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開拓記念碑調査事業

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中部地方

富山県

福光開拓

アクセス

福光開拓  16-210-

 

①調査日  平成30年5月14

②所在  南砺市才川七

緯度・経度:36.5086665151459,136.8307878187364

③地区の沿革  地元の二、三男20戸が、解放された民有地に入植した。

④設置年月日  昭和34年8月

⑤設置者  記載なし(記念誌において福光開拓農業協同組合の記載あり)

⑥碑文(表面)  開墾紀念碑 松村謙三書

⑦碑文(横面)  昭和三十四年八月建之

⑧現在の状況  立野原地区の最奥部、農地の耕作はされているが人家に居住の気配はない。

石川県

石川県加賀市・新保

アクセス

開拓記念碑
石川県には、戦後の開拓事業で約1500戸が入植し、79の開拓農協が設立され、開墾と営農が行われた。
県西部の加賀市には、六つの開拓農協があった。航空自衛隊小松基地(前身は、戦時中に建設された「小松海軍航空基地」)が小松市にある。西隣が加賀市で、同基地に近い一(いっ)白(ぱく)町(まち)~新保(しんぼ)町(まち)の丘陵地は、パイロットを養成する「小松海軍航空隊」の広大な軍用地だった。その跡地を中心に、緊急開拓事業が実施された。
同地区には、二つの開拓地がある。

一白開拓地
入植者は、同航空隊の海軍飛行予科練習生(予科練生)が主体だった。終戦後、そのまま住み着き、開墾を始めた。1945(昭和20)~65年、23戸が入植。当初は、バレイショなどの畑作だった。60年、近郊の農家と共同で土地改良事業を実施し、翌年、水田の造成・かんがい用水施設の整備を終えた。

新保開拓地
45~49年、20戸が入植。土地改良事業で水田が造成された。水田地帯に、新保開拓農協(63年解散)が建立した記念碑がある=写真。碑銘は「開拓記念碑」で、碑文には「防風保安林ノ開拓に着手シ初メテ此地ニ水稲ノ植附ニ成功セリ」と記している。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2018年10月 石川・加賀市

新保開拓記念碑
①位 置 石川県加賀市新保町(36.375396, 136.368470)
②設置者 新保開拓農業協同組合
③設置日 昭和33年(碑文風化にため推定)
④碑文表 開拓記念碑
昭和○十年十一月新保○○防風保安林の開拓に着手し○和○九年六月初○て此の地に水稲の植付に成功せり
開拓面積田畑五十○○○○和○三年○○○○○成式を行い此の碑を建つ
新保開拓農業協同組合
⑤碑文裏 なし
⑥記念碑の現在の立地状況
田園地帯であるが、面積の大半がゴルフ場に開発されている。

福井県

池上・城ケ原

アクセス

池上・城ヶ原  18-210-

 

①調査日  平成30年9月20

②所在  坂井市

緯度・経度:36.238978259012,136.1918118772278

③地区の沿革  軍用地が解放され池上は増反、城ヶ原は入植者が開墾した。

④設置年月日  平成3年10

⑤設置者  福井県 三国池上土地改良区

⑥碑文(表面)  団体営畑地灌漑事業・県営圃場整備事業竣工記念碑

平成三年十月吉日建立

福井県、三国池上土地改良区

⑦碑文(副碑)  本地区は古くより緑深い森林地帯であったが、昭和十八年太平洋戦争のための陸軍飛行場として買収され、国庫総動員体制の下、学生、老若男女を問わず動員され、勤労奉仕が行われたところである。昭和二十年、終戦とともに食糧緊急確保のため、国策により池上(増反)城ヵ原(入植)両開拓農業協同組合が設立され、この荒地の開畑に辛酸を舐めてきた。

昭和三十六年、米増産のため、団体営土地改良事業を起し地下水利用の畑地灌漑事業を実施以来営々として水稲栽培を続けてきた。昭和六十二年、長年の深刻な用水不足の解消と圃場の大型化による営農近代化を図るべく県営圃場整備事業として起工されるに至った。用水は国営坂井北部開拓建設事業九頭竜川導水の給水を受け、その諸設備を完備した。総面積六六・七ヘクタール、総事業費六億一千八百万円である。かくして、激動と苦難の時代を乗り越えて農業経営の基盤を確立した。

