北海道・東北地方
山形県
前森原
山形県
長野
長野 06-361-1
①調査日 平成29年10月11日
②所在 最上郡金山町朴山
③地区の沿革 (金山町広報紙584号2011年8月より抜粋引用)昭和二十二年に満州開拓団からの引揚者で、西村山郡出身者を始めとする方々が入植し、この地を開拓しました。
当初は、入植者全員が「食・住」を共にし、仮屋の建設に始まりました。昭和二十八年にようやく農地の整備が一段落しましたが、当時三年続いた冷害と干害により大凶作に見舞われ、 住民を苦しめました。また、酸性度が強い地質のため、堆肥などの投入により土壌改良を余儀なくされましたが、努力の結果、葉タバコ栽培や養蚕に取り組み、安定した農業経営の出来る耕地を作ることが出来ました。
そして、昭和四十四年に開田事業により、稲作を中心とした農業経営に移り変わりました。入植時、二十二世帯だった戸数も六十年を経て、現在は、十一世帯になりました。
④設置年月日 昭和53年5月
⑤設置者 金山町農業協同組合
⑥碑文(表面) 拓魂不滅
山形県議会議員 岸田一郎
⑦碑文(裏面) 金山町開拓事業完了記念
歴代組合長、入植者氏名
⑧現在の状況 畑の中で管理されている。
山形県
山形県金山町開拓
拓魂不滅
山形県には、45(昭和20)年~47年だけでも引揚者、戦災者ら約3300戸が入植した。北東部の最上郡金山町(かねやままち)長野開拓地には、47年に満州開拓団の引揚者22戸が入植し、再び開拓に打ち込んだ。
標高150㍍の丘陵地で、強酸性土壌だった。根雪期間が長い地区でもあった。入植者は当初、仮設施設で共同生活を営み、開墾を始めた。豆類、バレイショ、ソバなどの栽培に取り組んだ。
やがて開墾が進み、住宅も建ち、53年にはようやく電気が導入された。しかし、53~55年、3年連続で冷害などの自然災害に襲われ、大打撃を受けた。それでも開拓者は希望を失わず、営農を定着させた。
現在、営農を行っているのは11戸となったが、畑作や葉タバコ栽培などで、農産物を安定的に生産している。
77(昭和52)年、町内四つの開拓組合(計41戸)の開拓記念碑が建立された。碑銘は「拓魂不滅」で、困難を乗り越えた開拓の歴史のシンボルとなっている。裏には、まず「金山町開拓事業完了記念」とあり、歴代組合長と入植者の氏名が刻まれている。
山形県は、長野県に次ぐ満州移民送出県だった。金山町には、戦時中、16~19歳の青少年を開拓民として送り出す「満蒙開拓青少年義勇軍」の訓練農場があった。その跡地に、教室・寄宿舎として使われた「日輪舎(にちりんしゃ)」が現存している。円形で屋根は円錐形の独特な木造建物。2階建てで大きく、最大80人収容できた。現在は、イベント会場や体験農場の場となっている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
長野地区記念碑
①位 置 最上郡金山町朴山(38°53'01.1"N 140°17'18.8"E)
②設置者 金山町農業協同組合
③設置日 昭和53年5月
④碑文表 拓魂不滅 山形県議会議員 岸田一郎
⑤碑文裏 金山町開拓事業完了記念 歴代組合長、入植者氏名
⑥当該地区の沿革等(金山町広報紙584号2011年8月より抜粋引用)
昭和二十二年に満州開拓団からの引揚者で、西村山郡出身者を 始めとする方々が入植し、この地を開拓した。
当初は、入植者全員が「食・住」を共にし、仮屋の建設に始まり、昭和二十八年にようやく農地の整備が一段落したが、当時三年続いた冷害と干害により大凶作に見舞われ、住民を苦しめた。
また、酸性度が強い地質のため、堆肥などの投入により土壌改 良を余儀なくされたが、努力の結果、葉タバコ栽培や養蚕に取り組み、安定した農業経営の出来る耕地を作ることが出来た。
