中部地方
長野県
南ケ原開拓
南ヶ原(みなみがはら)開拓 20-208-1
①調査日 令和6年10月15日
②所在 長野県小諸市八満
緯度・経度:36.34379723502317,138.469724582375
③地区の沿革 昭和23年7月に26名が入植。酪農蔬菜を中心に営農。
④設置年月日 昭和55年10月吉日 建立
⑤設置者 不明
⑥碑文(表面) 南ヶ原開拓記念碑
⑦碑文(裏面) 入植 昭和23年7月14日
建立 昭和55年10月吉日
浅間山の南麓標高九百m佐久平を一望とする風光明媚な高原に多くの同志と共に入植、水耕を始め諸条件は意外に厳しく艱難辛苦の中三十余年を圣て酪農蔬菜経営を中心として村造の基礎を創る、下記26名となり、現在は二世に移行しつつ有り子々孫々吾等が意志を継ぎ益々より豊で明るい村の完成を願い比の碑を建てる
(下段に26名の入植者氏名が刻まれている。)
⑧現在の状況 南ヶ原集会所の前に建立。
長野県
小諸天池
小諸天池(こもろあまいけ) 20-208-2
①調査日 令和6年10月15日
②所在 長野県小諸市己65-16
緯度・経度:36.3530485716028,138.4576305930121
③地区の沿革 32戸が入植。35周年を迎え組合員は24名となる。
④設置年月日 昭和56年11月吉日 建立
⑤設置者 組合員
⑥碑文(表面) 開拓之碑
⑦碑文(裏面) 開拓碑文
天池地籍ノ浅間山麓千メートル地帯ノ旧町有林デ、昭和二十年春此処ニ野火発生シ其ノ焼跡ヲ、当時小諸町防衛隊長元県会議員塩川清兵衛氏ガ陣頭ニ立チ、食糧増産ノ為開墾シタ地域デアル。
戦後混乱シタ社会情勢ノ中デ、国ハ昭和二十一年緊急開拓政策ヲ打出シ、当天池地籍ニモ入植公募ガアリ、厳選ノ結果、三十二戸ガ入植ヲ許可サレタ。
其ノ間幾多苦難ノ道ヲ辿リ、昭和三十五年三月、一戸当リ二町五反歩ノ経営面積ヲ確保スルニ至ル。
組合員ノ不断ノ研究ト努力ハ、今日ノ如キ高冷地農業ノ確立ヲミ、又将来ノタメニ畑灌施設ヲ完成スルニ至ル。
其ノ間離農者モアリ、組合員二十四名ガ開拓三十五周年ヲ迎エルニ当リ、石碑ニ其ノ名ヲ刻ミ、開拓ノ実跡ヲ後世ニ伝エントスルモノデアル。
昭和三十六年十一月吉日
組合員(五十音順)
(※24名の組合員氏名が刻まれている。)
小諸市公民館長 甘利嘉宣謹書
小諸石材株式会社 中山 幸次 刻
⑧現在の状況 畑の端の十字路付近に建立。植木も手入れがされている。
長野県
諏訪山
諏訪山(すわやま) 20-208-3
①調査日 令和6年10月15日
②所在 長野県小諸市大久保2143
緯度・経度:36.320046529694,138.3846330041751
③地区の沿革 不明
④設置年月日 平成4年2月吉日 建立
⑤設置者 井出 茂、井出三四子 建立
⑥碑文(表面) 開拓記念碑 塩川忠己書
⑦碑文(裏面) 終戦直後の混迷せる世相の中此の地に入植し厳しき困苦欠乏あらゆる苦難に耐え力を併せて不毛の原野の開拓を成し遂げる
鍬入日 昭和二十二年八月八日
開畑 一八、九九ニ平方米
開田 七、六六二平方米
溜池 一、二五七平方米
宅地 一、三九二平方米
平成四年二月吉日 井出茂 井出三四子 建立
⑧現在の状況
長野県
谷地原開拓
谷地原(やちはら)開拓 20-208-4
①調査日 令和6年10月15日
②所在 長野県小諸市御影新田2486
緯度・経度:36.2993510223669,138.457804211069
③地区の沿革 昭和23年7月に9戸が入植した。
④設置年月日 平成4年4月吉日 建立
⑤設置者 入植者九戸
⑥碑文(表面) 拓魂碑 谷地原開拓記念碑
⑦碑文(裏面) 谷地原開拓記念碑
昭和二十年八月十五日の敗戦を迎え、極度な食糧難に陥り、国は自作農創設緊急開拓令を発令した。これに伴い昭和二十三年七月谷地原開拓として入植した左記九戸。此の地を開拓する。人力に依る山林の開拓は困窮を極めた。
記
(※九戸20名の氏名が刻まれている)
氏名は地割順
建立者 右記九戸 谷地原開拓共有地集会場跡
平成四年四月吉日
書 古越 寛深
石匠 安原 八津石材店
⑧現在の状況 谷地原公民館の敷地内に建立。
