関東地方
栃木県
穂積
穂積 09-407-14
①調査日 平成28年9月15日
②所在 那須郡那須町大字漆塚
緯度・経度:37.0387743288565,140.069353964524
③地区の沿革 那須火山裾野標高430米に位置し、引揚者38戸が入植。畑作経営であったが、当地域は開田が早く、水稲と酪農に経営転換を図った。
④設置年月日 昭和42年12月1日
⑤設置者 穂積開拓農業協同組合
⑥碑文(表面) 開拓
栃木県知事 横川 信夫 書
⑦碑文(裏面) 終戦の日の忍び難しきをしのび「世に太平を築かん」とのお言葉は地上に普く大陸の夢破れて裸一貫彼方に消えし幾人の友を偲びつつ、浪々の身を慈母の如く抱かれしは奇しくもここ穂積の里、祖先の導き給えしを信じ、昭和二十二年十二月一日寒風の荒野に鍬を入れし同志四十名只ひたすらに大地にしがみつきて、ここに二十星霜互いに励まし合いその甲斐ありて、今や入植時念願せし乳の流るる理想の郷はおもむろにその姿を表わせんとし祖国再建の礎石悲願将に達成せられんとするに至る。
朝なタな仰ぎ見る那須の霊峰の下悠然の気にはくぐまれ清く明るく仲び行く子等こそ次代の担い手、茲に二十周年記念の式典を挙げ、祖国並びに大方の鴻恩に感謝の微哀を捧げ子孫悠久の繁栄と平和を祈りつつ、初代同志の名刻してこの碑を立つ 入植者氏名
昭和四十二年十二月一日建之
渡辺寅八記
⑧現在の状況 草地が広がる穂積公民館地内で管理されている。
栃木県
夕狩
群馬県
西大河原開拓
群馬県
元三沢開拓
元三沢開拓 10-202-1
①調査日 平成30年5月28日
②所在 高崎市倉渕町川浦
緯度・経度:36.44682477853435,138.7475860082488
③地区の沿革 昭和21年23名が入植する。
④設置年月日 昭和49年6月
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 元三沢開拓記念碑
昭和二十一年緊急開拓食糧増産の為二十三人の同志此処に入植山林を拓き薪炭採草地三十七ヘクタール 畑四十ヘクタール 水田五ヘクタールを造成元三沢部落を造り現在に至る 主たる事業電灯導入 昭和二十三年 主幹道路開通 昭和二十七年 簡易水道完成 昭和三十七年 簡易舗装道路完成 昭和四十七年
昭和四十九年六月
⑦碑文(裏面) 建設委員 氏名20数名
⑧現在の状況 地区内に建立され管理されている。
群馬県
地鳴石
地鳴石 10-202-2
①調査日 平成30年5月28日
②所在 高崎市倉渕町権田
③地区の沿革 昭和21年12月2日13名が入植した。
④設置年月日 昭和62年6月
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 拓魂之碑
内閣総理大臣 中曽根康弘
⑦碑文(裏面) 昭和二十年 敗戦という我が国未曾有の事態が諸物資の窮乏を招き 中でも食糧不足は極限に達した 国は食糧事情打開策の一環として緊急 開拓を国策事業とした 昭和二十一年十二月二日 吾等十三名はこの地鳴石を墳墓の地と定め勇躍入植し 一致団結理想郷建設のため努力邁進してきた 以後の経過概要は次の通り
昭和三十一年六月 電気導入 無灯火解消
仝 三十八年十月 簡易水道施設完備
仝 四十一年四月 経営規模拡大事業
仝 四十五年四月 開拓センター建設
仝 五十六年六月 部分林設定 農用林の確保
仝 五十七年五月 雨除けほうれん草施設完成
右の諸事業遂行に当っては村当局を始め各関係機関の暖かいご理解御協力があった事は勿論 拓友相励ましあい 開拓の礎石たらん事を誓って あらゆる苦難を克服し 今日の経営基盤確立をみるに至った
開拓四十周年を迎えるに当り この偉業の完遂を祝福すると共に 永く後世に伝えるため 記念碑を建立するものである
昭和六十二年六月吉日 建立
植者氏名 13名
⑧現在の状況 地区内に建立され管理されている。
群馬県
生品
生品(いくしな) 10-205-1
①調査日 平成30年5月28日
②所在 太田市新田町
緯度・経度:36.3337435108282,139.2945712525153
③地区の沿革 旧新田飛行場の開拓地に隣接している。
④設置年月日 平成19年11月
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 拓魂
生品就農記念碑
⑦碑文(裏面) 生品地区開拓の歴史
昭和二十二年自作農特別措置法と就労の機会創出に依って国の食糧増産政策に依り引揚げ者や復員者又は地元区内の農家の次男三男失業対策として入植十四戸就農開拓が行われた。1戸あたり一町五反配布入植現地は山林原野で松根の抜根及び航空機の援体壕くずし等で体力を要求され水や食糧も満足に無い中で開墾鍬を振ひ厳しい作業の毎日で悲惨な戦争から開放された入植者達は夢と希望を抱き一途に邁進風雪五十八年可間経て現在に至る(平成十八年)三戸の方々が離農するも残りの方は充実した営農生活を送って居る。