そして、昭和四十四年に開田事業により、稲作を中心とした農 業経営に移り変わった。入植時、二十二世帯だった戸数も六十年を経て、現在は、十一世帯となった。
山形県
「萬古清風」 山形県高畠町・屋代開拓
「萬古清風」
山形県高畠町・屋代開拓
山形県は、長野県に次いで満州開拓移民が多かった。その数は、1944(昭和19)年9月時点で6140戸、1万7950人に達した(「山形県開拓誌」69年発行)。戦後、引揚者を受け入れる開拓用地が足りず、県外にも土地を求めざるを得なかった。一方、46年10月に施行された「自作農創設特別措置法」により、農地改革が同県でも進められた。県南東部に位置する東置賜郡屋代(やしろ)村(町村合併により現・高畠(たかはた)町北西部)では、未墾地が解放され、開拓事業が行われた。
同村の未墾地買収・売渡計画は、山林の開拓による果樹園の拡大と、湿原の開拓による稲作の拡大という二つの方向に向かって進められた。49年10月に開田予定地13町1反歩、開畑予定地48町9反歩の買収計画をもって樹立された。
具体的な買収・売渡計画の作成は、農地改革と同様に農業委員会が行い、開拓事業そのものは、屋代開拓農協(50年3月設立)が事業主体となって実施した。入植当初は食糧増産が目的だったので、雑穀やイモ類の作付けが奨励されたが、次第に条件が緩和され、果樹類の産地を形成していくようになった。
現在の高畠町の人口は約2万2千人で、ブドウ栽培など、農業が盛んである。同町高森の屋代開拓地では、稲作や果樹作(サクランボ、西洋梨、リンゴ、ブドウなど)が営まれている。
同開拓地に「屋代開拓農協五周年記念碑」がある。54年4月に建立されたもので、碑文は「萬古清風」。はるか昔から清らかな風が変わることなく吹くという意味。揮毫(きごう)者は、片山哲(元)内閣総理大臣。
副碑もあり、銘板には「昭和21年10月自作農創設特別措置法が施行され、昭和25年10月までの四ヵ年間に耕作農民が多年熟望した自作農創設が達成されたのである。波瀾曲折、幾多の難関に逢着したのであるが、地主各位の深い理解と関係官民当事者の努力は既に実を結ぶ。土地配分の恩恵に浴したもの百二十戸相謀り協同組合を結成して開拓事業に精進する」と刻まれている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
屋代開拓 「萬古清風」 06-381-1
①調査日 2017年10月10日
②所在 東置賜郡高畠町竹森
緯度・経度:38.0135665811056,140.1780728940894
③地区の沿革 屋代村の未墾地買収・売渡計画は山林の開拓(野手倉山,大笹生入山,姥ケ作山,川ノ清水山)による果樹園の拡大と、湿原の開拓 (大谷地)による稲作の拡大という2つの方向に向かって進められた。
昭和24年10月に開田予定地13町1反歩、開畑予定地48町9反歩 の買収面積をもって樹立されている。具体的な買収・売渡計画の作成は、農地改革と同様に農地委員会が行うが、開拓事業そのものは屋代開拓農業協同組合が事業主体となって実施した。海外引揚者2名を含む6名の発起人会によって規約が作成され、開拓農協は農協法にもとづく法人組織として、25年3月に組合員数143名をもって設立されている。
なお、「屋代」は旧村名 昭和29年に町村合併で屋代村は廃止。
④設置年月日 昭和29年4月
⑤設置者 屋代開拓農業協同組合
⑥碑名 屋代開拓農業協同組合5周年記念碑
⑦碑文(表面) 萬石清風 元内閣総理大臣 片山哲
