関東地方
埼玉県
鶴ヶ島
鶴ヶ島 11-241-1
①調査日 令和4年11月29日
②所在 鶴ヶ島市
緯度・経度:35.9320667842664,139.412298822470
③地区の沿革 川越鶴ヶ島地区134haの民有地が解放され引揚者17、復員軍16、地元関係者11、計34戸が昭和22年秋より一班より四班に分れ入植した。
④設置年月日 昭和53年7月10日
⑤設置者 鶴ヶ島開拓農業協同組合
⑥碑文(表面) 開拓記念碑
題字 前埼玉県知事 栗原浩 書
昭和二十年終戦により食糧増産の措置として農地改革に伴う緊急開拓が施行され川越鶴ヶ島地区一三四ヘクタールの民有地が解放され引揚者十七、復員軍人六、地元関係者一一、計三四戸が二十二年秋一班より四班に分れ入植し鶴ヶ島開拓団を結成す、二十三年農協法の制定により鶴ヶ島開拓農業協同組合と改称す 地区内は四十年~五十年を経た赤松林の伐採地跡で配給の鍬と斧で食糧不足に耐え寒風に晒され必死に開墾に励んだ 當初は掘立小屋にランプの不自由な暗い生活で一日も早く明るい電氣をと運動の結果二十七年点灯に一同欣喜雀躍した 作付時期が到来しても肥料の配給もなく川越市の塵芥を共同購入し各戸三十アールの作付を行ったが旱魃と肥料不足の為皆無に等しい結果であったその後西瓜を取入れ好成績を得たので一代交配「新都」に統一し近隣農家を含めた共同体制で神田市場に出荷し鶴ヶ島西瓜の名声を博した亦東京都柏井技師の指導により県下初の西瓜接木の技術を習得し生産向上に大きく寄與した 数年後スイトメロンを併せ取入れ常に技術の研究に努め鶴ヶ島メロンの声価を高め県特産品として知事より宮内庁を通じ天皇陛下に献上御嘉納の栄に浴したやがて営農の改善も併せて行い跡作物の利用酪農の振興等安定の基盤を確立した
二十九年勤労感謝の日を期し開拓七周年感謝祭を擧行し関係地主等百余名を招待感謝の微意を表した亦三十八年二月十五周年記念式を行い関係機関及後世区関係者六十余名を招き懐旧談の内に謝意を表した當日栗原知事揮毫の「以和為貴」の祝軸が贈られた尚記念事業として組合事務所敷地二三〇坪を町に寄贈し現在児童遊園地として広く利用されて居る 三十二年町より自主独立の一環として工場誘致條例による敷地の提供を要請され組合員六名及増反者若干名が協力し建設されたのが現在の養命酒第三工場である その後社会情勢の変化に伴う人口の急増と校舎の老朽化による新しい用地が求められ組合員三名が協力四十四年第二小学校が竣工した時代の変遷により駅通は商店街と化し経済の中心地となり二班、三班地区は住宅公団の手に依り七〇〇〇戸の住宅地が造成にて今後大きく変容するであろう 三十年を振り返り本組合が不十分とはいえ初期の目標を達し得た事は関係機関の指導と當初の基本である(和)に従って協力一致した事が最大の要素であった 農林大臣知事町長等より多数の感謝状表彰状の栄譽に浴した事は大きな誇りであり幾多の困難と闘いながら受継がれ平和と繁栄の礎とならん事を願い三十年記念碑を建て後世に伝へるものである 昭和五十三年七月十日 鶴ヶ島開拓農業協同組合
⑦碑文(裏面) 水を飲みかゆをすすりて拓きたる 土は愛しも生きる限りも(大野たつ)の俳句が刻まれている。
入植者27名氏名、開拓碑建設委員名
⑧現在の状況 鶴ヶ島市鶴ヶ丘にある鶴ヶ丘開拓霊園に建立。
「開拓記念碑」の隣に「鶴ヶ丘開拓霊園之縁起」が建立。
