など、農作物災害が多かった。開拓当初のジャガイモやソバの栽培から、酪農を取り入れ、やがては、キャベツやレタスなどの高原野菜の栽培へと変わっていった。他産業への転職も進んだ。
64(昭和39)年、大日向公民館の敷地の一角に、満州で没した374名と入植以来の15名の霊を祀る慰霊碑が建立された。碑銘は「開拓之礎」。裏面には、開拓遺歴と開拓団員名が刻まれている。開拓遺歴の末尾には、「三十九年九月一日皇太子殿下御一家の御来啓を賜る 団員総意により入植以来十五名の霊を合せて茲に謹んで慰霊碑の建立をなす」と記されている。
なお、同公民館には、「大日向開拓記念館」が併設されており、入植当時の農機具などを展示している。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2020年9月 長野県軽井沢町・大日向開拓地

大日向  20-321-

 

①調査日  平成30年5月30

②所在  北佐久郡軽井沢町

緯度・経度:36.3556689018798,138.5590447112109

③地区の沿革  満洲移民政策で「分村移民」し吉林省で大日向を作り、昭和21年に引揚げ大日向村に帰村するも、住む場所はなく、22年2月65168名が浅間山麓の国有林に入植した。

④設置年月日  昭和3911月3日

⑤設置者  入植者

⑥碑文(表面)  開拓之礎     ●●●●書

⑦碑文(裏面)  開拓遺歴 南佐久郡大日向村は経済更生計画を樹立し昭和十二年村長浅川武磨組合長堀川清躬をして分村計画をたて満州国吉林省舒蘭県四家房の地へ団長堀川清躬先達となり日本最初の分村をなす入植者二百十六戸六百七十四名水田一千町歩畑千五百町歩山林千五百町歩を保有す同十六年開拓は発展なすも大東亜戦争は愈々烈列となり同二十年八月十五日終戦の宣勅は下る世相は一変し敗戦の民となる匪襲により活路なく難民極寒悪病の鬦ふ新京にて団長堀川清躬組合長小須田兵庫校長中沢勇三以下三百七十四名の犠牲者を出す堀川源雄指揮者となり難民生活の指導なす同二十一年九月コロ島より母村に帰る昭和二十二年二月十一日堀川源雄団長となり現在地に六十五戸百六十八名の入植をなす國有地の開発は進み同二十二年十月七日天皇陛下の御巡幸を賜り浅間おろしつよき麓にかへりきていそしむ田人たふとくもあるか の御製を賜る入植十八年の歳月は流れ同三十八年横井今朝一組合長となり開拓は完成す同三十九年九月一日皇太子殿下御一家の御来啓を賜る団員総意により入植以来十五名の霊を合せて茲に謹んで慰霊碑の建立をなす

  昭和三十九年十一月三日

⑧現在の状況  地域内に建立され、管理されている。

長野県

一の宮開拓

アクセス

一の宮開拓  20-383-

 

①調査日  令和6年1016

②所在 長野県上伊那郡 箕輪町中箕輪16206

緯度・経度:35.9141954585464,137.9451566428252

③地区の沿革 入植者は35名と思われる。昭和27年に組合が解散すると同時に公民館、碑が建てられた。

④設置年月日 昭和47年3月31日建立

⑤設置者 一の宮開拓農業協同組合

⑥碑文(表面) 開拓の碑   箕輪町長 ●●●●書

⑦碑文(裏面) 昭和21年海外からの引揚者戦災者復員者等同志の●●組合を設立して松林の跡地の野に入植幾多の苦難を乗り越えて此の地を拓く

爾来27年今組合が解散をし開拓の歴史を閉す期に臨み公民館の建設に併せて此の碑を建てて記念とする

昭和47年3月31日

一の宮開拓農業協同組合

(※下段に、35名の氏名が刻まれている)

⑧現在の状況 「木下一の宮地区介護予防拠点施設」の敷地に建立。隣には一の宮公園、一の宮グランドがある。周辺には収穫を待つキャベツ畑が広がっていた。

長野県

大芝原開拓

アクセス

大芝原開拓  20-385-

 