ここに多年にわたりご指導ご協力を賜わった関係各位に感謝するとともに、地域の発展を祈念し、記念碑を建立して永く後世に伝えるものである。

平成三年十月吉日

福井県  三国池上土地改良区

⑧現在の状況  地区内で管理されている。

福井県

「開墾記念碑」 福井県大野市・塚原開拓地

「開墾記念碑」

福井県大野市・塚原開拓地

福井県東部の内陸部に位置し、石川県と岐阜県に接する大野市は日本有数の豪雪地帯で、人口は約3万1千人。総面積は8万7243㌶で、同県内の市町村の中では最も広く、その約85%を森林が占めている。戦前、同市富田地区(旧・大野郡富田村)の塚原区は広い原野だったが、戦後開拓事業で水田化された。

1945(昭和20)年11月、戦災者、引揚者、疎開者ら57戸、267名が塚原開拓地に入植した。入植地は標高200㍍で、土質は火山灰地で強酸性土壌だった。一戸当たりの面積は1町7反。入植者はその未墾地に、慣れぬ手で開拓の鍬を入れた。雑木林を切り開きながらの開墾は重労働だった。

開墾だけでは生活できないため、出稼ぎをする者が続出した。塚原開拓農協が県に陳情した結果、地区内の幹線道路や開拓水路の建設事業は、49年度から同開拓農協が請け負うこととなり、工事は開拓者が行った。

寒暖差が大きい内陸的な気候で、稲作には条件が良かったため、水田づくりにとりかかった。51年度以後の開拓水路は地区外にわたり、用水の問題は解決に向かった。しかし、開畑は手と鍬で行ったが、水田化は斜面を平面にする必要があり、容易なことではなかった。

開拓者と地元の増反者で「富田塚原土地改良区」を結成し、70余町歩の水田造成に着手。ブルドーザーなどの機械による造成を行い、55年度、7町余歩の開田に成功した。翌年度以降も順次、水田化が進められた。

現在、田畑が広がる農村地帯となっている。心安らぐ風景のなか、「富塚生活改善センター」の脇には開拓記念碑が建っている。碑銘は「開墾記念碑」。裏面の工程記録には、塚原第二開拓農協が6012月に建立したことが記されている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」

2022年2月 福井・塚原

塚原開拓地 「開墾記念碑」   18-205-1

 

①調査日  2018年9月19

②所在  大野市富田

③地区の沿革  昭和2011月、戦災者、引揚者、疎開者ら57戸、267名が塚原開拓地に入植した。入植地は標高200米で、土質は火山灰地で強酸性土壌だった。一戸当たりの面積は1町7反。