碑文 昭和二十一年、食糧増産の非常手段として制定された緊急開拓事業関聯の法律に基づいて、川越鶴ヶ島地区内(現鶴ヶ丘、松ヶ丘、南町、吉田新町)百三十四町歩の民有林が開拓地として開放され、昭和二十二年、海外からの引揚げ者、復員軍人、戦災者等が入植開墾作業に従事した。当地区は、樹齢四、五十年の松、杉、桧、楢等の伐採跡地で手作業による開墾作業は困難を極めた。食糧、衣料、農機具、肥料等総ての物資が極度に欠乏する中で、組合員は飢えと寒さに耐えながら懸命の努力を続けたが収穫は微量で、生活は困窮し、数年間極限の状態が続いた。こんな悲惨な状況の中で、組合長横山時二氏は冷静に将来を展望して墓地の必要性に着目し、県陳情を繰り返した結果、当時異例の扱いとして、「鶴ヶ島開拓農業協同組合墓地」が認可され、一、五〇四平方米の土地が埼玉県より鶴ヶ島開拓農業協同組合に売り渡された。組合員の手で開墾、造成、区画を行い、夫々配分して使用権を与えた。残地は公共福利の建前から鶴ヶ丘地区内に居住する住民で必要度の高い者を選考して使用権を与えた。昭和五十三年、開拓農業協同組合解散に当り、所有権は組合員二十五名の共有となった。当地は長龍寺跡地で鶴ヶ島市内で最も古い地蔵菩薩があり、管理委員会が管理し祭られている。本園は安らぎの里として総ての使用者に末永く愛用されることを理想として開園したものである。横山時二氏の献身的な尽力によって実現したことを銘記し、その功績を讃え景仰する。
撰文 今泉清詞
埼玉県
高富ケ原
高富ヶ原 11-242-1
①調査日 令和4年11月29日
②所在 日高市
緯度・経度:35.8768074390569,139.386089904283
③地区の沿革 昭和22年に民有地に44戸が入植する。
④設置年月日 昭和33年12月10日
⑤設置者 高富ヶ原開拓農業協同組合
⑥碑文(表面) 開拓十周年記念碑
⑦碑文(裏面) 開拓十年の跡
此の開拓地は旧高萩水宮柏原の三ヶ村に亘る民友林百六十四町四反一畝を國が買収昭和二十二年十二月十日鍬入式を行い時の入植戸数四十四戸で開拓団を組織旧村名に因み高富ケ原と命名二十三年四月七峰帰農組合員五戸が加わり同年九月開拓農業協同組合を設立二十六年十一月第一期電気導入二十七年三月國より土地の売渡しを受け二十九年十二月第二期電気導入依って全戸点灯の運びとなる三十二年三月開拓成功検査を受け全戸通過茲に開拓十周年を迎へこの碑の設立を見る
昭和三十三年十二月十日
地区名 第二高萩地区
高富ヶ原開拓農業協同組合
⑧現在の状況 高富区自治会館の敷地内に建立。
埼玉県
旭ケ丘
旭ヶ丘 11-242-2
①調査日 令和4年11月29日
②所在 日高市
緯度・経度:35.912569853474,139.36375178174
③地区の沿革 昭和20年12月に旧陸軍高萩飛行場跡へ復員軍人、引揚者、近隣の二三男等124名が入植した。
④設置年月日 昭和53年12月1日
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 開拓碑
⑦碑文(裏面) 昭和二十年終戦を迎えるや、首都衛星基地であった旧陸軍高萩飛行場跡へ十二月一日国の緊急開拓政策のもとに県下でもいち早く高萩開拓団を組織し、鍬入れを行った。当地は旧高萩村及び旧高麗川村の一部に亘り、総面積は出耕作地も含め六十余万坪に及び主として復員軍人、引揚者、近隣の二三男の百二十四名で構成し、字を旭ヶ丘と命名した。
