関東地方
群馬県
上小菅開拓
上小菅開拓 10-424-2
①調査日 平成30年5月28日
②所在 吾妻郡長野原町応桑
緯度・経度:36.4900191275872,138.5763594525290
③地区の沿革 大東亜戦争中演習地拡張のため昭和19年5月15日国より移住の命令を受け、町内から8名が当時の町長外数多の有力者の協力を得て、昭和20年5月1日この地に入植した。戦後、吾妻郡及び長野原町青年食糧増産農兵隊の助力を得つつ茫洋たる荒地の開拓に努める。
④設置年月日 昭和53年4月
⑤設置者 上小菅開拓記念碑建設委員会
⑥碑文(表面) 上小菅開拓記念碑
長野原町大字応桑字アテローの住民山崎博十郎外三名及び同町大字応桑字小代の住民加部幸平外三名の計八名は、大東亜戦争中演習地拡張のため昭和十九年五月十五日国より移住の命令を受け、当時の町長田村学氏外数多の有力者の協力を得て、昭和二十年五月一日当上小菅の地に入植した。
その後、吾妻郡及び長野原町青年食糧増産農兵隊の助力を得つつ茫洋たる荒地の開拓に努め、終戦以来営々三十有余年に亘り入植者一丸となって農耕地の拡張環境整備に精魂を傾けるも、その進展途上における困難辛苦は千言萬語を尽くして足りず、現在の発展を見るに及んでなお感慨無量の想いを新たにするものである。ここにその成果をよろこび永く将来の発展を祈念してこの碑を建立する。
⑦碑文(裏面) 入植者、協力者の氏名 昭和五十三年四月 上小菅開拓祈念碑建設委員会建立
⑧現在の状況 地区内に建立され管理されている。
群馬県
甘楽開拓
群馬県北軽井沢の甘楽(かんら)開拓は、浅間山の北麓に位置し、標高1000mの高冷地で、火山灰土の酸性土壌となっている。
1937年、群馬県南西地域の甘楽郡の人たちを中心に満州開拓に参加し(九道溝甘楽開拓団)、終戦時には600人の大集団となっていた。
終戦直後から帰国するまで、実に苦しい状況であったが、同開拓団は、武器を手放したこと、家財を現住民に進んで渡したこと、元々現地民と親しく、開拓地に居すわったことなどにより、他団より比較的被害が少なく、1年で帰国できた。
故郷に帰っても困窮は続き、43年から北軽井沢に新たな甘楽開拓就農組合として入植した(28戸)。
北軽井沢には大屋原開拓、北軽井沢開拓が先に入っており、これらの地区を避けて入植地を選定することとなった。住居は熊笹などでの掘立小屋で、冬には朝起きたら布団が雪で真っ白になっていることもあった。
北軽井沢農協が48年に設立され、甘楽開拓就農組合からも役員が選出された。北軽井沢開拓の二大営農支柱は酪農と野菜となり、紆余曲折ありながらも伸びていった。
キティ台風(49年)や二年連続の凍霜害などの自然災害に立ち向かい、また、再三の火事にも屈することなく、この地を発展させていった。
これは、満州時代からの開拓者相互の助け合いの精神と、新しい第二の村造りに打ち込んだ不撓不屈の心意気によるものであった。
満州開拓記念碑、開拓者供養塔に並び、79年に甘楽入植30年記念碑が建てられた。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
甘楽(かんら)開拓 10-424-3
①調査日 平成30年5月28日
②所在 吾妻郡長野原町北軽井沢
緯度・経度:36.473901153603,138.586429280536
③地区の沿革 浅間山麓に引揚者ら14戸が入植した。
④設置年月日 昭和54年4月20日
⑤設置者 入植記念碑建設委員会
⑥碑文(表面) 甘楽入植三十年記念碑
群馬県知事 清水一郎 書
⑦碑文(裏面) 日支事変から第二次世界大戦へと移行した戦争も遂に昭 和二十年八月十五日終戦となり日本は米軍の占領下におかれた。長期間の戦争の惨禍により国土の疲弊は甚だしく物資は欠乏し食糧不足は深刻となった。そこで政府はこれを打開すべく国内緊急開拓政策により食糧増産を図るため全国各地に開拓入植が実施されることとなった。