④設置年月日  昭和3512

⑤設置者  塚原第二開拓組合

⑥碑名  開拓碑

⑦碑文(表面)  開墾記念碑 通商産業大臣福田一書

⑧碑文(裏面)  工程記録

               起 工  昭和三十四年六月

        竣 工  仝 三十五年十二月

        完成反別 五十町歩

        施工主  塚原第二開拓組合

        施工者  大野市 山内五作

⑨現在の状況  富塚生活改善センターで管理されている。

福井県

福井県あわら市富津・富津開拓

私達のあしあとを
この悠久の大地に
福井県あわら市富津地区

福井県の北部、あわら市北潟・富津(とみつ)地区は石川県との境に位置し、日本海に面する標高50~70㍍の丘陵地帯。戦後開拓事業が行われたが、急傾斜地が多く、強酸性土壌で作付けが困難だった。
1945(昭和20)年11月、戦争被災者ら35戸が入植。北潟村(当時)の寺に分宿し、共同生活が始まった。金津町(同)に兵舎があり、その解体作業に従事した。材木を開拓地に運搬して、仮の共同住居「三角小屋」を建てた。
割り当てられた入植地に、開墾の一鍬一鍬を打ち込んだ。最初はジャガイモを作付けしたが、収穫量は少なかった。電灯架設工事に従事し、48年に完了。だが、同年6月、大地震が同県を中心に北陸を襲った(福井地震と命名)。開拓者たちは、復旧作業と開墾作業を進め、同年10月には富津開拓農協を結成した。
スイカやダイコン、茶などを栽培し、土壌に適した作物を模索した。やがて、サツマイモ栽培に集約化を図った。幾多の苦労を乗り越え、ブランド化に成功した「とみつ金時」は名産品となっている。
富津集落センター内に開拓記念碑がある。入植35周年を記念して81年に建立されたもので、「私達のあしあとをこの悠久の大地に」と刻まれている。傍らの碑銘板には、開拓の苦難が記されている。「地震風害に耐え 干魃は続くも土を愛し土に生きるもの等しく協同の旗の下に一致団結し 悠久なる大地の限りなき恵みを受け 明日に向かって歩みはつづく」とあり、懸命にこらえた強い気持ちが伝わってくる。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2019年4月 福井・冨津

・福井県あわら市富津:富津開拓
「私達のあしあとをこの悠久の大地に」 富津入植三十五周年記念
昭和56年11月1日建立 富津区
碑文
昭和二十年十一月南方眼下に湖を望む国有地七十余町歩の原野に三十五戸が開拓の鍬を打ち込み私たちの郷土は誕生した。小屋を結んで越冬した宅地を造り道路を開き、炎暑吹雪を衝(つ)き朝月夜星の開墾も自給への道遠きを嘆く。
電灯工事の完成で石油ランプに別れを惜しむ暇なく、共同作業場、集会所、大山神社の神殿建立と村造りは進む。
漬物加工、コナゴ漁に夢を託するも運営の困難さは言語に絶し、技未熟も加えて不成功に終わる。入植以来渇望久しい上水道の建設成り、谷川よりの水汲の労苦から解放され人人は歓聲をあげて喜ぶ。
ここに自らの手で体得した経験を蔬菜園芸に求め、時代の進展に即応した機械化営農が導入され農家経営に潤いをもたらす。
実に二十余年の歳月は流れる。地震風害に耐え干魃は続くも土を愛し土に生きるもの等しく協同の旗の下に一致団結し悠久大地なる限りなき恵みを受け明日に向かって歩みはつづく。
斯くして起伏に富んだ畑地は丘陵地開発にて、全形容を改め松林の原野は昔日の面影もなく永住の目的を達成した。ここに富津開拓農協の業務と使命は終わる。よく三十五年の風雪に堪えてその礎は築かれ、入植初代の人々の辛苦を偲び子々孫々の繁栄を願って、ここに記念碑を建立する。
昭和五十六年十一月一日 富津区
(注:句読点は協会で付与)

山梨県

柳平開拓

アクセス

柳平(やなぎだいら)開拓  19-205-

 

①調査日  令和4年7月22

②所在  山梨市牧丘町

緯度・経度:35.8104624403693,138.6548121737342

③地区の沿革  昭和21年8月満洲引揚者が標高千五百米の地に12戸が入植した。

④設置年月日  平成10年8月1日

⑤設置者  若月雅人

⑥碑文(表面)  農魂碑

⑦副碑(表面)  開拓の唄 

一、空は青空 みどりの野辺に ひらく大地の 共かせぎ みかわすひとみ ほほえむ二人 あ々柳平 第二の故郷

二、坊や背負うて 野山に立てば 可愛いや 子牛の子守歌 みかわすひとみ ほほえむ二人 あ々柳平 希望は躍るよ

三、くわを持つ手に 夕日が映えて 遠く恵林寺の かねがなる  みかわすひとみ ほほえむ二人 あ々柳平 土の香なつかし

副碑(裏面)  讃  吾等満蒙開拓の大志を抱き、渡満せるも大東亜戦と共に消え去り、昭和二十一年帰国し此の柳平の地を第二の故郷として、同年八月入植し同志と共に標高千五百米の、開拓不能を克服し、安住の地たらんと当初より十二戸入植せるも、現在四戸となり五十年の歳月流れ自給自足の営農より、焼山林道開通と共に酪農に切替えSCIの協力などに依り、昭和四十九年度日本朝日農業賞共同体山梨県代表に、又昭和五十一年にはNHK日本農業賞共同体山梨県代表に選ばれるなど、栄誉に報れ感激一入であり五十年が過ぎた。