当時世相は況屯とし、農業経験の未知に加えて食糧物資は極度に不足 し、更に打続く各種災害等に依り、経営基盤の弱い入植者の生活は困窮を極めた。然し同志一同克くその苦難に耐え、昭和二十二年より国の助成による住宅の建設も始り、二十三年秋には待望の点灯工事を了え、同年農協法の施行により開拓団を旭ヶ丘開拓農協に改組し、苦難の中にも一歩一歩建設への段階を進め、二十七年国の開拓完成検査に全員合格した。更に心の拠り処として部落中央に旭ヶ丘神社を建立し、幹線道路も逐次整備を進め、四十年代に入り蔬菜を中心とする営農も漸くその基礎を固めることが出来た。昭和四十四年開拓農協を解散し各自一本立ちの農家として再出発出来たのも、一重に各行政当局、各種諸団体、諸先輩の尽力指導の賜であることは勿論、入植者一同の団結と努力の成果であろう。茲に当地の足跡を後世に伝えると共に旭ヶ丘の将来の繁栄を祈念しこの碑を建てる。
昭和五十三年十二月一日
※碑文の下には90戸の入植者、建設委員の氏名が刻まれている。
⑧現在の状況 旭ヶ丘神社横に建立。
埼玉県
都開拓
都開拓 11-341-1
①調査日 令和4年11月30日
②所在 比企郡滑川村
緯度・経度:36.0427419716252,139.370097218586
③地区の沿革 唐子飛行場跡地の旧宮前地区に昭和25~26年に15戸が入植。
④設置年月日 昭和58年4月
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 都開拓記念之碑
旧村の宮前、唐子両村を境して、民地約二〇〇ヘクタールが大東亜戦争に軍用の唐子飛行場となったが終戦とともに、戦後国民の食糧事情が飢餓の状態であったので、開拓による食糧増産が国策となり、唐子飛行場跡地も開拓入植の土地となりのこの旧宮前地区には昭和二十五年、二十六年にわたり、旧村宮前、唐子の人達家族ごと十五戸が入植となった。この地は字名を都と称し、唐子分は新郷と称した。とくに、表土をけずられてあるこの都は、黄塵にして荒れ、開拓家族は、石油ランプをたよりに起居し、農具も鍬や万能の、手による作業で、血と汗にまみれ排水工事を施行、困苦の日々の闘いであった。開拓当初、都開拓者は唐子開拓農業協同組合を設立したが旧村がそれぞれに町村合併により東松山市と滑川村とになり、組合も松山開拓農業協同組合と合併した。電灯も入り辛苦の十数年、作物も実りが得られるようになった。この頃より国の経済の動向は農業から工業生産と変化した。市村も将来の発展的計画に基づき県企業局の協力のもとに工業団地として組合にその協力を求められた。血と汗の結晶の土地であるが組合として協力の決がとられた。その後地区内を関越高速道の通過があり全員が協力した。
以上のように開拓者一致の協力はこの地域と住民の発展を大きく進展させたことは事実でありかっての苦闘の努力は歴史を綴り不滅に輝き続けてゆくことであろう。都開拓三十周年記念の開拓者建碑にあたり碑文とする。 滑川村長 小久保正男 昭和五十八年四月吉日建立
⑦碑文(裏面) 入植者14名氏名
⑧現在の状況 旭電子技術の横に建立されている。
埼玉県
児玉開拓
児玉開拓 11-385-1
①調査日 令和4年11月30日
②所在 児玉郡上里町
緯度・経度:36.2251803116240,139.139619471056
③地区の沿革 旧陸軍児玉飛行場跡地に復員軍人引揚者疎開者、周辺町村の次男三男ら116名が入植した。
④設置年月日 昭和52年4月20日
⑤設置者 児玉開拓農業協同組合
⑥碑文(表面) 拓魂
埼玉県児玉開拓農業協同組合