ここ浅間山麓地区も農林省指定となりその第一地区内甘楽地区に元満州国北安省通北県第九次九道溝開拓団 煙筒山それに母村関係の縁故者等の引揚者が県から入植適格証を受けて入植した。入植者は皆、曽で大陸に鍬を楎った豪の者ばかりであったが入植後の幾多の悪条件に悩まされた。食糧難の毎日に腹を空かし土地は標高千米以上の高冷地そして火山灰土の●薄酸性土壌で、自然条件は極めて悪く今まで捨ておかれて誰も鍬を入れたことのない未開地であった。丸太柱の掘立小屋 屋根は草葺で辛うじて雨露を凌いだ 床の上に筵を敷き煎餅布団に家中ごろ寝という粗末な生活その上キテイ台風伊勢湾台風による被害を受け又寒冷が故に二年連続の凍霜害に見舞われたこともある。こうした困難と戦って三十年 一応の成果を得てここに建設的段階を終わった。
今こうなることができたのは開拓者相互の助け合いの精神と新しい第二の村造りにうちこんだ不尭不屈の心意気によるものであった。昭和四十八年には多年の念願であった開拓農政から一般農政への移行が行われて既存の農家に伍して農民としての成長が認められたことも一つの喜びであった。
今茲に我等がこの地に入植して三十年村造りに励んだ経過の一端を書き留め建設の一段階を終了したことを認め合い記念碑を建立する。
この時に当り、今日を見ずして物故された同士の霊に対し心から冥福を祈ると共に、今後ますます協力進展の実をあげ、大きく発展していくことを祈念する。
昭和二十三年四月二十日先遣隊入植
昭和二十四年一月二十九日後続隊入植
昭和二十四年 住宅建設十六戸 一・二部落
昭和二十五年 住宅建設十戸三・四部落土地配分三・四部落
昭和二十六年 北軽線道路工事 一部落
昭和二十七年 マテロ地区に入植 三戸
昭和二十八年 水道施設と導水 一部落
昭和二十九年 甘楽大屋原線道路工事完成 群一地区一戸 群四地区二戸 入植
昭和三十 年 電気導入工事三・四部落完成
昭和三十二年 電気導入水道工事完成一・二部落 水道工事完成三・四部落
昭和三十四年 三・四部落 群高五に所属● 群五部落より群三部落に一戸移●
昭和三十五年 六戸移築群五部落
昭和三十六年 五戸移動・一部落
昭和四十年 第一次構造改善事業土地交換分合・三戸移動一・二部落
入植者出身地氏名
⑧現在の状況 地区内道路沿いに建立され管理されている。
向かって左から、満洲報国隊記念碑、満洲開拓記念碑、開拓者供養塔、甘楽入植三十年記念碑が建立。
群馬県
「拓魂」 群馬県嬬恋村・中原開拓
「拓魂」
群馬県嬬恋村・中原開拓
群馬県の西端に位置し、長野県と接する吾妻郡嬬恋(つまごい)村は、周囲を2千㍍級の山々に囲まれた人口約9千人の村。浅間山麓に広がる高原を有し、夏の冷涼な気候を活かした高原野菜の産地。夏秋キャベツの出荷量は、首都圏で約8割を占め、全国一の生産地である。また、数多くの温泉やスキー場などがあり、観光業が盛んである。
1946(昭和21)年、自作農創設特別措置法の施行により、群馬県でも開拓用地として未墾地の取得が計画的に行われた。約1万4千町歩が取得されたが、うち約6割を北西部の吾妻郡が占めた。嬬恋村では、浅間北麓の大笹地区の中原、山梨、大平などの開拓地に計83戸が入植した。
中原開拓地への入植は49年に始まり、入植者は、長野県小県郡にあった神川村(現・上田市)の分村計画による移住者や、大笹地区の出身者ら22戸。海外からの引揚者や農家の次男、三男の人たちだった。
標高1000~14000㍍の高冷地。入植当初は、質素な宿舎での共同生活だった。入植者は寒さに耐え、木の伐採、原野の開墾を続けた。電気が導入されたのは58年、水道施設が整ったのは62年だった。
同村では50年頃から、キャベツが基幹作物になりつつあった。中原開拓地でもキャベツ栽培を営農の柱と決め、作付けに意欲的に取り組んだ。現在、浅間山を背景に広大なキャベツ畑が広がっている。減農薬など環境に配慮した栽培や品質の向上に取り組んでいる。
中原公民館の脇に開拓記念碑がある。78年、入植30周年を記念して建立されたもので、碑銘は「拓魂」。裏面の碑文には、入植からの歩みが詳しく刻まれている。
入植当初について、「当時を回想すればただ黙々と汗と土にまみれ営々努力した開拓魂の長い歳月の辛苦のみを思い出す」とある。その後も営農は順調ではなかったことを記した上で、末尾には「かつての荒野に大型機械が逞しい響きを伝えて近代農村としての成功をたたえているかのようである今眼を閉じて往時を回顧すればすべて懐かしい思い出に変わる」と記されている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