突然安住の地●日本全国水の尊さとなり、琴川ダム建設が軌道に乗り、流域市町村の水源として、柳平開拓地は変貌する外なく琴川ダムと共に、活きて行くことになる。表記の唄は大陸開拓からヒントを得たもの    平成十年八月一日

若月雅人 九十三才建立

⑧現在の状況  笛川小学校柳沢分校横に建立、管理されている。

山梨県

山梨県北杜市・井出原開拓地

アクセス

山梨県北杜市・井出原開拓地

「開拓之碑」
山梨県には戦後3500戸以上が入植したが、高冷地が多く、厳しい気象環境下だったので、定着率は低かった。最も入植者が多かったのは、県北西部の長野県境の北杜市(旧・北巨摩(きたこま)郡)の約1300戸。うち、八ヶ岳南麓に位置する井出原開拓地は、標高800~1200㍍の農用地としては不適格な不毛の未開地だった。
1945(昭和20)年から、引揚者・戦災者など約130戸が入植した。悪条件ばかりで開拓は困難を極めたが、入植者は助け合って第二の故郷の建設に取り組んだ。入植地区で各農協を構成し、石堂開拓農協や安都玉開拓農協など7つあったが、58年に合併して井出原開拓農協を結成。農畜産物の共販態勢の確立などを目指した。
冷災害に見舞われたことはしばしばで、経営状況が悪化した。道路の整備が開拓地の発展を促した。開拓者の強い団結と工夫により、高冷地農業の成果が上がるようになった。現在、レタスなどの高原野菜の栽培が盛んとなり、山岳・高原の観光地、保養地としても発展している。
同市大泉町(旧・大泉村)の石堂公民館の敷地内に石堂開拓の記念碑がある。石堂共有財産区が90年に建立したもので、碑銘は「開拓之碑」。側の碑銘板には「一世代の人々は厳しい自然条件や農業経験もなく又農機具も不備ななかで血の滲む様な努力により開墾を続けた 時の需要に応じ穀物酪農蔬菜栽培を行う傍ら農閑期には出稼ぎにより生計を立てた」と記されている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2019年5月 山梨・井出原

石堂(いしどう)  19-209-

 

①調査日  平成30年5月30

②所在  北杜市大泉町

緯度・経度:35.8776263817511,138.4099039129965

③地区の沿革  標高8百から千2百米の八ヶ岳南麓の未開地に引揚者、戦災者等130戸が入植。地域に石堂、安都等7つの開拓農協があったが、昭和33年合併し井出原開拓農協を結成した。

④設置年月日  平成2年11

⑤設置者  石堂共有財産区長

⑥碑文(表面)  開拓之碑

⑦副碑(表面)  開拓のあゆみ 第二次世界大戦で東京始め各都市は 激しい空襲により焦土と化し 食糧事情も悪化した終戦間もなく国の開拓事業の推進により此の地に入植にしたのである 一世代の人々は厳しい自然条件や農業経験もなく又農機具も不備ななかで 血の滲む様な努力により開墾を続けた 時の需要に応じ穀物酪農蔬菜栽培を行う傍ら農閑期には出稼により生計を立てた 経済情勢や社会環境の変化等に伴い当地も大きな変貌を遂げ現在に至る

