関東地方
茨城県
玉造新林開拓
玉造新林開拓 08-233-1
①調査日 令和7年4月22日
②所在 茨城県行方市玉造甲
緯度・経度:36.1163942996458,140.4348445145823
③地区の沿革 碑文に記載
④設置年月日 昭和35年8月
⑤設置者 玉造新林開拓農業協同組合
⑥碑文(表面) 玉造新林開拓記念碑 茨城県知事 岩上二郎謹書
⑦碑文(裏面) 碑文
此の開拓は昭和21年7月當時小島徳兵衛氏を委員長とした玉造町農業青年聯盟の一事業として始めたもので土地の所有者宮木庸造氏も此の事業には協力を惜しまなかった現地の大半は戦事中に内原より農兵隊来り簡易開墾した所で戦後は放置されて荒廃に任せてあった偶々食糧逼迫その極に達し増産意欲が高かった折であり猶旧玉造に於て農家経営面積は田に偏重し畑の耕地面積は僅少に過ぎず採草地も亦夛しとしなかった状態で増反の必要性大であった右の理由に依って先づ新林地區を開墾し徐々に中妻夭竜と拡張し遂に組合員聰数351名耕地面積60町歩採草地28町歩を有する模範的な大増反開拓組合を形成するに至った斯くして昭和26年4月6日には玉造新林開拓農業協同組合の認可を得て字名も緑ヶ丘と改稱するなど一應の組織を整備した然るに昭和30年7月小島組合長急逝するに及び大久保正夫氏組合長を継承続いて大場守樹新堀大一氏等逐次代って組合長に就任するや耕地買受け上書類不備の点を生じて居た為め是正の餘義なきに至り再買収され更に再売渡を受けるなどの複雑なる問題に直面せしが昭和34年12月漸くにしてその大半の手続きを終り土地登記まで完了するに至った斯くして長年月に亘った此の開拓事業も常に組合員と役員の一致団結の結果初期の目的を達成したる事は特筆に値すべく ここに記念碑を建立して永くその業績を後世に傳える事となった
昭和35年8月之を記す
玉造新林開拓農業協同組合
⑧現在の状況 荒れ放題の土地の片隅に建立。いま、その土地は重機が入って整地され、何かに活用されようとしている。
栃木県
清原
清原 09-201-1
①調査日 平成28年6月9日
②所在 宇都宮市鐺山町
緯度・経度:36.5348657084944,139.976858513183
③地区の沿革 旧軍用地が解放され昭和21年復員軍人ら73名が入植。陸稲、大小麦、落花生の畑作経営で収入は安定。45年開拓地が工業団となった。
④設置年月日 昭和40年12月15日
⑤設置者 清原開拓農業協同組合
⑥碑文(表面) 開拓碑
栃木県知事 横川 信夫 書
⑦碑文(裏面) 開拓二十周年記念碑建立の趣旨
大詔喚発によって大東亜戦争は終わったがその惨禍は更に失業と飢餓地獄の苦を重ね社会不安は愈深刻となって来た。政府はこの危機突破のために緊急開拓事業実施要領を定め即時之を断行した。吾等は昭和二十年十二月十五日國土開発日本復興の理念のもとに県所管の元宇都宮陸軍航空基地内の清原地区に入植同二十六日清原帰農組合を結成翌二十一年清原開拓団と改称更に昭和二十三年八月十六日清原開拓農業協同組合設立開拓の推進土地改良農業の近代化組織強化と開拓魂錬成につとめ逐次之を実行に移した。本組合は戸数七十四戸開拓面積百七十七町米麦年産五千俵特に落花生は年産二十八万瓩日本一の生産地区として推称されている。その他野菜の栽培畜産養蚕等も盛で主に栃木県開拓農業協同組合連合会その他の系統機関を通して取引されている。爾来営々苦闘和親協力精進すること二十年政府県地元その他の助成支援によって開拓事業も概ね完了し予期以上の成果を収め得たことは吾等の終生忘れることの出来ない感激であり慶びである。ここに組合はこのまごころを現はす総意に基いて開拓二十周年を記念するために開拓の父と仰ぐ栃木県知事の揮毫になる「開拓碑」を建立し之を永く後世に伝え処世の鑑とすることを希うものである。 昭和四十年十二月十五日