⑦碑文(裏面) 当開拓地は太平洋戦争遂行の為航空後方基地として終戦二年前に完成した旧陸軍児玉飛行場跡地である戦後緊急食糧増産対策として 基地残留部隊員を基幹として復員軍人引揚者疎開者及び周辺町村の次男三男百十六名を以って昭和二十年十月開墾に着手した。以来三十年困苦に耐え欠乏を忍んでひたむきの努力を重ねて今日に至る。
ここに三十周年を迎へるに当り今は亡き友と共に入植者の足跡を記し子孫の繁栄を祈りこの碑を建立するものである。
昭和五十二年四月二十日
児玉開拓農業協同組合
七本地区32名、北共地区23名、南共地区30名、丹荘地区21名、長幡地区8名の組合員氏名が刻まれている。
⑧現在の状況 上里町立野南公民館の敷地に建立。
(右側は「西瓜」(児玉郡西瓜接木栽培普及会)と刻まれた丸い記念碑が建立。裏面には文字が刻まれているが、判読が困難である。)
千葉県
八万台
八万台(はちまんだい) 12-206-1
①調査日 令和3年10月11日
②所在 木更津市八万台
③地区の沿革 昭和24年1月先遣隊7名は開放国有地下郡船ケ谷に協同経営にて入植、25年1月民有地の解放で下郡間向台に移転し、27年9月全員移転。
④設置年月日 昭和63年12月
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 八万台開拓記念碑
木更津市長 石川昌書
⑦碑文(裏面) 昭和二十四年一月十日先遣隊七名は開放国有地下郡船ケ谷に入植協同経営にて開拓の第一歩を踏み出した
これは農地改革による未墾地の開放制度により満州開拓引揚者の就労と食糧の自給化と自作農を完成する国の方針であった
昭和二十四年五月八万台開拓農業協同組合を設立同六月民有地の開放により翌二十五年一月下郡間向台に移転
昭和二十七年九月全員入植完了 昭和二十九年当初計画の総面積約三十ヘクタール一戸当り二ヘクタールの未墾地の開墾地の開墾住宅の建築もほぼ完了し耕地を個々に分割し協同経営より個人経営に切り替え個々に独立した
ときたまたま時勢の推移に伴い開拓地域の変貌あるを思い入植四十周年を記念しそその業績を永く後世にとどむるため入植者の氏名を刻し茲に開拓記念碑を建立するものなり
昭和六十三年十二月吉日
入植者氏名15名記載
⑧現在の状況 藤造園建設㈱、糸日谷農園がある。
千葉県
鴻の巣地区
鴻の巣地区 12-217-1
①調査日 令和7年4月22日
②所在 千葉県柏市十余二313-42
緯度・経度:35.88532906154842,139.969180849365
③地区の沿革 碑文に記載
④設置年月日 昭和58年12月吉日建立
⑤設置者
⑥碑文(表面) 鴻の巣開拓記念碑
昭和20年8月15日第二次世界戦争終結し復員した東部第14部隊出身者並びに旧田中村在住近隣子弟皈農者20名により 元練兵場たる鴻の巣地区の開拓に入植する 戦後の混乱の中 荒野をあらゆる困難と闘い 一鍬一鍬に精魂を込め耕すこと数年 一物の収穫もない粗野を肥沃の地となさしむ爾来幾星霜 時の流れと共に都市化され 昭和54年開拓営農事業も発展的に解散となる
茲に開拓記念碑を建立し 永く開拓を記念する
昭和58年12月吉日建立
⑦碑文(裏面) なし
⑧現在の状況 隣には「こばとこどもえん」がある。
千葉県
富士見ヶ丘
富士見ヶ丘 12-225-1
①調査日 令和3年10月11日
②所在 君津市富士見が丘
③地区の沿革 昭和18年東京都在住者を主体に16戸、戦後、昭和24年までに20数戸は入植した。
④設置年月日 平成5年11月
⑤設置者 開拓五十周年記念実行委員会
⑥碑文(表面) 開拓の碑
君津市長 白石光雄書
