関東地方
栃木県
青木
青木 09-213-6
①調査日 平成28年8月3日
②所在 那須塩原市青木
緯度・経度:36.9025475335821,139.9451065232769
③地区の沿革 県開拓モデル地区として昭和32年以降入植、水田酪農地帯。
④設置年月日 昭和52年4月18日
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 開拓
栃木県開拓者連盟 委員長 松本 勲 謹書
⑦碑文(裏面) 太平洋戦争の敗戦は国民を奈落の深淵に陥らしむ戦後十余年虚脱と経済復興の兆漸く緒に着かんとするとき國は農家の次三男を対象として広く若き開拓者を募集し新農村創設を企図す これに応え昭和三十二年二月新農班次いで研農班光農班扇班青農班 年次を追って入植し昭和三十八年二月生氣に充ちた同志六十五名こヽに集結せり國はこの地を開拓営農モデル地区とし農地開発公団により開墾を実施す、然し乍ら土地砂礫にして河原の如く痩薄火山灰土は那須颪に舞い作物を襲い旱天は耕土を灼き実り少く加うるに水乏しく電灯もなく道路又歩行を許すのみにして日々環境の整備に奔走し生活の疲弊その極に達せりなれども吾等同志は初心忘れずの一念に新らたな闘魂を燃困憊に堪え相励まして結束し家畜の導入と水田造成により遂に不毛の耕地を肥沃化し今日の経営の基盤を拓く、今や那須野が原の一角に乳溢れ稲たわヽに稔る新しき郷を建設せり 嗚呼、苦節二十星霜、巨松天に聳え昼なお暗く狐跳びしかの日志半にして逝きし同志に涙せしかの日、夢の如く過ぎ越せし苦難と試練の明け暮れ、追憶は泉の如く果てなく哀歓を誘う吾等既に不惑初老の域に達すれど青春を捧げ尽くした半生を悔ゆることなく同志の絆益々堅し、この道なお遙かなれど願わくば次代を担う若人よ誇らしく、更に逞しく、この所産を継ぎ給え 茲に入植二十周年を迎え今日に至る大方の厚い恩愛に感謝の誠を捧げ且つは開拓の二字に子孫悠久の繁栄を託し初代開拓者の名を刻しこの碑を立つ
昭和五十二年四月十八日
青木第二地区開拓者一同 入植者氏名
佐藤辰彦 書 井上 徹男 施工 石川石材店
⑧現在の状況 青木四区公民館地内で管理されている。
栃木県
戸田
戸田 09-213-7
①調査日 平成28年8月3日
②所在 那須塩原市戸田
緯度・経度:37.0246225072707,139.956235976262
③地区の沿革 昭和25年10月県内外から26戸が入植
④設置年月日 平成16年4月29日
⑤設置者 戸田行政区長 漆原 由広
⑥碑文(表面) 戸田開拓記念
⑦碑文(裏面) 戸田の開拓歴史
明治二十年、戸田氏共(伯爵)岐阜県旧大垣藩主は藩士の生活救済を目的に官有原野の拝借許可を得てこの地(八八三町七反余歩)に戸田農場を起こした。明治三三年に農地開墾と山林の維持管理労働力として四戸が移住し開墾事業が始められた、大正二年に三四戸(戸氏)、昭和二一年には二五戸(柳)、更には昭和二三年に政府の農地解放策により地元のみならず、他県等からも希望入植者を募り五五戸(戸田開)の計一一四戸が農産物生産に夢と希望を持ちながら開墾に励んだ。しかしながら、那須火山灰の痩せた多礫扇状地という悪条件のために
大麦・小麦や稗、陸稲、葉煙草等の作物栽培を試みるものの、収量は極めて低く当時の入植者にとっては苦難の連続であった。
昭和三十年代に移って、土壌改良、堆肥作りのために和牛の導入が始まり、その後、乳用牛の導入と続き、広大な農地を背景に生乳生産に意欲を燃やし、現在では県内は勿論のこと本州でも有数の一大酪農基地となった。