長野県
上の原
長野県
大徳原開拓
大徳原開拓 20-210-1
①調査日 令和6年10月16日
②所在 長野県駒ケ根市赤穂16591
緯度・経度:35.70959186790981,137.9144287737603
③地区の沿革 昭和21年10月10日、33名により開拓帰農組合を設立。
④設置年月日 昭和46年11月吉日 建立
⑤設置者 大徳原開拓農業協同組合
⑥碑文(表面) 開拓記念碑 小澤雄五郎書
⑦碑文(裏面) 終戦に●●●喜び●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●同志三十三名昭和二十一年十月十日開拓帰農組合を設立し、爾来二十五年困苦に耐へて此の地を拓く
これを記念しこの碑を建立する。
昭和四十六年十一月吉日
大徳原開拓農業協同組合
⑧現在の状況 大徳原集会所の敷地内に建立、管理されている。
長野県
中山開拓
中山開拓 20-214-1
①調査日 令和6年10月16日
②所在 長野県茅野市北山 蓼科湖畔
緯度・経度:36.04952626755958,138.256000701884
③地区の沿革 9戸が入植した。
④設置年月日 昭和63年7月吉日 建立
⑤設置者 中山開拓農業協同組合
⑥碑文(表面) 拓魂
建立趣意
第二次世界大戦は敗戦の烙印の下に終わった。これ迠、海外に雄飛せし同胞は全て帰国し国土は荒廃し食糧欠乏す、ここに有志相諮り食糧増産の為入植に決す、苦節十年の後昭和三十五年竣工検査の結果各自の所有となる。
時恰も観光開発の脚光を浴びた当地はその施設の中央に位し、各自よすがを観光面に切り替え開拓の努力は報いられて今日に至る。この開拓用地は湯川・塩沢・両財産区のものであったが、昭和二十四年の緊急開拓措置令により国が買収したものである。その概要を記し児孫に傳う。
昭和六十三年七月吉日
中山開拓農業協同組合
(横)主石 塩沢財産区 自然石 蓼科二四会
⑦碑文(裏面) 入植者名簿 (9名の氏名が刻まれている。)
⑧現在の状況 蓼科湖畔に建立。同碑の隣には「開拓者の詩」碑が建立。向かい側には「湖畔の温泉宿蓼科」が営業している。また近くには「蓼科高原カントリークラブ」がある。
長野県
松本平
松本平 20-215-1
①調査日 令和6年10月16日
②所在 長野県塩尻市広丘野村1090
緯度・経度:36.1393323002148,137.9542288310004
③地区の沿革 76戸が入植した。詳細は碑文に記載。
④設置年月日 昭和41年建立
⑤設置者
⑥碑文(表面) 二十周年記念 開拓之碑
長野県知事 西沢権一郎書
⑦碑文(裏面) 昭和四十一年建立
開拓の沿革 昭和二十一年より自作農創設特別措置法の施行に基く 緊急開拓政策に依り昭和四十年度まで農地開發面積二一二町歩内純粋入植者開畑面積九八、八町歩其戸数七十六戸標高六八○米~七一○米で昭和二十一年以前は私有林で一面松の大木と雑木林であった
(碑文の上方には同地区の農家配置図(番号付き)、碑文の下方には入植者(1~73の番号付き)が記され、当時の同地区の農家の配置状況を鮮明に表している。)
⑧現在の状況 国道19号の九里巾交差点側に建立。
長野県
長野県安曇野市・豊里開拓地
演習地跡を開墾
長野県中央部の安曇野市穂高有明・豊里(とよさと)区は、JR大糸線穂高駅から西北約6㌔にあり、美しい田園風景が広がっている。同区は戦後開拓地で、開拓者によって開墾され、人が住み始めた。
同県には、1945(昭和20)年から64年までに6219戸が入植した。開拓地の多くは標高の高い場所にあり、やせた土壌など劣悪な土地条件だった。
豊里開拓地の前身は、旧・陸軍松本歩兵第50連隊の演習地(約170㌶)で、標高は約600㍍。45年、復員軍人、引揚者、疎開者ら76戸が入植した。農業には未経験者ばかりであり、肥料もなく、開墾と営農は並大抵の苦労ではなかった。当初、大豆の種などを撒いたが、収穫は少なかった。
土地は砂礫土で水の便も悪く、干害を受ける年が多かった。そのため、井戸を掘り開田、水稲植え付けをした。