入植者氏名
平成十九年十一月吉日
⑧現在の状況 地区の墓地に隣接して設置されている。
群馬県
館林飛行場跡
館林飛行場跡 10-207-1
①調査日 平成30年5月28日
②所在 館林市
緯度・経度:36.2393387505754,139.4914823052592
③地区の沿革 長柄・六郷・多々良村の三村にまたがる館林飛行場跡地も農耕適地として自作農創設のため、昭和20年10月離職した工員・復員軍人・戦災者・引揚者など149名が入植。また本町に係る行政区は、昭和25年9月大谷原西地区・大谷原東地区であったが同32年4月に合併して開拓(第32区)となったのである。
④設置年月日 昭和40年12月31日
⑤設置者 館林開拓農業協同組合
⑥碑文(表面) 開拓記念碑
大谷原官有林は斧鉞を入れざる老松樹海たりしも昭和十二年七月七日支那事変に端を発し漸次世界第二次大戦に波及するや我国は此の地に陸軍飛行場を設置し大東亜戦争飛行機基地として重要なる地位を果せり戦禍益々激化し諸各国共其の損傷名状すべからざる時過去八年余ケ月に亘る激戦も昭和二十年八月十五日遂に終局を告げるに至る此の時に当り政府は此の地二百余町歩を全面開放し悽惨極まる過去の惨事に鑑み永久戦争放棄の宣言下に復員軍人軍属海外引揚者都市疎開者等百三十名の入植を認め授産政策の一環として食糧増産に従事せしむ入植者一同は一致協力館林開拓農業協同組合を結成し克く農事改良に専念し此処に二十周年を迎えり各自の生活力も年と共に概ね充実し各其の地域の農業協同組合に加入し依って一同は開拓魂を発揮し益々進展を期して館林開拓農業協同組合を発展的解散するに当り此の碑を建て永世の記念とする
昭和四十年十二月三十一日
組合員自撰自書之建
⑦碑文(裏面) 入植者百三十名氏名
⑧現在の状況 八幡神社境内で管理されている。
群馬県
硯石開拓
硯石(すずりいし)開拓 10-208-1
①調査日 平成30年5月28日
②所在 渋川市北橘町赤城山
緯度・経度:36.5065487588820,139.0873619252829
③地区の沿革 昭和26年9月5家族と単身7人が入植した。
④設置年月日 昭和51年4月
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 開拓記念
元開拓連会長 高島照治 謹書
⑦碑文(裏面) 硯石開拓の歩み 昭和二十六年九月一日国の緊急食糧増産対策と二三男就業対策により我々12戸は入植した 水もなく道もない此の地に文明を離れたランプ生活が始まった五家族と七人の単身入植であった 開墾に明け暮れる毎日が続いた 其の中で県庁や開拓農協への連絡や交渉に当時の役員の苦労は大変であった 水問題解決の為井戸掘りと共に富士見村地内の出水平の水源交渉を行い水源を確保 水道への第一歩を踏み出した 米麦を主とする農業が始まったが二八年 二九年と連続冷害に襲われ苦しい生活が続いたが其の中で道路建設 水道工事 有線放送 電気工事と次々と進められた 三十四年九月猛烈な台風に襲われて2戸が全壊 殆どの家が大きな被害を受けたが全員協力危機を乗り切った 三十七年積雪寒冷地貸付牛の導入により全戸酪農への第一歩を踏み出した 四十年トラクターの導入により手農業から家畜農業へそして大型機械農業へと大きく転換した 作物も米麦から草作りへと変わって来た 昭和四十五年開拓センターを建設し 今酪農の近代化をめざして第二次構造改善を進めるべく努力中である 尚数々の事業達成の途上に楯留三郎 楯成 小林清五郎三氏を失ったことは誠に残念である 記念碑建設に当り諸氏の冥福を祈ると共に楽土建設に邁進する事を誓うものである
昭和五十一年四月吉日
建立記念碑建設委員会 委員長 森田倉次 他氏名
⑧現在の状況 地区内に建立され管理されている。
群馬県
南原開拓
南原開拓 10-208-2
①調査日 平成30年5月28日
②所在 渋川市赤城町北赤城山
緯度・経度:36.54959061861233,139.0860692631354
③地区の沿革 昭和23年6月復員引揚者二・三男者、沼尾川大水害の被災者が高冷地に28名が入植した。
④設置年月日 昭和58年6月
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) (中央)拓魂之碑 赤城村長 下田八州太
(右) 追憶の塚 泣いたり 笑ったりして 仲間と いっしょに暮らしたその時々を偲び 併せて 楽土達成を後世に託すべく 十年ごとに このカプセルを開いて 追憶を新たにすべく建設した