中原開拓 「拓魂」 10-425-1
①調査日 2018年5月28日
②所在 吾妻郡嬬恋村
緯度・経度:36.4729430769019,138.4899044423975
③地区の沿革 昭和23年神川村の分村入植地に決定し、農家の次三男等を主とする30名が24年に開拓団を組織し入植した。
④設置年月日 昭和53年11月
⑤設置者 入植者
⑥碑名 開拓碑
⑦碑文(表面) 拓魂 元開拓連会長 高島照冶 謹書
⑧碑文(裏面) 第二次世界大戦に敗れ打ちひしがれた人々は虚脱と混乱の中に希望を失っていた この時長野県神川村当局と農地委員会は食糧の増産と国土再建の一翼をすべく分村計画を立案し議決した昭和二十二年のことであった 先ず入植地を何処に求めるかで諸候補地の見分調査した結果浅間山山麓で群馬県側のこの地が神川村分村入植地に決定したのは翌二十三年であった 同年に入植希望者を募り二十四年に開拓団を組織した団長に山越修蔵 副団長に北川太郎吉両氏を決定した団員総数は三十名で農家の次三男などを主として引場者戦災で家を失った者などさまざまであった 団員は新しい大地を拓き理想の村を建設すべく固い団結と意思を誓い合い勇躍して入植地に移住した 然しそれぞれが資金も無くその日の食にもことかくありさまであった 地味のやせた入植地の欠点や幾多の災害遭い時には絶望感に陥ったことも再三ではなかった今 当時を回想すればただ黙々と汗と土にまみれ営々努力した開拓魂の長い歳月の辛苦のみを思い出す 初の二ヵ年半間は共同生活を営み青春の血をたぎらして開拓の熱意一筋に頑張って人力と畜力により荒野もついに一戸当たり農耕地八十アールと住宅二十三.一平方メートルの成果を挙げ二十二戸の各自が独立自営することに成功した努力は遂に報いられたのである 然し独立農となっても土地の未確定問題などがあり営農は必ずしも順調では無かった その絶望に堪えられず数名の団員の入れ替えがあり前途多難を思わせたが昭和三十六年に待望の機械が導入されたことにより開墾はにわかに進歩をみるに至り一戸当たり三百六十アールの分配面積が完了し 将来に光明を見出すことができた 昭和三十三年には電気が導入され三十七年には水道施設が整った それぞれ独立した団員は酪農を始める者蔬菜を主とする者等 開拓地に適した営農形態により安定化の方向へと進んだが最終的には蔬菜1本に集約されたことにより収入も急激に増大した こうして三十年前に夢見た楽土はここに功を収め文化的生活を営むことができたのである かつての荒野に大型機械が逞しい響きを伝えて近代農村としての成功をたたえているかのようである今眼を閉じて往時を回顧すればすべて懐かしい思い出に変わる この間母村神川村当局をはじめ地元嬬恋村当局 さらに又関係各機関の指導援助を受けた恩愛を心より感謝し 併せて共甘同苦して築き上げた団結と努力を子孫に伝えるため入植三十周年を記念しこの碑を建てる
昭和五十三年十一月吉日 萩原 進 撰文 松村無心 書
記念碑建設委員氏名 入植者氏名
⑨現在の状況 地区内に建立され管理されている。群馬県
群馬県利根郡昭和村 「赤城原 開拓記念碑」
赤城原 開拓記念碑
群馬県北部の利根郡昭和村は農業が盛んで、レタスやハクサイ、ホウレンソウなど高原野菜の産地。その中心地が赤城高原開拓地だ。
赤城山の北麓の同開拓地は、旧陸軍の演習地だった。標高400~800㍍の高冷地帯。飲料水を得ることすら困難な未墾地だった。開拓者は主に手作業で開墾した。晩霜害や集中豪雨などの自然災害が多かった。また、火山灰土壌で軽石が多く、干ばつ害を受けやすかった。厳しい自然条件下で、作物は思うように育たなかった。
入植当初は雑穀類の生産だったが、ようやく畑地かんがい施設が完成し、1965(昭和40)年代、野菜専業に転換。生産量が年ごとに増加し、高原野菜の供給基地となった。
赤城原地区に赤城開拓農協、追分地区に赤城高原開拓農協があった。関越自動車道の昭和インターを降りて、5分位の所に開拓記念碑がある。赤城開拓農協が84(昭和59)年に建立したもので、碑銘は「赤城原 開拓記念碑」。隣に碑銘板があり、開拓期のあらましが記されている。