⑧碑文(裏面) 本碑になし(副碑)昭和21年10月自作農創設特別措置法が施行され、昭和25年10月までの四ヵ年間に耕作農民が多年熟望した自作農創設が達成されたのである。波瀾曲折、幾多の難関に逢着したのであるが、地主各位の深い理解と関係官民当時者の努力は既に実を結ぶ。土地配分の恩恵に浴したもの百二十戸相謀り協同組合を結成して開拓事業に精進する。回顧して感慨無量謝恩と記念の碑を昭和29年4月建立する。
⑨現在の状況 稲作や果樹栽培が盛んな地区で、管理されている。福島県
安積野開拓
安積野(あさかの)開拓 07-203-1
①調査日 令和6年7月22日
②所在 福島県郡山市開成3丁目1
緯度・経度:37.3974784248441,140.35341897910916
③地区の沿革 安積野開拓は、明治6年(1873年)から始まり二本松藩を始め、明治11年に久留米藩、松山藩、土佐藩、岡山藩、鳥取藩、米沢藩、会津藩、棚倉藩の9藩が入植した。昭和51年に入植者の子孫が結束して「安積野開拓顕彰碑」を設立。この碑は、国営安積開拓入植100周年を記念して建立された。台座には、開拓に従事した9藩の古里から贈られた大玉石がはめ込まれている。
④設置年月日 昭和56年10月21日
⑤設置者 安積野開拓顕彰会
⑥碑文(表面) 安積野開拓顕彰碑 ※安積野開拓顕彰碑のレリーフがはめ込まれている。
⑦碑文(裏面) 安積野開拓は、明治政府の士族授産と殖産興業の国策のもとに行われた大事業である。明治6年、郡山の有力者で結成した開成社による大槻原の開拓事業と旧二本松藩士が率先入植して開拓した桑野村の誕生が契機となり、安積全野に及ぶ大規模な安積野開拓が、国営疏水開さく事業とともに進められ、明治11年久留米、土佐、鳥取、米沢、松山、岡山さらに会津、棚倉の旧藩士が入植し、明治15年には、520戸、約2500人が移住した。
入所者は刀を鍬に持ちかえ、荒蕪の原野に挑み、想像を絶する困難と極度の窮乏に耐えながら不撓不屈の開拓精神と安積疏水の恵みによって、一応初期の目標を達した。今日、郡山市が東北地方の雄都として発展し続けている。
現実は、明治初期の安積野開拓と安積疎水開かくの大事業が根元となって安積野開拓顕彰会が結成され、先人の偉大な業績を称え、これを後世に伝えるため、郷土を愛する多くの賛同者とともに、ここ●ゆが●の地に顕彰碑を建立した。
いま、この尊い偉業に光をあて先人の残した苦闘の開拓精神●共励の気風を市民の●統と●●継承した未来に向かって心豊かで活気ある●●●●、郡山市の建設を念願しここに銘記する。
昭和56年10月21日
⑧現在の状況 開成山大神宮駐車場に設置されている。
福島県
福島県相馬市・副霊山
県有数の畜産団地に発展
福島県相馬市の副霊山(ふくりょうぜん)開拓は、県北東部の宮城県との県境に位置する。
標高500~600mの山間部で、冬には30~40㎝程の積雪となる。
先遣隊が、西側にあった伊達郡霊山村(現霊山町)から、山越えして同地に入植したのが46年。それから満州や樺太などからの引き揚げ者など122名が入植した。48年には副霊山開拓農業協同組合が設立された。
入植当初は、国有林の伐採から始まった。その後、まず自分たちが食べる物から作付し、小麦、ダイコン、ジャガイモなど、季節ごとに生産した。
53年から2年続けて大冷害に見舞われ、主要農産物の収穫が皆無となってしまった。そのため、道路建設や、営林署の払下げの薪炭事業でなんとか生活苦を切り抜けた。
山間地という立地条件を考慮した上で、主穀物生産体制から主畜生産体制に切り替わっていき、54年に乳牛21頭が導入された。
数名が北海道に一年間研修に行き、戻ってからは指導員として酪農指導に当たるということが、3期ほど続いた。開拓者全員が一致団結して取り組んだ結果、57年5月、ついに牛乳の初出荷が実現した。一時期は、農家全戸が酪農を営むというまとまりをみせた。