ここ「富士見ケ丘」の隣接地では、いま「かずさアカデミアパーク」の建設が急ピッチで進められており。最新科学の粋をあつめた諸施設の完成が内外から注目されている。かって陸の孤島といわれた当地区も、いま再び新たな発展へ向かって動き出そうとしている。開拓五十周年を迎え、いまこそこの地区の開拓に心血を注いだ人々の苦労と開拓精神を讃えるべく、この碑の建立となった。
昭和十二年に始まった日中戦争以来、国民の食糧をはじめ生活必需品の欠乏は日々深刻となった。食糧増産と来るべき空襲に備え、政府は昭和十六年農地開発営団を設立し、全国の開拓適地を調査選定し入植者を募ったのである。
当地区には昭和十八年、東京都在住者を主体とした十六戸の人々が入植し、その後、終戦をはさんで昭和二十四年までに入植者は二十数戸に増加した。みな「ボサラ」で囲った掘立小屋に住み、ランプ生活を続け、生活用水や物資の不足に苦しみながら一鍬一鍬原野を切り拓き「国は負けても俺たちは負けないぞ」を合言葉に汗を流したのである。その頃、朝夕望んだ富士の姿は心の無上の支えでもあった。住み慣れた土地と職業を捨て、体力の限界に挑み乍ら開拓に専念し、ついに優良農地「富士見ケ丘」を完成させた初代の人々の努力は、永遠に語り継がれるべきものと思う。
この碑を建立するにあたり、今日まで開拓に全面的にご協力を頂いた地元自治体はもとより、長石・草敷をはじめ近隣の皆様に深く感謝の意を表する次第である。
平成五年十一月吉日
⑦碑文(裏面) 開拓五十周年にあたり先人の苦労と努力を讃えて、この碑を建立する
開拓五十周年記念実行委員会
初代入植者氏名31名の氏名、建立協力者26名の氏名を記載
⑧現在の状況 地区内の養鶏場の傍に設置されている。
千葉県
千葉県四街道市・鹿放ヶ丘開拓 「生命乃開花」
生命乃開花
千葉県の戦後開拓地は、旧軍用地が多かった。千葉市、四街道市、佐倉市にまたがる広大な「下志津原」は旧陸軍の演習地だった。
1945(昭和20)年の終戦直後、戦災者や復員兵が入植し、下志津原開拓団が結成された。
その中心部(四街道市)に、茨城県内原町(現・水戸市)にあった「満蒙開拓青少年義勇軍訓練所基幹学校」の生徒約170人が入植した。
翌年、開拓団から独立した。47年に地区名を、江戸時代に鹿狩りが行われていたことにちなみ、鹿放ヶ丘(ろっぽうがおか)と命名。48年には鹿放ヶ丘農苑開拓農協を設立した。
同開拓地は荒野で農業用地として適していなかった。
一見、平坦に見えても長雨や強風などの自然災害が多く、初期の開拓は困難を極めた。
災害克服のため、共同作業でかんがい施設や防風林などを設けた。
51年には住宅を建設し、同訓練所の延長のようだった共同経営から個人経営に移り始めた。
強い団結力で共同作業を継続し、経営の確立をめざした。
その後、開拓農協は総合農協と合併。現在、都市近郊(千葉市から北へ約7㌔)の同開拓地では、後継者が酪農、養鶏などの畜産、落花生、野菜中心の畑作を営んでいる。
開拓記念碑は、70年の鹿放ヶ丘開拓25周年記念行事で、業績を後世に伝えるものとして建立された。
碑文は「生命乃開花」と25年の歩みの説明書き。裏面には、組合員及び賛同者の氏名が刻まれている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
鹿放ヶ丘(ろっぽうがおか) 12-228-1
①調査日 平成28年2月18日
②所在 四街道市
緯度・経度:35.67788752737427,140.145275868090