入植当時の先人達の苦労と努力により、未来の希望の持てるこの地を開いてくれたことに敬意を表し、ここに開拓記念碑を建立する。
平成一六年四月二九日
戸田行政区長 漆 原 由 広
⑧現在の状況 戸田農村公園内戸田北集会所隣接地で管理されている。
栃木県
藤田
藤田 09-213-8
①調査日 平成28年8月3日
②所在 那須塩原市藤田
③地区の沿革 昭和22~24年に県内出身者25戸が入植。畑作の地力向上のため馬を導入したが、後に乳牛に代わり酪農が盛んになった。一方、水田は水の確保が出来ず、地区面積の4割弱にとどまった。
④設置年月日 平成元年12月1日
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 開拓
栃木県知事 渡辺 文雄 書
⑦碑文(裏面) 太平洋戦争が終結し 全国民が心身ともに疲れ困/窮と不安の真只中にあった昭和二十二年十二月一/り三ヶ年にわたり地元出身の引揚者 軍事産業離職者並びに復員軍人 疎開者加うるに二十/歳前の地元農家の次三男あわせて二十五名は国/の緊急開拓事業に参加 食糧生産確保の意気に燃/え 四町歩という白紙の地に思ふ存分取組むべく/ここ藤田地区に入植した 笹小屋に飢寒を凌ぎ/松根を燈火とし 貧しい農具で楢や檪の根っ子と/取組んだ ここは名にしおう那須野の篠原 一皮/めくれば石また石 労多くして捗らず月の光で耕/し 一日千秋の思いで稔りを待ったが 荒痩にし/て酸性燐酸欠乏の土壌では思ふように稔らず 今/度こそはと歯を喰いしばって それでも頑張った/しかし 凍霜害 冷害と天の試練は厳しく 一め/んの白穂に呆然と立ちつくすこと幾度か 挫ける/心に鞭打ち励まし合い努力した その甲斐あって/黄金の稲穂が波打ち緑の牧草を喰べながらのどか/に鳴く乳牛の声が聞える豊穣の沃土となった 業/なかばにして離農せる者三名 現在二十二名とな/る 待望の綜合開発事業も完成間近か 道路は縦/横に通じ 水道電気など文化の恩恵を受ける理想/郷となった かつて我々同志が入植予定であった/この地は小学校となり その小学校は統合され/て廃校 後公民館となる 今ここに黒磯市福/祉センターを予定せる 藤田開拓地区内の縁り深/きこの地に入植四十周年を記念し 恩顧ある人々/に感謝の誠を捧げるとともに開拓魂を後世に伝/え 子孫悠久の繁栄を祈念し 初代同志の名を刻/してこの碑を建立する
平成元年十二月一日
藤田開拓者一同
撰文 書 開拓者 前田忠利
初代開拓者22名氏名
⑧現在の況 東原地域活動センター隣接地で管理されている。
栃木県
塩原
塩原 09-281-1
①調査日 平成28年6月24日
②所在 塩谷郡塩原町
③地区の沿革 前黒山山腹760~980米の標高。安山岩、塩原溶岩を被覆する火山灰土で地力低く、積雪地域に地元中心に30戸入植。アワ、ヒエ等畑作で気象条件と鳥獣害被害著しかったが、30年頃より大根を導入し、高冷地野菜の生産の中核をなす。
④設置年月日 平成5年3月
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 県営農地開発完成記念
拓魂
副総理大臣 渡辺 美智雄 書
奥塩原土地改良区