昭和二十年九月   入植

昭和二十二年五月  電気導入

昭和二十三年四月   石堂開拓農業協同組合設立

昭和三十三年十月   石堂開拓農業協同組合

 井出原開拓農業協同組合へ統合

昭和三十七年十一月 簡易水道完成

昭和四十六年六月  石堂共有財産区設立

昭和四十七年七月  石堂公民館完成

平成二年十一月吉日 石堂共有財産区長建立

⑧現在の状況  石堂公民館地内で管理されている。

山梨県

山梨県小淵沢町大東豊区

アクセス

山梨県小淵沢町大東豊区 「開拓之碑」
山梨県の北西部、長野県境の北杜市小淵沢町は交通の要衝で、JR中央本線と小海線の分岐点となる駅や、中央自動車道のインターチェンジがある。高原の観光地として、多方面から観光客が訪れる。同町北部の大東豊(だいとうほう)区(旧・北巨摩郡小淵沢村)は戦後開拓地で、大富、東和、豊畑の3地区から成り立っている。
同県では、八ヶ岳・富士山山麓などが開拓地に指定された。小淵沢開拓地は八ヶ岳の中腹に位置し、標高約1千㍍と高い。終戦直後の1945(昭和20)年9月から、戦災者、復員軍人・引揚者ら約90戸270人という大所帯が入植した。広い山麓のうち、271町歩が配分された。 仮設の小屋での生活が始まった。農業の経験者が少なかったため、入植者は長時間の労働を強いられた。冬は北風で寒さが厳しく、開墾作業ができず、出稼ぎに行った。
ライ麦、雑穀、豆類などの作付けを行った。開拓初期は、自分たちが食べるのに精一杯で、販売して現金収入を得ることはできなかった。 48年、4つあった帰農組合が合併して、小淵沢開拓農協を設立。50年に電気が導入されたが、全戸には配電が行き渡らなかった。飲料水が乏しい地域でもあった。そのため、離農者が多かった。しかし、残った人たちは、新しい農村の建設に情熱を燃やして努力した。 53年、八ヶ岳山麓が集約酪農地域として国の指定を受け、多くの開拓農家が乳牛を飼育するようになった。同開拓農協は、穀物栽培から、酪農と高冷地野菜栽培への転換を推進した。
64年に3部落がまとまり、大東豊区が成立した。翌年、水道の整備で断水の心配が解消され、生活は安定に向かった。
大東豊公民館の敷地内に、開拓記念碑がある。79年10月に建立されたもので、碑銘は「開拓之碑」。裏面には、各帰農組合の入植日、入植者数、氏名が刻まれている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2020年10月 山梨県小淵沢町・大東豊区

大東豊(だいとうほう)  19-209-

 

①調査日  平成30年5月30

②所在  北杜市小淵沢町大東豊

緯度・経度:35.8866427559056,138.321682330924

③地区の沿革  八ヶ岳の中腹に位置し、標高約1千米、昭和20年9月から、戦災者、復員軍人、引揚者ら約90270人という大所帯が入植した。

④設置年月日  昭和541012

⑤設置者  入植者

⑥碑文(表面)  開拓之碑

    山梨県知事 望月 幸明 書

⑦碑文(裏面)

昭和二十 年九月十五日 大富帰農組合三十名入植

    年十一月七日 豊松 同 三十七名入植

仝 二十一年八月一日 東和 同 十七名入植 

仝   年       平井出同 五名入植

仝 二十四年四月一日 右四帰農組合が合併して小淵沢開拓農業協同組合を設立する

仝 四十九年十一月八日 開拓綜合調整事業に基いて整理解散を行い八ヶ岳農業協同組合帰属す

入植者氏名     昭和五十四年十月十二日 建之

⑧現在の状況  大東豊公民館地内で管理されている。

山梨県

平見城

アクセス

平見城(ひらみじょう)  19-210-

 