①調査日  令和6年1016

②所在  長野県上伊那郡南箕輪村

緯度・経度:35.8819584060913,137.951772012491

③地区の沿革  昭和21年5月、29戸の入植者により組合が設立。

④設置年月日  昭和47年3月22日 建立

⑤設置者  大芝原開拓農業協同組合

⑥碑文(表面)  拓魂

⑦碑文(裏面) 開拓記念碑

主文 斯の開拓地は以前村有林として松桧等の大樹が茂る村の宝庫であった 昭和二十年大東亜戦争直後の食糧難時代に農家の二・三男対策と食糧増産のため村有林解放運動を起こせしが村内の一部に強力な反対が出た当時清水国人氏が会長の農民会が母体となり組合を結成し協力な解放運動の結果効を奏し国の緊急開拓認定と相俟って開拓される事となった 時に昭和二十一年五月五日先遣隊増産隊引揚者等の入植者により組合が組織此の地を拓く 開拓建設は水の確保がその成否の鍵であった

昭和二十二年三月大泉新田地籍の横井戸工事に始まり大泉所四澤水源の●●完成その間実に十有余年の歳月を費やす

開拓二十有余年事成り一般農政移行に伴い組合解散に当たり主なる事業の概略と組合員の名を刻み此の碑を建立して永く後世に遺すものなり

主なる事業の概略

総面積 五十八町三反 耕地面積 四十八町六反

入植年度 昭和二十一年 入植戸数 二十九戸

大泉新田地籍●井戸工事着工 昭和二十二年

電灯工事 昭和二十四年 神社建立 昭和二十七年

成功検査 昭和三十年 公民館建設 昭和三十三年

大泉所四沢水源●●●工事完了 昭和三十三年

村営水道導入 昭和四十一年

昭和四十七年三月二十二日     大芝原開拓農業協同組合

⑧現在の状況  大芝公民館の敷地内に建立、管理されている。

長野県

「開拓記念碑」 長野県松川町・増野地区

「開拓記念碑」

長野県松川町・増野地区

長野県南部に位置する下伊那郡(しもいなぐん)の満州(現・中国東北部)への開拓移民は一万有余人に達し、全国で最も数が多い郡だった(「拓友」1989年発刊)。終戦後、大勢の引揚者を受け入れるには、郷土の既存の農耕地は狭かった。そのため、引揚者は緊急開拓事業により、再び未墾の原野に立ち向かわざるを得なかった。

標高700~850mの旧・大島村西山の村有林地と一部民有地の開放により、46(昭和21)年、満州引揚者を中心に25戸が入植。続いて、旧・山吹村増野(ましの)原(はら)の民有林と一部村有地の開放により、47年に30戸、48年に10戸、計40戸が入植した。両地区はそれぞれ、西山開拓農協、増野原開拓農協を設立。入植者は高冷地での様々な悪条件にも屈せず、開拓に精進した。

両農協が近接し、かつ、経営形態が類似していること等から、55年、合併に踏み切り、新たに里見開拓農協を設立。経営の協同化を図り、生産力の増進等を目指した。新農協の主体事業は果樹栽培だった。病害虫防除の必要性から、各地区に共同防除施設を導入したほか、共同選果場を設置して、果実の有利販売に努めた。

現・松川町大島の「増野自治会会所」の敷地内に記念碑がある。6511月に建立されたもので、碑銘は「開拓記念碑」。裏面には、碑文と入植者の氏名が刻まれている。碑文は「昭和二十二年緊急開拓地として増野原五十七町六反余の原野の開放を受け引揚者等三十戸入植 ここに全国開拓二十周年に当り記念碑を建立する」と記されている。

他の戦後開拓地では、厳しい環境条件等により、多くの離農者が出た。増野地区は、入植者が定着して果樹栽培を継続するなど、戦後開拓の成功例として知られている。

記念碑付近の広大な斜面に多くのリンゴ畑が点在し、眼下には南アルプス連峰が一望できる。近隣には、観光者向けのワイナリーがある。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2022年11月 長野・増野

増野地区 「開拓記念碑」   20-402-1

 

①調査日  2018年5月30

②所在  伊那郡松川町

③地区の沿革  昭和23年原野が解放され引揚者ら36戸が入植した。

④設置年月日  昭和4011

⑤設置者  入植者

⑥碑名  開拓碑

⑦碑文(表面)  開拓記念碑 長野県知事 西沢権一郎書

⑧碑文(裏面)  昭和二十三年緊急開拓地として増野原五十七町六反余の原野の開放を受け引揚者等三十六戸入植

ここに全国開拓二十周年当り記念碑を建立す

        昭和四十年十一月   入植者氏名

⑨現在の状況  地域の植栽の中で管理されている。 

長野県

神戸原開拓

アクセス

神戸原開拓  20-482-

 