③地区の沿革 旧陸軍演習地が解放され15から18才の青少年が主体となり、外に引揚外地開拓者及び縁故者が入植した。
④設置年月日 昭和45年11月10日
⑤設置者 鹿放ヶ丘農苑開拓農業協同組合
⑥碑文(表面) 生命乃開花
鹿放ヶ丘農苑開拓二十五周年記念碑
我等は当時の国策に添い満州開拓の志をたてて、茨城県内原の満蒙開拓青少年義勇軍訓練所に入所し、所長加藤完治先生の薫陶をうけたが、昭和二十年八月十五日大東亜戦争の終結を機に内地開拓に転換し、軍用地下志津原の一画二百六十余ヘクタールの荒野に入植した。内原以来の指導者高井篤先生を中心に、当時十五才から十八才の青少年が主体となり、外に引揚外地開拓者及び縁故者が加わった。
発足時は全共同経営で軍用牽引車、馬を駆使して開墾営農を進めると 共に乳牛豚鶏を導入し、畜舎仮宿舎庫を建て農産加工製造販売等に至るまで、漸く事業の進捗を見た。さりながら混沌とした世情と極度に物資の欠乏している際の開拓事業は誠に困難を極め、一致団結困苦欠乏に堪え抜く努力と、先覚者関係当局地元の指導助力と相俟って、当初の難関を克服し成功への曙光をみることが出来たのである。昭和二十六年には住宅を建設し、逐次個人経営に移り、組合を中心に機械の導入畜産園芸の拡充等を企画実施し、また、畑地灌漑の施設、大型機械による営農形態の確立等農業近代化に努める一方、部落に神社墓地グランド及び青年会館を設置した。
昭和四十年に開拓の実績が認められ朝日農業賞の表彰を受けて以来、 組合員の生活の安定向上と組合事業の高度成長によって経営の基礎が確立したので、昭和四十四年に、懸案の組合事務所農業倉庫生活センター等を現地中央に新築移転して、開拓事業の目的をほぼ達成することができた。今後、我等は発展の途を極めようとするものである。
ここに開拓二十五周年を迎えるに当たり記念碑を建て組合員、賛同者の名を刻み業績を後世に伝えるものである。
昭和四十五年十一月十日
篆額 高井篤 撰文 安達増三
加倉井翠園 書之
⑦碑文(裏面) 鹿放ヶ丘農苑開拓農業協同組合員名、賛同者名
⑧現在の状況 鹿放ヶ丘神社内で管理されている。
千葉県
千葉県・船穂
千葉県印西市草深(そうふけ)の船穂開拓団は、千葉県の北部で、利根川の南の下総台地にあった。
戦時中はパイロット養成用の印旛飛行場があったが、戦況が悪化してくると、陸軍航空基地と共用となり、多くの若者がここから戦地に赴いて行った。
戦後、この飛行場跡が開拓地となり、百名余の船穂開拓団が入植してきて、250㌶以上を開墾した。しかし、土壌は悪く、肥料は手に入らないので、作物は思うように育たなかった。
初めは陸稲、麦、サツマイモ、ソバなどを作ったが、自給的なものにしかならなかった。地元の農家からは「飛行場の盆栽芋」と笑われた。
1948年に船穂開拓農協を設立し、64年に地元の印西農協に加盟するまで行ったかんがい用水工事などにより、次第に収穫が上がるようになった。
現金収入を得るためにスイカの栽培を行い、トラックに山積みにして市場に運んだ。57年には、スイカで農林大臣賞を受賞する。52年には養豚組合ができ、55年以降酪農や養鶏も始まった。
ところが、67年に「千葉ニュータウン」構想がもち上がり、船穂開拓も予定地に指定されてしまった。このころは高度経済成長の真っただ中で、東京、千葉などの都市が飽和状態となったことから、新たなベッドタウンが必要となり、この辺りが好立地であったため予定地になった。