46(昭和21)年4月から52年4月までに89戸が入植。碑文には「この荒野に樹木を伐採してカヤ葺の掘立小屋を造り大きな木の切り株やカヤ株等の抜根に悪戦苦闘し現在の機械化と違って一鍬一鍬の開墾は実に血と汗の結晶であった」と、困難に立ち向かった状況が刻まれている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
赤城原開拓記念碑
①位 置 群馬県昭和村
緯度・経度:36.6068564508625,139.0914370138873
②設置者 入植者
③設置日 昭和59年6月
④碑文表 赤城原
開拓記念碑
群馬県議会議長 元県開拓連会長 高島照治 謹書
副 碑 開拓碑建立の由来
昭和二十年八月 吾が日本は大東亜戦争に敗れ都市の大半は焦土と化し農村は極度に疲弊し猶且戦災者復員軍人或は海外引揚者等でこの狭き国土は有史以来未曾有の大混乱に落ち入った
この時国策による緊急開拓事業が施行されここ赤城山西北麓の旧陸軍演習場であった原野の一角に昭和二十一年四月第一次入植者として帰農した者六十四名引き続き第二第三次入植者は昭和二十七年四月迄に二十五名になった
入植後久呂保就農組合 利根開拓連合協同組合久呂保支部と変遷があったが昭和二十五年五月政令により赤城開拓農業協同組合が誕生して開拓組織の団結と地域農業の振興が打ち出された
この荒野に樹木を伐採してカヤ葺の掘立小屋を造り大きな木の切り株やカヤ株等の抜根に悪戦苦闘し現在の機械化と違って一鍬一鍬の開墾は実に血と汗の結晶であった
時には冷害或は旱魃又は台風害等幾多の試練と苦難を乗り越え乗り越えて従来の雑穀農業より畜産経営へ或は酪農蔬菜経営と大きく移行し現在では既存農家に優るとも劣らぬ程の立派な経営と成果を挙げる迄に至ったのである
又水一滴さえ無きこの里へ竹樋から水道を 農地には吾が国初の畑灌漑を 薄暗きランプ生活から煌々たる電灯を掘立小屋から近代的住宅にガタガタ農道は舗装されて漸く一般社会の生活に伍する程になった
この間開拓の志し空しく離農した者十余名又不幸にして病魔に倒れた物故者二十一名を数える風雪の三十八年を迎え開拓行政の終焉と共に一般行政へ移行し名誉ある開拓農協の発展的解散を行うに当り茲に記念碑を建立しこの地永遠の平和と繁栄心より祈念するものである
埼玉県
「開拓の碑」 埼玉県所沢市・東川開拓
「開拓の碑」
埼玉県所沢市・東川開拓
埼玉県の南西部に位置する所沢市は、都内までの交通の便が良く、人口は約34万人。中心部の所沢地区には高層マンションが建ち並び、大型商業施設も多い。同市東部の松郷(松井地区)、神郷(柳瀬地区)では、戦後開拓事業が実施された。
「開拓三十年」(1976年発刊)によると、入間郡所沢町(現・所沢市)と同柳瀬村(同)にまたがる民有林を開拓地として解放する話し合いが地元の農業委員会に持ち込まれたのは、46(昭和21)年夏のことだった。開拓に反対する旧地主との調整が難航したが、47年10月、復員者らの入植が承認され、開拓事業が開始された。
49年1月、地区内を貫流する東川(あずまがわ)を名称とする「東川開拓農業協同組合」が発足。同年、第1次入植者22名に第2次入植者8名が加わり、組合員は30名となった。50年、所沢町の市制施行を機に、開拓地の所沢分を松郷、柳瀬分を神郷と行政区域を分離した。
開墾は苦労が続いた。水源が乏しく、自給食糧の確保が困難だった。52年、組合員の総力によって幹線道路が完成。53年には電気工事に着工し、待望の電灯が導入された。63年、畑地かんがい工事が完了。営農は畑作から水田、さらに畜産への道をたどった。現在、松郷及び神郷は主に住宅地となっているが、松郷霊園の付近には農用地が広がっている。
その霊園の敷地内に記念碑がある。77年に「東川開拓友の会」が建立したもので、碑銘は「開拓の碑」(写真)。碑文には、開拓者の苦労が記されている。後段には、「当初より困苦に耐え、欠乏を忍んで、ひたむきの努力を重ねつつ、荒地と闘いながら、発展し続けてきた三十年の過去を回顧して、誠に感慨無量である。 ここに三十周年記念碑の建立にあたり、初代入植者の足跡を記すとともに、子孫の繁栄を願うものである」と刻まれている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