①調査日 令和6年1016

②所在 長野県北安曇郡 松川村南神戸4361-60

緯度・経度:36.3941112225800,137.847852171766

③地区の沿革 碑文に記載

④設置年月日 昭和四十三年四月吉日建立

⑤設置者 信濃松川開拓農業協同組合

⑥碑文(表面) 開拓記念碑

国務大臣 増田甲子七書

⑦碑文(裏面) 昭和二十年十一月三日入植神戸原帰農組合ヲ結成 昭和二十三年十月三日開拓農業協同組合が改組 昭和三十三年六月十七日信濃松川開拓農業協同組合●●今日に至●●●●●●●●●。

入植者氏名(35名の氏名が刻まれている。)

昭和四十三年四月吉日建立

信濃松川開拓農業協同組合

⑧現在の状況 南神戸会館敷地内に建立

長野県

「開拓の碑」 長野県高山村・福井原地区

アクセス

「開拓の碑」

長野県高山村・福井原地区

長野県では戦後、ほぼ全域で緊急開拓事業が行われた。1945(昭和20)年から64年にかけて、490地区に6219戸が入植した(「開拓二十年史」66年発行)。

県の北東に位置し、群馬県と接する上高井郡高山村は人口が約6400人で、果樹を中心とした農業と温泉などの観光の村。戦前、標高750~800㍍の高冷地にある福井原地区は未開墾地だったが、村では唯一の戦後開拓地となった。

46年5月、地元農家の二、三男や海外引揚者ら14戸が入植した。赤松の伐採跡地だった。地区内には飲料水がなく、1㌔ほど離れた水源から、竹をつなぎ合わせて何とか引水した。

入植当初は不自由な幕舎生活だった。入植者は山菜を主食として、一鍬一鍬開墾した。冬期間は、炭焼き、山仕事に従事した。同年7月から翌年5月にかけて、新しい仲間が入ってきたが、将来に見切りをつけて離農する者も多かった。

48年、入植者全員の住居が完成し、電気も導入された。49年、個人の土地配分について協議し、一戸当たり一町七反の区分けが決定。53年には簡易水道の工事が行われ、翌年完了し、飲料水の心配はなくなった。営農形態は、陸稲、大豆からバレイショ、野菜になり、さらに酪農主体へと変化していった。84年には畑五町歩の基盤整備と農道の舗装を行い、大切な農地の有効利用を図った。

開拓地の農道沿いに、開拓記念碑がある。入植者が93(平成5)年8月に建立したもので、碑銘は「開拓の碑」。裏面には、碑文と入植者及び福井原二世会の氏名が刻まれている。

碑文の末尾には、「未開の松林を切り拓き、次代の私たちに永遠の恵を与えてくれた先代の幾多の苦難と忍耐、汗と努力に心から敬意と感謝を表すとともに、二度と戦争をしない決意をこめ、ここに記念碑を建立して、その偉大な功績を後世に語り継ぐものである」と記されている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2021年9月 長野・福井原

福井原開拓  20-543-

 

①調査日  平成30年5月28

②所在  上高井郡高山村

緯度・経度:36.6634349806290,138.3917947216650

③地区の沿革  赤松伐採跡地に昭和2114名、22年に2名が入植

④設置年月日  平成5年8月

⑤設置者  入植者

⑥碑文(表面)  開拓の碑

   長野県知事 吉村午良 書

⑦碑文(裏面)  昭和二十年、第二次世界大戦後の混乱と不安の中で、食糧増産と自作農創設のために荒地や山林を切り拓き、全国各地で緊急開拓事業が行われた。

ここ福井原は、赤松伐採跡地に昭和二十一年に十四人、二十二年に二人が新しい生活を求めて入植し、開墾鍬による人力の開拓が行われた。青年達は一鍬一鍬に明日への希望を託して、まさに血と汗と涙の結晶の土地が生み出された。昭和二十三年には電機の導入、二十九年には簡易水道の工事が行われ、生活向上への努力がなされた。また、昭和五十九年には基盤整備と農道舗装が行われ、大切な農地の有効利用が図られている。