開拓者 福田 仁平 撰書
石匠 猪口 起一 刻字
清原開拓農業協同組合 建之
清原開拓農業協同組合 74組合員氏名 2准組合員氏名
⑧現在の状況 工業団地、住宅地で開拓の面影は無く、清原公民館地内で管理。
栃木県
宝木
宝木 09-201-2
①調査日 平成28年6月14日
②所在 宇都宮市若草町
緯度・経度:36.586969815228,139.8597699173326
③地区の沿革 旧軍人ら35人が入植。陸稲、大小麦等主食中心の畑作経営。
④設置年月日 昭和46年3月12日
⑤設置者 開拓者
⑥碑文(表面) 宝木 開拓之碑
衆議院議長 船田 中 謹書
⑦碑文(裏面) この地は 明治四十一年以降宝木練兵場とし/て陸軍の精鋭を育んで来たが昭和二十年大東/亜戦争の終結により我等三十六名が入植し開/拓を行なつた/入植当時は一望の原野でしかも永年に亘り軍/靴に踏み固められた不毛の地であったが同志/相励まし合いあらゆる困苦欠乏に堪えて不慣/れな農事をもよく克服し畜産果樹蔬菜開田等/既存農家におとらざる営農形態を確立して模/範的な開拓地を完成することができた
然るに宇都宮市の発展に伴い都市化の波はこ/の地にも及び現在既に五百数十戸を擁するに/至り嘗ての豊穣の地もやがては市街地として/大きく変貌されようとしているがなお開拓地/の面影を残している現在我等一同過ぎし日の/心意気と努力を回顧し互に讃え合うと共にこ/れを受け継ぐ子孫とこの地に集う全ての人/達が永遠に栄え後世いつの日かその追憶を偲/ぶよすがとして茲に開拓二十五周年を記念し/この碑を建立するものである
昭和四十六年三月十二日
宝木開拓農業協同組合
組合のあゆみ 開拓者夫婦36組氏名
歴代21組合長並に17副組合長氏名
⑧現在の状況 若草町三区公民館内で管理されている。
栃木県
福岡
栃木県
御幸ケ原
御幸ヶ原 09-201-4
①調査日 平成28年6月14日
②所在 宇都宮市御幸ヶ原
緯度・経度:36.5905346409130,139.922489911000
③地区の沿革 復員軍人、引揚者ら43戸が標高120米の低位段丘平坦な民有地に入植。落花生、大小麦中心の畑作地帯。後に開田し、水稲、養蚕に転換。
④設置年月日 昭和52年12月22日
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 開拓記念碑
光陰矢の如しとか宣なるかな 顧みれば昭和弐拾年八月悪夢の如き第二次世界戦争に終止符を打ちたりと雖も国家経済の窮迫は国民生活の凡ゆる物資に欠乏を来たし就中食料事情は最も悪く為に人心日に増し悪化し誠に憂慮に堪えざるものありき 爰に於て政府は急遽国内食糧増産の緊急国策を樹立し國内に点在する不耕未墾地の官民有林の開放を要請し緊急開拓に着手するに至る 時遇當地域に御幸ヶ原と称する狐狸住む(約百町歩)未開の民有林野ありし理解ある所有者の厚意に依り開放の快諾を得るや当地周辺に居住する本県内外の憂国の士は食糧増産の意気に燃え同士を糾合し任意帰農組合なる組織を設立す時に昭和弐拾弐年拾弐月中旬此の地に於て歴史的開拓の鍬入式を挙行し御幸ヶ原開拓の第一歩を踏み出したのである 