東川開拓 「開拓の碑」 11-208-1
①調査日 2022年11月29日
②所在 所沢市
緯度・経度:35.8014817654057,139.5078383122104
③地区の沿革 昭和23年10月に30戸が入植した。
④設置年月日 昭和52年3月
⑤設置者 東川開拓友の会
⑥碑名 入植30周年記念碑
⑦碑文(表面) 開拓の碑 旧所沢町と柳瀬村にまたがる一六〇ヘクタールの民有林を開拓地として解放する話は、昭和二十一年夏のことだった。当初、県の計画が地元の希望する計画と食い違ったため、開拓反対の声が両町村の旧地主の間に高まり解放の話し合いは難航した。二十三年十月ようやく地元の希望が承認され、入植者三〇戸増反者一五〇戸について、畑用地九〇ヘクタール、道路用地十ヘクタールの配分が決まり、所沢柳瀬地区の開拓事業が開始された。昭和二十四年一月入植者三〇戸を組合員として、東川開拓農業協同組合が設立され、二十六年、所沢町の市制施行を機に、開拓地の所沢分を松郷、柳瀬分を新郷と行政区域を分離した。昭和二十七年には組合及び増反者の総力によって、幹線道路が完成し、翌二十八年に待望の電灯が導入された。昭和三十八年には大型畜産農家も出現していたが畑地灌漑工事が施工 され、受益面積は三〇ヘクタールに及ぶ施設が完成した。
裸一貫の入植者が、住居、水、道路、電灯、食糧、衣料等、皆無より有 を生み出す営農の苦労は筆舌に尽せるものではなく、その上、天災は容赦なく襲ってきたが、当初より困苦に耐え、欠乏を偲んで、ひたむきの努力を重ねつつ、荒地と闘いながら、発展し続けてきた三十年の過去を回顧して、誠に感慨無量である。ここに三十周年記念碑の建立にあたり、初代入植者の足跡を記するとともに、子孫の繁栄を願うものである。 昭和五十二年三月吉日
東川開拓友の会建立 元埼玉県開拓連会長 西嶌道助 書
⑧碑文(裏面) 三十戸の入植者の氏名が刻まれている。
⑨現在の状況 松郷霊園内で管理されている。
埼玉県
松山開拓
松山開拓 11-212-1
①調査日 令和4年11月30日
②所在 東松山市新郷
緯度・経度:36.0340780929634,139.360472638737
③地区の沿革 東松山市と滑川村に跨る約二百町歩の通称唐子飛行場跡地が解放され、昭和21年3月45戸が入植し松山開拓農業協同組合が組織された。
④設置年月日 昭和50年3月
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 開拓三十周年記念 黄塵拓野
⑦碑文(裏面) 当地区は東松山市と滑川村に跨る約二百町歩の通称唐子飛行場跡地で、終戦と共に緊急食糧増産のため開拓地として誕生、昭和二十一年三月四十五戸が入植松山開拓農業協同組合が組織された 同二十三年に組合の総力を挙げ電気を導入した 同二十五年に滑川村都地区に十五戸で構成される唐子開拓農業協同組合が発足した 同三十二年前記二組合が合併し組合員五十五名の現農協となった 同四十二年地区内に県工場団地が造成された 同四十五年松山開拓会館を建設し同四十七年東松山園芸センターを開業した 茲に開拓三十周年を迎え記念としてこの碑を建立した
39組合員の名が刻まれている。
昭和五十年三月吉日
建立責任者 太田政治郎 記
⑧現在の状況 松山開拓農業協同組合の敷地内に建立。
(表 左側は「畜霊供養の碑」)
埼玉県
埼玉県深谷市・櫛挽ヶ原開拓
埼玉県深谷市・櫛挽ヶ原開拓
埼玉県北部の深谷市は、ネギ 、ダイコン などの野菜 、花き、肉用牛生産で農業 算出額が県内1位。 利根川と荒川に挟まれ、北は群馬県と接する。南西部の櫛挽 (くしびき )地区は、戦後開拓事業により切り開かれた。
開拓地の櫛挽ヶ原 は 約500㌶に及 び、大方は平地林(原野が占めていた 。くぼ地が多く、一帯の野水が停滞 する悪条件 の地形 だった 。 また 、1~2年 毎 の 旱魃(かんばつ)で水不足になる、 農耕には向かない土地だった。