67年には副霊山ブロイラー組合が発足、開拓組合、食品工場の三社契約で養鶏事業も軌道に乗った。酪農と共に努力し合い、県下に誇る畜産団地に発展していった。
また並行して、高冷地の特色を生かした、種ジャガイモ、種タマネギなどの採種ほ場の拡張も推進した。
96年に開拓50周年記念碑が建てられ、高冷地農業の悪条件を乗り越えての繫栄を讃えた。
この地域は、11年の福島原発事故の際も避難区域に当たらず、現在も多くの農家が営農を続けており、活気のある町となっている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
副霊山(ふくりょうぜん)開拓 07-209-1
①調査日 令和6年7月23日
②所在 福島県相馬市玉野副霊山309 (宮城県に近いところ)
緯度・経度:37.7874025066737,140.7181881300296
③地区の沿革 伊達郡霊山村の有志である若者達が先遣隊として、昭和21年この地に踏み入りその後外地からの引き揚げ者など入植。入植者122名。
④設置年月日 平成8年9月29日
⑤設置者 副霊山開拓記念碑建設委員会
⑥碑文(表面) 副霊山開拓記念碑
戦後の開拓事業は敗戦日本祖国再建の為国策の一環として緊急開拓が叫ばれ開拓事業に着手、民族生存の基となる食糧増産が開始された。/達郡霊山村の有志である若者達が先遣隊として、昭和21年この地に踏み入りその後外地からの引き揚げ者など入植した同志122名の拓友一同は一心同体 相互扶助の精神で生命の限りをつくして山野に開拓のくわを降ろし、風雪50年の厳しい自然条件と戦いながら幾多の変遷を経て高冷地農業の悪条件を乗り越えて新しい村づくりに努力して今日の繁栄をみるに至りました。/この期にあたり拓友一同の方々と相諮り副霊山開拓事業を記念し、開拓の碑を建立しこの偉業を永く後世につたえるものである。
平成8年9月29日 副霊山開拓記念碑建設委員会
⑦碑文(裏面) 上段に福霊山開拓入植者名、副霊山開拓記念碑寄付御芳名、副霊山開拓記念碑建設委員会の委員の名が刻まれている。
⑧現在の状況 記念碑の隣には副霊山神社があり、その隣には㈱JAふくしま未来サービス玉野SS、道の反対側にJAふくしま未来玉野出張所がある。傍には山村広場(第三期山村振興農村漁業対策事業による)がある。玉野公民館まで2.5km。
福島県
馬場平
馬場平 07-210-1
①調査日 令和6年7月23日
②所在 福島県二本松市馬場平121
緯度・経度:37.579901585258,140.3518596528611
③地区の沿革 昭和21年2月に第一陣として13 戸が入植。その後、昭和26年10月までに24戸が入植した。建立時現在は17戸。
④設置年月日 昭和62年11月吉日建立
⑤設置者 馬場平若連
⑥碑文(表面) 開拓碑
⑦碑文(裏面) 記
第2次世界大戦後の逼迫した食糧難の一助として緊急開拓農家の創設がはじめられた。飢えと寒さに耐えながら、当馬場平地区にも、その第一陣として13戸が入植したのは昭和21年2月であった。
爾来昭和26年10月に至るまで24戸の入植をみたが、その後諸般の事情により已むなく離農した農家が出たため、現在の農家は17戸である。
顧みれば、無から自分達の生活基盤を築くため、朝は朝星をいただき、夕べには夜空を仰ぎ見るまで鍬一丁が頼りの汗と涙の苦闘が続いたのである。然し隣同志が扶けあい、足りないものは補い合って互助の精神を発揮し、その苦難を乗り越えて現在に至った。非農家を含む現在の戸数は29戸を数え、更に増えつつあるのは喜ばしいことではるが、入植以来40有余年の歳月は余りにも長く、その道程には志なかばにして逝った先人の墓標のあることを忘れてはならない。