斯くして一同敢然として開拓に挑みたるも喰うに食無く耕するに機具無く開拓の度は遅遅として進まず其の労苦は到底筆舌に盡し難く此の間雄図空しく開拓の半にして病魔に殪れ他界する同志或は己が体力の耐え難きを憂ひ離農に惜別する同志も哀悼惜別の情堪えがたきものありき 然れども残る同志は終始相助け相励まし終に国策初期の目的を貫徹し愁眉を開き活気を呈するに至る 昭和四拾五年宇都宮市街地区となるや急速なる発展を遂げ今日の御幸ヶ原町を形成したのである 苦闘三十年を顧み今日繁栄しつつある御幸ヶ原を傍観する時同志の胸中うたた感無量なるものあり本年は開拓三十年の周期を迎えるにあたり開拓の闘魂を永久に遺し後者に伝えんと同志一同開拓碑建立の議全員賛同議決し爰に宿年の念願を達成した次第である
昭和五拾弐年拾弐月弐拾弐日
碑誌 小関 憲太郎 作 平石 博典 書
⑦碑文(裏面) 御幸ヶ原地區入植者氏名(アイウエオ)順 44名個人名
⑧現在の状況 御幸ヶ原町公民館地内で管理されている。
栃木県
内野
内野 09-206-1
①調査日 平成28年6月2日
②所在 日光市塩野室町
③地区の沿革 地元、引揚者12戸が入植。陸稲、里芋、甘藷の畑作経営。
④設置年月日 昭和51年8月
⑤設置者 内野開拓農業協同組合
⑥碑文(表面) 開拓記念碑
栃木県知事 船田 譲
⑦碑文(裏面) 昭和21年8月戦後の混乱期に我等14名
国策の一翼を担ってこの地に入植し辛酸を克服し一致団結して原野を開拓した
ここに入植三十周年を記念してこの碑を建立する
昭和51年8月 内野開拓農業協同組合
順不同
白田一男 池田清 手塚寅雄 手塚伝
梅津政義 池田磯吾 斎藤留吉 大草賢六
佐藤直信 伏木甚一郎 黒岩道吉 古田土福寿
皆川光男 小松田勝四郎 土地寄進者 手塚尚弘
⑧現在の状況 水田が広がる地で管理されている。
栃木県
萱場
萱場(かやば) 09-206-2
①調査日 平成28年6月2日
②所在 日光市塩野室町
緯度・経度:36.3973917481990,139.759458558576
③地区の沿革 昭和22年12月樺太の引揚者20戸が標高300米の地に入植。畑作経営であったが凍霜害が多く収入不安定で28年乳牛を導入する。
④設置年月日 昭和42年5月
⑤設置者 萱場開拓農業協同組合組合員
⑥碑文(表面) 開拓記念碑 栃木県知事 横川 信夫 書
⑦碑文(裏面) 開拓の生い立ち
萱場開拓農業協同組合は結成以来茲に二十年の歳月を迎えこれを期して記念の碑を建立し過去を回想し未来を展望するメルクマークとするものである 当組合は樺太からの引揚者に依って構成され其の初代組合長堀川弘政氏は長年医者の職を持ち乍ら村長の公職を任じられ終戦混乱期の治安維持を全うした引揚後入植地確保実現のため東奔西走半歳有余其の結果当地に六十余ヘクタールの貸与を受け昭和廿二年十二月入植許可同廿三年三月鍬入式挙行の運びと成り此の間小西正治山口徳松両氏及び出身県の大先輩林譲治氏の並々ならぬ後援のあったことは深く銘記さるべきであろう
入植当初此の地は茂林虎狼の地で土質の極めて悪い火山灰土であったので困難極めて多く其の為農産物は皆無と言う有様で前期後援者の暖い資金援助を仰ぎ亦生活の糧を得んとせば食なく飲まんとせば水無く光を求めたれども灯なくして苦難を乗り越えなければならなかった
歴代組合長は初代組合長の意志を継ぎ全組合員一致協力してこの様な困難をも克服し開拓事業も軌道に乗り順調に進捗して今日萱場開拓を見るに至ったのである