1946(昭和21)年に入植が始まり、翌年末までに総計242戸の県下最大の開拓地となった。 冬は 、北風(赤城おろし が 吹きつけるため 、防風林にする部分は木を残し、開墾を進めた。たまり水を排除するため、荒川への排水路の開さくを第一とした。
48年に設立された「 櫛挽ヶ原開拓農協 」は、82年に「櫛挽農協」に名称変更。90 年には深谷市 農協 に統合し、現在、ふかや農協櫛挽支店となっている。 その敷地内に開拓記念碑がある。 櫛挽ヶ原開拓農協が入植30 周年を記念して76年に建立したもので、碑銘は「 拓魂 」 。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
櫛挽ヶ原(くしびきがはら) 11-218-1
①調査日 令和4年11月30日
②所在 深谷市櫛引66
緯度・経度:36.1647677044042,139.2365944822755
③地区の沿革 利根川と荒川に挟まれ、北は群馬県と接する平地林の軍用地が解放され、引揚者、戦災者、地元農家二三男が、昭和21年7月に第一次入植者として決定された114名が入植、翌年末までに242戸となり県下最大の開拓地となった。
④設置年月日 昭和51年8月24日
⑤設置者 櫛挽ヶ原開拓農業協同組合
⑥碑文(表面) 拓魂
埼玉県知事 畑和書
第二次世界大戦中に櫛挽ヶ原五○○ヘクタールに及ぶ藤澤、本郷、岡部、榛澤、用土の五ケ村に跨がる全地域の林間に、東京第二陸軍造兵廠櫛挽製造所として大小三五0棟に及ぶ建造物を構築された。
この地域は雨季から秋にかけて野水が停滞する地域なので、水害対策の応急措置として一七0余の素掘りの排水用の池や濠を掘り廻らした櫛引ヶ原に戦後の食糧増産と民生の安定をもって開始された開拓事業に引揚者、戦災者、地元農家二三男に解放され昭和二一年県営開拓地として発足することとなり昭和二一年七月二三日西村知事祭主となって鍬入式が挙行され、第一次入植者として決定された一一四人の開拓者が開拓団を結成し開墾を開始した。翌二二年度末には第二次入植者として地元より一二八名の銓衡が終り全団員二四二名の開拓地となった。尋いで県耕地課の出先機関として櫛挽ヶ原開拓建設事務所が設置されて建設事業が急速に促進されることとなった。工事計画に基づき組合員の労働力を以って一致団結し、協同の精神を遺憾なく発揮し、相携えて立木の伐採、道路、排水路の建設等を営農と両立させる苦闘の生活が続いて、家族の労働力も涙ぐましいものがあった。櫛挽地区に集中する悪水を排除するため荒川に連なる放水路を開墾することを第一条件として、建設工事の設計に着手したが、幾多の紛糾を続けて進捗を拒まれたが、昭和二二年のカザリン台風続いて二三年のアイオーン台風の襲来はあまりにも廣汎な湛水で七五パーセントが浸水し、連続二年に亘る水災の徹底的打撃が影響して荒川放水路問題も急転直下解決に向い、昭和二四年秋待望の荒川放水路は遂に完成し悲願が達成された。想えば多難を極めた三年の歳月であった。然し次々と襲ってくる霜害、雹害、旱魃等天災が容赦なく発生して収穫に減少をきたし、意気全く銷沈し前途に希望を失ない離農する者もあったが、同志相互苦難の中に承け継いで開拓精神を発揮し手を携えてきた。特に旱魃に遭うと砂質の火山灰土壌のため被害は一層激甚であって野に全く生色なしという惨憺たるものであった。耕作物は勿論井戸水も涸れ果て、生活にも困難をきたしたが昭和三八年櫛挽開拓地区一円に水道施設を完成し次で昭和四一年国営、県営、団体営による農業経営規模の一大改革を目論んだ荒川総合開発事業によって、全地域に導水できる施設が完成し、旱魃の災害より脱却することができて、ここに営農の基礎が確立された。開拓団当時軍用建物の払下を受けた事務所も取壊され、昭和四八年春には現在の事務所が落成した。
道路、排水路、用水路、防風林が整然と平行する緑地帯のなかに取囲まれた事務所を原動力として農協運動を続けているが、開拓者の苦労は想像に絶するものがあった。困苦に耐え欠乏を忍んでひたむきの努力を以って、荒地と戦いながら発展し続けてきた三十年の過去を回顧するとき、誠に感慨無量のものがある。一木一草に至るまで初代入植者の血が通っている足跡を伝えるとともに、未来永劫に愛郷の精神で培われる子孫が限りなく繁栄されることを祈り入植三〇周年記念碑を建てて後世に伝えるものである。