開拓が始められてから四十七年、この地も時代の変化とともに大きく変貌をとげたが、当時の開拓精神を受け継ぐ九世帯四十三人が現在もこの地を大切に守り発展させている。

未開の松林を切り拓き、次代の私たちに永遠の恵を与えてくれた先代の幾多の苦難と忍耐、汗と努力に心から経緯と感謝を表すとともに、二度と戦争をしない決意をこめ、ここに記念碑を建立して、その偉大な功績を後世に語り継ぐものである。

 一九九三年八月吉日 建之

  入植者氏名  福井原二世会氏名

⑧現在の状況  地区内に建立され管理されている。

岐阜県

上平

 岐阜県中津川市の上平(うわだいら)開拓は、県の南東部で東側は長野県と接している。標高が340mほどの丘陵地で、内陸性の気候となっている。

 この地は戦時中、日本陸軍実弾射撃演習地であったが、戦後に150世帯が入植した。

 ところが、1947年に米国駐留軍の演習地となってしまい、入植者達は各地に離散させられることとなってしまった。

 50年に米軍から日本政府に払下げとなり、ようやく本格的に開墾が行われるようになった。

 地元の二、三男や、引揚者など17名が入植し、開拓農協を設立した。

 酪農、果樹、水田、中小家畜など、様々な経営形態があり、皆が意欲的に取り組んでおり、安定した農家が多かった。

 78年に公民館敷地内に開拓碑が建てられた。碑には「この地に骨を埋める覚悟でこの荒野に鍬を振り、手開墾を始め道路新設、住宅建設、用水路工事等、食糧不足の中、克く困苦欠乏に耐えた苦難の道は、二十余年の精魂を傾けて、遂に所期の目的を達成し、7411月解散す」と刻まれている。

 都市化の波はこの開拓地にも押し寄せてきた。中央自動車道の開通により、名古屋都市圏と近い距離にあり、77年には中津川中核工業団地の計画が持ち上がった。

現在では17社が操業し、市の雇用と産業を支える役割を果たしている。

工業団地の隣には、野球場やテニスコートなど様々な施設を完備した中津川公園ができ、県民の憩いの場となっている。

また、以前は軍の演習地だったことを踏まえ、平和の尊さ、大切さを示すために「平和祈念コーナー」が設けられている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2026年6月 上平開拓

上平(うわだいら)  21-206-

 

①調査日  令和3年4月20

②所在  中津川市茄子川

③地区の沿革  昭和2510月に国有地に地元二、三男、引揚者等17名が入植した。

④設置年月日  昭和5312

⑤設置者  入植者

⑥碑文(表面)  上平開拓碑

当地は昭和二十年八月十五日終戦迄日本陸軍実弾射撃演習地であったが戦後国内食糧難と海外引揚者並びに戦災者を救済のため百五十世帯が仮入植し緊急開拓が始まり昭和二十二年八月十五日米国駐留軍の演習地となり已なく入植者は各地に離散した昭和二十五年二月米軍政部より日本政府に払い下げられた同年十月十五日地元二、三男を初め引揚者戦災者十七名が希望入植を認められ地名も上平と名付け開拓農業協同組合を設立し現地に骨を埋める覚悟でこの荒野に鍬を振り手開墾を初め道路新設、住宅建設、電気導入、根ノ上用水路工事、墓地、組合クラブ、建設等営農と食糧不足の中、克く困苦欠乏に耐えた苦難の道は二十余年の精魂を傾けて遂に所期の目的を達成し昭和四十九年十一月解散す

昭和五十三年十二月吉日

⑦碑文(裏面)  入植者17名氏名

 建設委員4名氏名

⑧現在の状況  地域内で管理されている。

岐阜県

蘭仙

アクセス

蘭仙(らんせん)  21-212-

 

①調査日  令和3年4月20

②所在  土岐市蘭仙

緯度・経度:35.312776339012,137.2761240753785

③地区の沿革  27名が入植した。

④設置年月日  昭和4810

⑤設置者  蘭仙開拓農業協同組合

⑥碑文(表面)  拓土乃光

⑦碑文(裏面)  蘭仙部落の由来 大東亜戦争終了後、志をおなじくする者二十七名、此の地に開拓者として入植。昭和二十三年五月五日、蘭仙開拓農業協同組合を結成、開拓に精進する。

二十五年に至る苦難の道を昭和四十七年十月一日同組合を解散する此々に、開拓当時の想いを組合員個々の氏名を刻み永遠の記念碑とする。

昭和四十八年十月建立

組合長、理事、監事、組合員氏名

⑧現在の状況 蘭仙研修センター地内で管理されている。

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