⑦碑文(裏面) 沿革 ここは、戦後まもない昭和二十二年春の入植によって開墾さ/れた土地である。厳しい自然条件の中で、昭和三十年頃から大根の導入を始め、/幾多の試行錯誤とたゆまぬ努力の結果、近年、県内有数の高冷/地野菜生産団地として知られるところとなった。しかし、もともと自己開墾のために経営規模が小さいことに/加え、高冷地であるがゆえに作付は春夏作に限定され、無理な/輪作が行われ、連作による生産力、品質の低下が目立ち始めて/きた。そこで、新たな農地を造成し、経営規模の拡大と輪作体系の/確立を 図り、将来とも高品質で安定した生産量を供給できる生/産地の形成を目指して本事業を実施したものである。
髙原山の中腹に広がる高原野菜の里・奥塩原の畑地が、永遠/に緑におおわれることを願い、ここに碑を建立する。 事業概要 地区面積 五十二.二ha内 国有林面積 三十九.八ha 受益面積 四十.七ha 事業費 七億四百三十万円 着工 昭和六十年度 完了 平成四年度 改良区設立 昭和六十年五月九日 許可番号 栃木県五百三十二号
平成五年三月吉日 建之
組合員名19名氏名 施工業者名
⑧現在の状況 農地に隣接する道路脇で管理されている。
栃木県
壬生
壬生(みぶ) 09-361-1
①調査日 平成28年6月9日
②所在 下都賀郡壬生町
緯度・経度:36.4545110574828,139.830197211284
③地区の沿革 標高100米の高位段丘平坦な軍用地に58戸が入植、陸稲、落花生、イモ類を栽培、気象条件も良く比較的安定した収入を確保。
④設置年月日 昭和56年1月15日
⑤設置者 不明
⑥碑文(表面) 自由と平和を求め 新郷土建設をめざし この地を拓く 壬生開拓団
⑦碑文(裏面) 開拓のあゆみ 太平洋戦争が終わった翌年の未だ世情混沌としていた昭和二十一年一月十五日、我等同志は壬生生飛行場跡地に入植し、三五0ヘクタールの広大な原野の開拓を期しここを再起の地として骨を埋める事を誓い合った。それから幾星霜、困苦欠乏と厳しい風雪に耐えながら泥まみれの開墾作業を続け、開拓基盤を整備しつゝ営農形態を確立するなど、不撓不屈の開拓精神を以って日夜弛まぬ努力を重ね、言語に絶する苦難を乗り越えながら精魂を傾けて開拓農業に専念した。
かくて幾多紆余曲折の変遷を経て、長年に亘る新天地創造の成果が、ついに無から有を生む事となって、さしも困難な開拓事業を完成させ、やがて名実共に県下一を誇る開拓地を創りあげる事が出来た。
歳月は流れて漸く国の復興もなり、幾多の辛酸と心血を注いで拓いたこの地も高度経済成長の時代に対応することとなり、戦後の激動を乗り切った開拓団を発展的に解散して、三十五年に亘る開拓の歴史を閉じることになった。
ここに戦後再起を期して歩んだ我々一団の足跡が、悠久の平和と繁栄をもたらす事を祈念してこの碑を建てる。
昭和五十六年一月十五日 建立者88名氏名
⑧現在の状況 壬生町壬生丁 六美会館(公民館)地内で管理されている。
栃木県
関谷
関谷 09-381-1
①調査日 平成28年6月24日
②所在 塩谷郡塩原町大字関谷
③地区の沿革 標高420米で那須野が原高位段丘扇状地礫層、礫を含む火山灰土に46戸が入植。松林を人力開墾し、陸稲、大小麦の畑作を行うも、夏季冷涼且つ地力低く透水過良で旱害多く収量は低かった。28年から乳牛導入し酪農を中心に伸展した。
④設置年月日 昭和40年2月
⑤設置者 組合員
⑥碑文(表面) 開拓
栃木県知事 横川 信夫 書
⑦碑文(裏面) 國破れて山河あり大東亜戦争の終結にあたり戦禍/に追はれて裸一貫となり居を失ひし我々を慈母の/ごとく迎へしここ関谷の原野に集ひよる同志四十/六戸 粉骨砕心鍬をふるふこと二十星霜 鍬の響きもい/つしかエンジンの轟きと変り入植時幼かりし子/弟もはや健やかに成長をとげ祖国再建の礎石たらん/と念願せじ我々初代入植者の使命はまさに達成せ/られんとするにいたる