昭和五十一年八月二十四日建立
櫛挽ヶ原開拓農業協同組合長記
⑦碑文(裏面) 昭和五十一年三月末現在の入植者氏名
⑧現在の状況 ふかや農業協同組合櫛挽プラザに建立。
埼玉県
「開拓碑」 埼玉県入間市・桂開拓
「開拓碑」
埼玉県入間市・桂開拓
埼玉県の戦後開拓地の入植状況は、1945(昭和20)年から54年までの10年間で、入植戸数1767戸、離農戸数445戸、差引定着戸数1322戸だった(「開拓三十年」78年発行)。
開拓地は県東部、西部には少なく、中部に多かった。中部地区は、旧・軍用地が集中していたことや、地形的に台地が多かったことから、開拓用地として払い下げられる面積が大きかった。
県南部で東京都と接する入間市は、都心への通勤圏内にある。同市においても、戦後、狭山飛行場跡地や民有地で開拓事業が実施された。49年、当時は入間郡に属していた金子村の西南端地区の民有林70㌶が、政府買い上げにより開放され、地元の二・三男及び復員軍人等20戸が入植した。同地区を流れる桂川(現・霞川)にちなんで、桂開拓と命名。同年、桂開拓農協を設立した。
食糧をはじめ、肥料や農機具が不足し、開墾は苦労の連続だった。入植者は鍬による手作業で開墾を行った。51年から53年にかけて、待望の電灯が灯り、ランプ生活から解放された。組合員は毎日、開墾作業に励み、営農は陸稲やスイカ栽培へと進んだ。やがて、茶栽培や畜産も盛んになった。現在、肉用牛肥育などが営まれている。
80年、開拓地に「桂公会堂」が完成。82年、公会堂の敷地内に記念碑を建立し(写真㊤左)、除幕式を挙行した。
記念碑の碑銘は「開拓碑」で、下側に碑文が浅く刻まれている。中段には、「当時、終戦直後のため、農業経験の未熟に加え、諸物資は不足し、特に農業経験の浅い入植者の生活は極度に困窮に達した。併し、我々は一致協同開拓精神を発揚し、この苦難を乗り越え只管(ひたすら)開拓事業に邁進した」とある。裏面には、入植者の氏名・出身地が記されている。ここの情報を掲載した「開拓情報」
桂開拓 11-225-1
①調査日 令和4年11月29日
②所在 入間市木蓮寺1039-1
緯度・経度:35.79486335468584,139.332426870011
③地区の沿革 地元の二三男及復員軍人並に引揚者等20名が入植
④設置年月日 昭和57年4月
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 開拓碑
昭和二十年八月終戦を迎え極度の食糧不足を補うため国は緊急開拓事業実施により金子村の民有地七十余町歩を買収しこの地に金子村より十五名、元狭山村より三名、その他の地区より二名計二十名が入植した。
この二十名は地元の二三男及復員軍人並に引揚者等であった。昭和二十四年農協法の制度により桂開拓農業協同組合を設立した、当時終戦直後のための農業経験の未熟に加え諸物資は不足し特に農業基盤の浅い入植者の生活は極度に困窮に達した併し我々は一致協同開拓精神を発揚しこの苦難を乗り超え只管開拓事業に邁進した。又国の助成により住宅電灯の外営農に必要なる物資の供給を得現在の基盤を獲得した。これから先我々は日本農業の先駆者として新農村の建設に邁進し益々当地区の発展を期し各農家の健全と安定を期すると共に子孫の繁栄を祈りこの地の足跡と由来を後世に残すためこの記念碑を献立することにした。
昭和五十七年四月
元埼玉県開拓農業協同組合連合会会長
西嶌道助書
⑦碑文(裏面) 十八戸の入植者の氏名
⑧現在の状況 桂公会堂地内で管理されている。
埼玉県
新光開拓
新光開拓 11-225-2
①調査日 令和4年11月29日
②所在 入間市
緯度・経度:35.8583250660031,139.360464650020
③地区の沿革 昭和22年民有林に入植。
④設置年月日 昭和46年11月25日
⑤設置者 飯能新光開拓農業協同組合
⑥碑文(表面) 新光開拓記念之碑
埼玉県知事 栗原浩書