①調査日  令和4年7月22

②所在  甲斐市下芦沢

緯度・経度:35.7870077069725,138.5346152268057

③地区の沿革  昭和2010月満洲引揚者ら25戸が標高千米の地に入植した。 

④設置年月日  平成8年10

⑤設置者  平見城地区民

⑥碑文(表面)  共存共栄

⑦碑文(裏面) 平見城開拓五十週年に当たり入植当時御苦労された人々に敬意を表わすと共にこれから先平見城地区が平和で繁栄することを願い建立する。

平成八年十月吉日      平見城地区民一同

⑧現在の状況 平見城公民館前に建立、管理されている。

山梨県

山梨県・富士ケ嶺

アクセス

山梨県富士河口湖町の富士ヶ(ふじが)嶺(ね)開拓は、富士山の北西麓で本栖湖の南に位置する。標高880~1260mの起伏の多い高冷地だ。

46年から開拓が始まり、増反者や満州開拓からの引揚者など360戸が入植した。

当初は、見渡す限り一面萱(かや)の生い茂った荒地だった。中でも一番苦労したのが水の確保だった。開拓地内には若干の湧き水はあったものの、晴天が続けばたちまち枯渇してしまうほどの水量だった。地下水探査も行われたが、地下水は無いことが確認されてしまった。

雨水利用しか方策が無く、雨の日にはあらゆるものに雨水を溜め、一滴でも多く水の確保に努めた。

どうしても水は必要なので、水源を本栖湖に求め、水道が完成したのは65年で、20年に及ぶ水問題に終止符が打たれた。

入植当初から大根の生産は好調で、高冷地なので他産地より早く出荷ができて味も良いことから「富士ヶ嶺大根」は人気を博した。

48年に富士豊茂開拓農協が設立され、酸性土壌改良事業などが行われた。

しかし、度重なる冷害、風害により、入植者が150戸まで減少し、54年頃より営農形態が酪農に移行していった。

61年に、畜産主産地形成事業の実施計画が策定され、草地改良や乳牛導入事業などが農協主体で行われ、酪農発展の礎石となった。

78年には入植30周年を記念して巨大な「開拓之碑」が、96年には「五十周年記念」碑が、現クレイン農協富士豊茂支店の北側にある丘に建てられた。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2026年1月 山梨・富士ヶ嶺

富士ヶ嶺(ふじがね)  19-430-

 

①調査日  令和6年126

②所在  山梨県南都留郡富士河口湖町

緯度・経度:35.4165554334085,138.618598391573

③地区の沿革  碑文に記載あり

④設置年月日  昭和53年6月10

⑤設置者  富士豊茂開拓農業協同組合

  富士ヶ嶺区、30周年記念事業会の三者の建立

⑥碑文(表面)  開拓の碑

(高さ2.1m、横4.7m、将来の発展を祈る末広がりの扇型)

(副碑 表)  開拓の記

富士ヶ嶺はその昔稚武彦が通ったと云われる若彦治と戦国の武将が往来した中道路との間に位置し、面積1,596町歩、降雨量3,000粍、気温最高30度最低零下18度、標高最低880米最高1,260米、南西に傾斜した起伏の多い高冷地である。

昭和20年終戦により国は極度に逼迫した食糧対策のため特別措置として開拓政策を行うことになり、国、県有地の開放が行われた。一億只茫然自失の時に戦前軍用地であったこの地に第二の故郷、永住の地を求め県内の二三男、海外の引揚者及各地の戦災者が集い開拓の鍬が打ちおろされた。而し住むに家なく歩くに道なく、一面の丈なす芒ヶ原、飲む水すらない不毛と思われる地、幾千年も人を受け入れなかった自然は又開拓者にも厳しかった。

当時は耕種農業のため冷害風害に打ちのめされ昭和2829年には収穫皆無が続き、当初360戸の入植者はついに150戸に減少した。

而しこの地に踏み止まった人々は営農の転換を図り酪農を取り入れて成功を収めた。今や行政機関の特別の配慮と開拓者のたゆまざる努力により公共施設、生活基盤も逐年整備されつつあり、富士ヶ嶺の前途洵に洋々たるものがある。開拓30周年を迎え更に情操豊かな理想郷をめざして茲に開拓の碑を建立する。

⑦碑文(裏面)  昭和31325日土地売渡時の入植者であって、その後開拓者として8年以上居住した者の名前が刻まれている。

 (副碑) 昭和53331までに成人に達し、富士ヶ嶺に居住している者の名前が刻まれている。

⑧現在の状況  農協の北側、地区中央の小高い丘の上に建立されている。

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