この秋にあたり「初心不可忘」の訓の一しほ宣なる/痛感し祖國ならびに大方の鴻恩に感謝の誠を捧げ/かつ亦子孫繁栄の祈りをこめてここに先哲の訓ととも/に初代同志の名を刻んでこの碑を建立するものなり
昭和四十年四月
開拓二十周年記念
関谷開拓農業協同組合組合員一同
初代入植者46名氏名
文と書 栃木県開拓者連盟事務局長 渡辺寅八
⑧現在の状況 日の出集落センター内で管理されている。
栃木県
栃木県日光市・鶏頂山開拓
「鶏頂山開拓賛歌」
栃木県日光市・鶏頂山開拓
鶏(けい)頂山(ちょうざん)開拓地は、栃木県北西部の塩谷郡藤原町(現日光市)の鶏頂山山腹にあり、近くを日塩もみじラインが通っている。
標高約1200㍍の高冷地で、起伏の多い火山灰土である。9月下旬には霜が降り、冬期にはマイナス20度の寒さと2㍍の降雪となる。
49(昭和24)年に、満州開拓など外地からの引き揚げ者や県内から20戸45名が入植したが、厳しい自然条件や禽獣(きんじゅう)の被害により、作物の収穫はほとんど得られなかった。下山・離農する人も多く、一時は9戸にまで減ってしまった。
残った人たちは「和と協力」を信念に、悪条件を克服する努力を続け、作物選定は困難を極めたが、関係機関の協力もあり、高冷地野菜として夏出しの早生ダイコンの栽培に成功した。生産物は7㌖離れた川治や20㌖離れた鬼怒川までの山道を歩いて販売して現金収入を得た。
51年に鶏頂山開拓生産農業協同組合(55年に鶏頂山開拓農業協同組合に改名)を設立し、組合共同により京浜中央市場への出荷が開始され、名声を得るに至った。
改名した頃から、当地区は基本営農類型地区の指定を受け、11戸の新規入植者を迎え、機械化を促進して開拓地の総面積は160㌶まで伸びた。
その後、水道、電話などのインフラ、出荷施設の建造、道路整備などが行われ、生活も豊かになってきた。
農産物は東京市場でも好評で「鶏頂山大根」は消費者に大人気となる。
69年には、朝日新聞社主催の営農集団コンクールで野菜栽培集団経営日本一として、当農協が朝日農業賞を受賞した。
同年、開拓20周年を向かえ、式典と共に記念碑が建てられた(写真)。これまでくじけずに開拓を成し遂げてきた誇りを「鶏頂山開拓賛歌」に刻んだ。
現在農家戸数は15戸で、雨よけハウスによるホウレンソウ(約30㌶で年3・5回の生産)をメインにして、畜産農家との連携で有機肥料を活用した野菜生産に進化している。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
鶏頂山開拓 「鶏頂山開拓賛歌」 09-206-4
①調査日 2016年6月24日
②所在 塩谷郡藤原町大字高原
③地区の沿革 鶏頂山山地山腹標高1200米で軽しょうな火山灰土で地力が低い原生林を人力で開墾。雑穀を栽培したが収入に見るべきものがなく27年から夏大根を栽培。高冷地の悪条件を克服、夏大根、ほうれん草の一大野菜産地。
④設置年月日 昭和44年10月
⑤設置者 入植者
⑥碑名 開拓20周年記念碑
⑦碑文(表面) 鶏頂山開拓賛歌
荒 れ た 野 山 を 拓 か れ た 天 地 の 神 み そ な は す
風 さ わ や か な 我 が 郷 土 塾 誠 こ も る 愛 と 汗
起 て 総 親 和 総 努 力 開 拓 の 意 志 う け つ ぎ て
永 久 に 栄 え ん わ が 楽 土
⑧碑文(裏面) 鶏頂山初代開拓者夫婦19組氏名