豊里の交差点近くに開拓記念碑がある。豊里開拓記念碑建設委員会が76(昭和51)年に建立したもので、碑銘は「開拓記念碑」。傍には演習地跡の説明看板と碑誌、反対側には、井戸から高地の水田への配水に使用された送水ポンプがある(写真㊧屋根の下)。
碑誌には「昭和三十四年深井戸開田の気運が高まり豊里巾上土地改良区の設立を見て漸く生活安定の基礎が確立した」「ここに三十有余年に渉る同志の彫身の労苦をかえりみるとき無量の感慨きわまりなし 相共に努力した人々や今は亡き同志の功績を偲び本碑を建立する」と記されている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
豊里 20-220-1
①調査日 平成30年5月31日
②所在 安曇野市穂高町
緯度・経度:36.34814695464745,137.846005435431
③地区の沿革 標高600米の軍用地が解放され、昭和20年、復員軍人、引揚者、疎開者ら76戸が入植。農業未経験者ばかりで、肥料もなく、大豆などを撒いたが、収穫は少なかった。
④設置年月日 昭和51年11月20日
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 開拓記念碑
長野県知事 西沢権一郎書
⑦副碑(表面) 碑誌 昭和二十年大東亜戦争終結の秋痛恨と傷心を秘め食糧増産の緊急要請に応えるべく吾々は長野補導部の主導により各地からこの地に参集した、烈々たる斗志の前に旧陸軍演習地はみるみる開墾されていった然し畑作農業の安定を期待することは容易なことではなかったとりわけ昭和三十年前後の数年は誠に苦難の連続で自衛隊演習場問題も起り多難であったが住民(当時七十六戸)の一致協力によりこれを克服することができた、昭和三十四年深井戸開田の気運が高まり豊里巾上土地改良区の設立を見て漸く生活安定の基礎が確立した、昭和四十年以降山麓開発の進展と共に穂高高原温泉郷の実現を見るに及んで俄然脚光を浴びるに至り名実共に豊里の村となったここに三十有余年に渉る同志の彫身の労苦をかへりみるとき無量の感慨きわまりなし相共に努力した人々や今は亡き同志の功績を偲び本碑を建立する
昭和五十一年十一月二十日
豊里開拓記念碑建設委員会
穂高町町長 高山 勇
入植者七十一名 協力者十二名 氏名
⑧現在の状況 地区内の植栽の中で綺麗に管理されている。
長野県
野辺山
野辺山 20-305-1
①調査日 平成30年5月30日
②所在 南佐久郡南牧村
緯度・経度:35.9719995322660,138.4602105864868
③地区の沿革 八ヶ岳の裾野の広大な野辺山高原の旧軍用地
④設置年月日 平成元年10月
⑤設置者 まきば開拓組合
⑥碑文(表面) 県営農地開発事業 開拓記念碑 長野県知事 吉村午良書
⑦碑文(裏面) 碑文 八ヶ岳の裾野に展開する広大な野辺山高原に慶長時代に移住し板橋村として三百年営々として発展してきた。昭和十八年 軍用地として陸軍省に他の地域とともに強制買収されたが 同二十年八月十五日 第二次世界大戦終結とともに農林省に移管され元地主の板橋 樋沢両区に売り渡された。
しかしながらその帰属を巡り常に係争の地であったが その後関係者の度重なる協議と努力により 昭和四十五年十二月二十二日 時代の変遷とともに発展的かつ円満な共有権の解消を見るに至った。
当地は全国に知られる野菜生産と酪農の大産地であるが 近年は連作障害の克服と自給飼料の確保は生産性の向上を計り農業の近代化達成の緊急課題である。斯くしてこれ等事業実現のため 幾多の困難を克服して永年の歳月を経てここに完成を見るに至った。
この大地が規模拡大により農家経済の向上と安定に寄与する事を確信し 先人が発祥の地に永住し継承した足跡に対し敬虔な思いを致すとともに 事業遂行に関係した人々に深い敬意と感謝を込め 組合員の申し合わせ事項等に良く理解し明日への農作物栽培の活性化の地である心積もりで此に完成記念碑を建立する。 記念碑建設委員会 氏名 記念碑建設寄付芳名者 氏名
平成元年十月吉日
まきば開拓組合
⑧現在の状況 地区内で管理されている。





