千葉県と独立行政法人都市再生機構が共同施行することになり、条件などをめぐって団体交渉を続け、69年に売渡し条件が決まった。これに伴い地区の多くの人が転出したが、中には土地の半分を譲渡して、残りの半分で営農を続ける人もいた。72年にようやく諸手続きが完了し、船穂開拓農協は幕を閉じた。
73年2月、これまでの苦労と共に歩んできた仲間への感謝を込めて開拓記念碑が建てられた(写真)。
「千葉ニュータウン」は、入居希望者が少なかったなど様々な問題を抱えながらも、2014年にようやく事業としては終了した。
現在の草深地区を訪ねてみると、100~200㎡ほどの畑が、団地の中に点在していた。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
船穂 12-231-1
①調査日 令和7年4月22日
②所在 千葉県印西市草深815
緯度・経度:35.7945641160900,140.1599680423937
③地区の沿革
④設置年月日 昭和48年2月16日建立
⑤設置者 船穂開拓農業協同組合
⑥碑文(表面) 開拓記念碑
⑦碑文(裏面)
戦火の余●燻る20年秋緊急開拓法の施行により草深飛行場跡250町歩に開墾の鍬が打ち込まれる。入植者は現地除隊戦争罹災外地引揚者で船穂開拓営団と称される。然し不毛に近い土壌と肥料農具種子等の不足により満足な営農はできず作物は陸稲大小麦甘藷蕎麦粟等自給的な物で辛うじて糊口を塗する。
23年10月船穂開拓農業協同組合を設立し組合員は100余を数える。この頃開拓地の配分や測量は完了し耕地は成田道から南北に直角に農道防風林を設置した整然たるものになるが依然瘦地と旱魃による不作に悩まされ飢饉の脅威に晒される こゝに県の指導により●豚乳牛緬羊等の家畜の導入を図り27年以降養豚組合の結成羊毛の共同委託加工牛乳の出荷肉豚の共同販売へと漸次成長する 一方野菜農業の筆頭は西瓜の栽培である 草深特産物をとの組合員の願いと努力により26年船穂開拓農協西瓜部が発足し、今日の船穂西瓜隆盛の基が礎がれる 同年土壌改良地区に指定され県の補助により土壌の改良に着手する 32年西瓜は神田で開催された旭都一都六県品評会で農林大臣賞を受ける 同年人工潅水設備の要望が起り潅水井戸の試掘に成功し33年本格的な畑灌工事が始まり総工費3050万円を以て35年完成する 先に土壌の改良によって荒地を制し今畑灌の工事によって旱魃を制したわけである 換金作物は西瓜落花生大根生姜里芋辣韮等で殊に西瓜後作の沢庵大根は●場の講評を博する 印西牛蒡の栽培も41年以降盛んになり発祥地の名を馳せる 斯く蔬菜農業が安定し商品作物が確立すると畜産は35年の緬羊の剪毛や牛乳処理所の施工後下降をたどり41年以降一部専業畜産家の手に委ねられる 斯く組合は開拓者資金の転貸業務に合わせ営農指導土壌改良畑灌工事等一連の開拓事業を推進し組合員の経営向上に●めて来たが県の指導により38年印西農協と事業調整し39年加入する こゝに組合は一切のい事業を中止し業務の整理に努める 時恰もニュータウン計画が発表され42年開拓地がその予定地に指定されるやニュータウン対策委員会を結成し数次に亘る団体交渉の結果44年暮北総開発局との間に土地譲渡覚書が調印され●そ80余戸の組合員は現所有地を売り渡し営農地へ移転することになり47年度内に完●する 愈々開拓業務の完了を見組合を解散するに当り後世にその足跡を残す可く茲に之を建てる
昭和48年2月16日建立 船穂開拓農業協同組合
⑧現在の状況 原集会所敷地内に建立






