(左) 由来記 朝日に輝き 夕日に映える緑の丘 うるわしい里 わが芳ヶ沢に 永住の地を求めたのは 明治四十三年五月 六戸 続いて大正四年三戸 同十四年一戸を加えて十戸であった その後 第二次世界大戦後 政府の食糧増産緊急開拓の要請に応えて復員引揚者二・三男者達は高冷地に開拓の鍬を振い 同時に 沼尾川大水害で 悲しい被害を受けた人々が一団となり 南原開拓地として 群馬県知事の認可を得て 入植者十九名 現地増反者九名で発足した 時に 昭和二十三年六月であった 水を求め深井戸を掘り 道路作りを手始めに 昭和二十八年 長いランプ生活より電気導入 同四十四年村営水道通水 同四十八年公会堂落成するなど 汗と涙の努力も みごとに克服して 不滅の基礎を築いた 茲に 物故された仲間の御冥福を祈り我が里の永劫の発展を念じて建碑した
⑦碑文(裏面) (中央)昭和五十八年六月吉日
(右) 拓魂碑寄付者芳名
(左) 建碑委員氏名
⑨現在の状況 地区内に建立され管理されている。
群馬県
群馬県吾妻郡長野原町
大屋原開拓記念碑
群馬県吾妻郡長野原町
群馬県の北西部、吾妻郡長野原町は人口約5千で、地域のほとんどは標高500㍍以上の高地。南部の北軽井沢地区には戦前から、避暑を目的に別荘が建てられた。戦後、浅間山の東北麓の6開拓地に、満州(現・中国東北部)からの引揚者らが入植し、荒漠たる原野を切り開いた。
レタス・キャベツ畑や牧草地が広がる現在の大屋原(おおやはら)地区に、満州に送り込まれた「満蒙開拓団」の慰霊塔と開拓記念碑がある。
慰霊塔はレンガ造りで「群馬満蒙拓魂之塔」と刻まれている。物故者の慰霊供養のため、県下の開拓関係者によって74(昭和49)年に建立された。裏面の「建立の由来」によると、同県から満州への移民は、開拓団と青少年義勇団を合わせ8780余名。45年8月、敗戦による混乱で1680余名が犠牲になった。
慰霊塔の隣は大屋原公民館で、敷地内に開拓記念碑がある。大屋原開拓就農組合が76年に、開拓30年を期して建立したもの。碑銘は「大屋原開拓記念碑」。入植は47年3月から始まった。57年に電気導入、61年に水道完成。記念碑建立時の農家戸数は41戸だった。
碑文には、「戦後の極度な食糧事情の不良のなかにあって 酷寒とたび重なる台風 冷害 凍霜害と戦いつつ 助けあいはげましあって築いていったここの『村づくり』の汗と涙の三十年の歴史こそは 将来ここに生きるものにとって永遠に忘れてはならぬものであろう」と記されている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
大屋原開拓記念碑
①位 置 群馬県長野原町北軽井沢
緯度・軽度 36.490479908080225, 138.59604876094102
②設置者 大屋原組合
③設置日 昭和51年10月
④碑文表 大屋原開拓祈念碑
開拓三十年
木を伐り筈を焼き
芝を起し岩や株を除いて
熊の出る荒野を一鍬づ々拓いた
すばらしいみんなのちからよ
乳とりんごと○葉のうましむら
大屋原のあしたは明るい。
煙り吐く火の山のふもとに
くるしみもよろこびも
わかちあいちからをあわせて
この高原を拓いたわれら
いまさらにして知る
ひとりの人の重さと人の世のありがたさを。
開拓の友よ
往くては涯しなく永く遠い
雨の日も風の日も
力を協せ扶けあい
生ける日のかぎり
まもれこのうまし村を
拓翁
⑤碑文裏 開拓祈念碑建立にあたって
第二次世界大戦終焉後の日本政府は 幾多の重大な戦後方策のうち社会不安を除くため もっとも窮乏していた食糧の増産を図るべく国内緊急開拓を占領治下において実施した ここ大屋原高原に入植したものは 元満州国吉林省磐石県駅場開拓団並びに青少年義勇隊からの引揚者 及び其縁故者と、特に県の認定を得た優秀青年とであった。
標高一千メートル 地力の痩せた浅間山系の火山灰土 カラ松と熊笹の茂ったこの高原に挑んだ開拓者達は不退転の「拓魂」の持ち主であった。戦後の極度な食糧事情の不良のなかにあって 酷寒とたび重なる台風 冷害 凍霜害と戦いつつ助けあいはげましあって築いていったここの「村つくり」の汗と涙の三十年の歴史こそは将来ここに生くるものにとって永遠に忘れてならぬものであろう
経過を要約すれば
一、入植開始 昭和二十二年三月
二、道路建設 昭和二十二年より
三、部落設定 昭和二十四年
四、電気導入 昭和三十二年
五、水道完成 昭和三十六年
六、土地配分完了 昭和四十二年
七、現在農家個数 四十一戸
顧れば国 県 町や多くの人々に助けられて困苦営々 ここに三十年 凡そ入植当初よりの目的をほぼ達成したので 宿願の公民館落成を機とし、今後のより高次なる発展に大なる期待をよせてこの碑成るの日 謹んで不幸にも志なかばにして物故した同志の霊を厚く弔い併せて拓友の偉大なる協力を讃えたい
昭和五十一年十月吉日 大屋原組合
組合員氏名
清水圭太郎 ほか





