茲に堀川弘政氏業蹟大にして其の功を讃えるべく碑を建つるに当たり今市市仲町池田正一郎氏の後援を併記す
昭和四十二年五月
萱場開拓農業協同組合組合員建之
組合員22名氏名
記念碑建立に対する協力者4氏芳名
⑧現在の状況 内野萱場公民館地内で管理されている。(全景 左側は「畜魂碑」)
栃木県
芝河原
芝河原(しばかわら) 09-206-3
①調査日 平成28年6月2日
②所在 日光市五塩野室町
緯度・経度:36.741696016453,139.7951223848967
③地区の沿革 昭和23年に地元次三男ら12名が解放された民有地に入植。大小麦中心の畑作経営であったが、礫多く透水過良で干害を受け収量は低かったが、開田され水稲栽培となる。
④設置年月日 昭和50年1月11日
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 芝河原開拓之碑
この地は五十里洪水によって出来た肥沃な土壌の為通常「河原山」と称し代々塩野室の地主がこれを愛し育てた山林でしたが 戦後の農地改革によって開放された為 これを惜しむ地主の次三男と引揚者が食糧増産と農地改革の旗印の下に入植し 乏しき営農資金と鍬一丁によって名実共に朝に霜を踏み夕べに月影を宿し乍らあらゆる 困苦欠乏に耐へ開墾し 入植二十年は芋や陸稲を主作とした畑地でしたが農業近代化と高度成長政策に支へられ今日の美田と化したのであります 我等十二名はここに記念碑を建て当時の労苦を偲びその「逞しい開拓精神」を後世に伝へるものであります
昭和五十年一月十一日
今市市長 斎藤昭男 撰文謹書 台石 一圓融合
⑦碑文(裏面) 開拓のあゆみ
昭和二十三年二月二十日 入植 仝帰農組合設立
昭和二十三年九月六日 芝河原開拓農業協同組合設立
昭和三十五年二月 土地改良事業着工
昭和三十八年十二月 土地改良事業完了 現在に到る
開拓同志夫婦12組氏名
昭和五十年一月十一日建之
⑧現在の状況 芝河原公民館隣地で管理されている。
栃木県
戦場ヶ原
戦場ヶ原 09-206-4
①調査日 平成28年12月21日
②所在 日光市中宮祠大字戦場ヶ原
緯度・経度:36.7782320680476,139.457052476596
③地区の沿革 昭和21年5月標高1400米男体山山腹に20名が入植。県内向け種子馬鈴薯栽培。24年から大根栽培を開始し、大根の一大産地となる。
④設置年月日 昭和51年5月
⑤設置者 戦場ヶ原農場
⑥碑文(表面) 戦場ヶ原開拓之碑
栃木県知事 船田 譲 書
戦場ヶ原開拓の詩
朝日の輝く男体山の 裾野を拓く我等が同志 燃ゆる血汐で鍬を取る 如何に心は逸れども 草木の根株に阻まれて 進まぬまゝに日は暮れぬ 餓と寒さは容赦なく 今宵も凍る仮の宿 雪溶け去りて草木萌ゆ 土の香り漂えば 大草原に鍬光る 耐乏幾歳乗越えて 光さしたる大地にも 緑の波にそよぐ風 苦闘の跡が偲ばれる カラ松の 芽ぶく梢で鳥歌う 聞け 三十年の夜明けのうた 心あらたに前進の 今ぞ我等の碑を仰ぐ
⑦碑文(裏面) 戦場ヶ原開拓三十年のあゆみ(昭和二十年十一月から五十一年五月までのあゆみが記載)
戦場ヶ原開拓三十年を顧み 今日の我等在るもひとえに諸機関 各位の指導 協力の賜と心より感謝し 時代を担う者へ最大の助言 指導を願い 今後の発展を祈念し ここに同志の名を刻み標して天皇皇后両陛下行幸啓記念碑と共にこの碑を建立するものなり 昭和五十一年五月吉日 戦場ヶ原農場
⑧現在の状況 農場内で管理されている。
栃木県





