この地に旧水富飯能に亘る民有林九十五町歩八反七畝十七歩を緊急開拓事業実施のため国が買収水富飯能地区に指定 昭和二十三年十二月二十日入植者二十八名は鶴ヶ島伝習農場において組合を結成飯能新光開拓農業協同組合と命名初代組合長に故松原米吉氏を送出し基盤造りに入る 昭和二十五年三月に水富村の二十町八反七畝十歩を飯能町へ編入のため陳情し同年五月行政府の認可を受け以降飯能町大字新光となる昭和二十九年一月行政区変更により一部入間市大字新光となる(七十六町八反七畝十三歩)
主なる事業
昭和二十六、七年幹線道路建設(総延長約三千四百米)
昭和二十八年十二月三十日電気導入点灯
昭和三十六年八月新農村建設補助事業にて共同集荷所建設(現新光会館)
昭和三十七年一月二十日組合設立十五周年祝賀会を挙行
昭和四十六年八月十日共同墓地移転完成新光霊園と名づく
時代の進展と共にこの地も著しく変貌よって新光発展過程の一部を記しこの碑を建つ。
碑文左側には組合員29名、建設委員8名の氏名が刻んである。
昭和四十六年十一月二十五日
飯能新光開拓農業協同組合
埼玉県開拓農業協同組合連合会
会長 西嶌道助 謹書
⑦碑文(裏面) 無し
⑧現在の状況 新光霊園内に建立されている。
埼玉県
新河岸川開拓
新河岸川(しんがしがわ)開拓 11-235-1
①調査日 令和4年11月29日
②所在 富士見市
緯度・経度:35.860956972492,139.5574374635759
③地区の沿革 大正12年に行われた当地の新河岸川改修によって廃川となった敷地を活用して、国の食糧増産の要望に応える為、昭和26年に県農地開拓課により新河岸川第一地区開拓計画が立案されるも進展はなかったが、昭和52年県の指導で、新河岸川廃川敷土地改良区を結成し同年9月に認可された。
④設置年月日 昭和54年3月24日
⑤設置者 不明
⑥碑文(表面) 旧新河岸川開拓記念碑
旧新河岸川の歴史は南畑の歴史につながる、かつての新河岸川は蛇行し、水量も多く、江戸時代より川越から浅草花川戸に至る重要な舟路であった、川辺には伊佐島、蛇木、本河岸、鶉の各河岸場があり、近村の商品輸送で栄えた、旧川には木の太鼓橋があり、橋の両側には茶店などの商家が軒をつらねていた、この南畑橋はちょうど上り下りの舟が行きかう地点でありました、舟溜の場でもあった、舟の灯が川面を照らし、夕闇を蛍が飛びかい、舟唄が大声で言葉をかわし舟唄も聞こえて、風情をそえていた、一方、度々の洪水災害を蒙っていた為、南畑村長をはじめ関係町村長によって河川改修の請願が県知事に出されて採択され、大正八年に改修計画が本決まりとなった、しかし改修の結果水深が浅くなり舟運が困難のため昭和九年に通船停止となった、また、南畑橋も大正十四年に新川に架替えられた、大正十二年に行われた当地の新河岸川改修によって廃川となった敷地を活用して、国の食糧増産の要望に応える為、昭和二十六年に県農地開拓課により新河岸川第一地区開拓計画が立案された、この開拓事業は既耕地を併買収し、国有廃川敷を加え、区画を整理して増反売渡をするものであった、その後開拓法の廃止、農地法の改正等諸般の情勢により、開拓計画が思うように進まないうちに二十有余年を経過した、かねてより、新河岸川開拓事業促進委員会を結成し、開拓促進の陳情をしていたところ、昭和五十二年に県農政課並びに県立地改良連合会の指導により、新河岸川廃川敷土地改良区を結成し同年九月に認可された、ただちに確定測量を行ない登記を済ませ、すべての事業を完了した、そして昭和五十四年三月二十四日に改良区を解散した、ここに開拓事業の完成を記念し旧川のほとりに記念碑を建立する、よどみなく流れる新河岸川とともに、この碑が当地の産業開発の歴史を後世に伝えてくれることを念願する。
勲六等 松澤 卯三郎 撰文
新河岸川開拓事業面積
農林水産省有地面積 八七、三三六平方メートル
建設省有地面積 六三、二九四平方メートル
埼玉県有地面積 三、〇九三平方メートル
民有地面積 一、一四七平方メートル
合計面積 一五四、八七二平方メートル
⑦碑文(裏面) 関係者個人名
⑧現在の状況 新河岸川と県道334号線の交わる南畑橋の傍に建立。






