昭和四十四年十月 開拓二十周年建立
⑨現在の状況 日光市高原共同墓地隣接地で管理されている。
栃木県
五十里
栃木県
大日向
大日向(おおひなた) 09-407-2
①調査日 平成28年9月15日
②所在 那須郡那須町大字高久乙
③地区の沿革 49戸(引揚者27名、疎開8名、地元14名)が那須火山裾野450米の火山砕屑岩を被覆する火山灰土に入植。陸稲、大小麦中心の畑作経営であったが、気象災害が多く低収のため、谷間を開田氏、畑は飼料作物を導入し酪農に切り替えた。
④設置年月日 昭和55年4月10日
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 大日向開拓之碑
大日向賛詩 渡辺寅八
天宣太平 帰故山 同志互援 幾星霜
悠然不動 那須嶺 遷産土築 大日向
森 龍雄 書
⑦碑文(裏面) 大東亜戦争終りを告げ 国策として開拓事/業が実施されるに及びこの地に先に疎開を/してゐた東京都の離島者たちを草分けとし/海外よりの引揚者 地元並びに各県より次々/に入植 幾多の出入の後現在四十八戸の部落/を形成してゐる 此処はもと国有地並びに民/有地であって那須平原の扇の要に当る御富士/山の麓にあり古くから馬の放牧場として利/用され 清水湧き太陽の恵豊かなため大日向/と呼ばれてゐたのをそのままに名づけ 昭和/二十三年五月十六日当協同組合を設立した
爾来三十五星霜 辛酸苦闘 百餘ヘクタール/の農地を開拓し 志した農業もそれぞれ近代/的営農形態を達成するに到った ここに開/拓三十五周年を迎ふるに当り祖国並びに大方/の恩顧に謹んで感謝の誠を捧げ旦つは子/孫悠久の繁栄を祈念してこの碑を建てる
昭和五十五年四月十日
大日向開拓農業協同組合 建立者48人氏名
初代物故者10名の氏名
撰並書 元栃木県開拓連盟事務局長 渡辺寅八
施工 黒磯市 鹿野正保 台石 高橋君男
⑧現在の状況 大日向公民館敷地内で管理されている。
栃木県
柏台
柏台 09-407-3
①調査日 平成28年9月15日
②所在 那須郡那須町大字豊原丙4329
緯度・経度:37.0825816802286,140.081197154427
③地区の沿革 那須火山裾野丘陵標高490メートルの火山灰土。元軍人、地元から29戸が入植。大小麦の畑作経営で毎年冷害を受け、収量に見るべきものがなかった。昭和28~29年の冷害を機に乳牛を導入、酪農の基礎を固めた。
④設置年月日 昭和43年11月15日
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 開拓
栃木県知事 横 川信夫 書
碑文(裏面) 昭和二十年十一月終戦直後の混乱せる世相/の中にありて活路を帰農に求め集い来しは吾/々三十余名/嘗ては国に殉せんとせし将士がここ那須の/荒野開発に身を投じ心中ひそかに祖国再建を/希い不慣れの作業にも拘らず只ガムシャラに/働き続け日夜衣や食に住に幾多辛酸をなめつ/ヽもひたすら拓土建設にいそしみ一同相寄り/相扶け相励まし合いつヽ既に二十有余年幸に/天下四周の温情やもろもろの人々の業績も加/わりてか漸くにして茲にその所期段階に到/達し将来への栄光を求め得る基盤開拓を完了/せり只この上は創りしこの邑より良く育てあ/げ更に伸ばし栄えせしめ以て国家興隆に貢献/せんことを期す
昭和四十三年十一月十五日
柏台開拓者一同 入植者30名氏名
⑧現在の状況 柏台公民館内で管理されている。





