此の度、二世に当る若連が主体となり、かねてからの念願であった部落の記念とすべき開拓碑の建立を計ったところ、農家挙って賛同し、かっての苦しみと楽しみの交々の思いを込めた いしぶみ として此処に竣工したものである。
昭和62年11月吉日
醵出者、寄付者、馬場平若連 20名の氏名が刻まれている。
⑧現在の状況 県道368号線(馬場平杉田線)大玉村通勤通学バス「馬場平」バス停沿いに建立。馬場平自治会のゴミステーションが隣にある。道路沿いには若干古いが廃タイヤに「あだたら高原 開拓牛乳」と白ペンキで書いた標識があった。近くには酪農場がある。
福島県
相馬開拓
相馬開拓 07-212-1
①調査日 令和6年7月23日
②所在 福島県南相馬市原町区 大木戸南東方
緯度・経度:37.619489330604,140.9378926806829
③地区の沿革 659名が入植し、荒蕪地は美田となり、礫山岩根の里は牧野となった。
④設置年月日 昭和56年4月吉日
⑤設置者 拓友一同
⑥碑文(表面)(上段)相馬開拓之碑
福島県知事 松平勇雄 書
(下段)有史以来未曾有の大東亜戦も昭和20年の終戦に伴い荒廃に瀕した祖国の復興と民族生存の基となる食糧増産のための国家的要請による緊急開拓事業に呼応し自作農創設と祖国再建の意義に燃え耐え難きを耐え忍び難きを忍び乍ら勇躍入植した同志659名の拓友一同は朝には残月を踏み夕には星を頂きて生命の限りをつくし衣食住の苦難を越えて35年の歳月を経たり。
此の間情熱の人組合長水戸省吾氏は組合の代表として終始一貫撓まざる努力と組合の発展に貢献されたる業績は誠に偉大である。今や昔日の荒蕪地は美田となり礫山岩根の里は眼をみはる牧野となり食糧供給の基地と化し今日の繁栄をみるに到れり、此の期に当り拓友一同相諮り相馬開拓事業を記念し開拓の碑を建て此の偉業を永く後世に伝えるものである。
昭和56年4月吉日 藤本忠太撰文
⑦碑文(側面) 寄付者の名前が刻まれている。裏面には何も記されていない。
⑧現在の状況 田園の片隅の道路脇に建立。福島県
磐根
磐根(いわね) 07-408-1
①調査日 令和6年7月23日
②所在 福島県耶麻郡猪苗代町磐根
緯度・経度:37.5659297768260,140.053374513100
③地区の沿革 昭和21年4月に36名が入植した。
④設置年月日 不明
⑤設置者 不明
⑥碑文(表面) 昭和21年5月鍬入の地 開拓記念碑
福島県知事 木村守江書
⑦碑文(裏面) 昭和21年4月戦災者援護協会の主催により終戦後の食糧欠乏に鑑みこの地に下記36名の者は総理大臣鈴木貫太郎氏を迎え鍬入れ式を挙行し開拓精神に則り勇気と信念を堅持して鍬を振るい現在に至る
⑧現在の状況 磐根神社の鳥居の近くに建立。隣には磐根公民館がある。
福島県
白河報徳
白河報徳 07-461-1
①調査日 令和6年7月22日
②所在 福島県西白河郡西郷村 真船蒲日向
緯度・経度:37.1604348450153,140.0914052169866
ア.「報徳開拓草創期の沿革」
③地区の沿革 碑文に記載のとおり
④設置年月日 平成24年10月13日 建立
⑤設置者 不明
⑥碑文(表面) 報徳開拓草創期の沿革
昭和20年8月15日(1945)大二次世界大戦終戦直後復員する軍人の元満蒙開拓青年少年義勇軍(以下義勇軍という)訓練所長の加藤完治先生(以下加藤先生という)に旧陸軍軍馬補充部・演習所などに復員軍人の入植を行う計画を樹てるに当たり、この営農指導についての会談の結果、加藤先生は自ら所長でもあった満蒙開拓指導員養成所の生徒の中から、今後一切の身の振り方を加藤先生に任せるという生徒60余名を得た。終戦時の困難なる国の要請に応えるため、加藤先生は白河農村建設隊(仮称)の用地選定について、元義勇軍総務部・江坂弥太郎、訓練課長・菅野弘の両氏に現地の調査を依頼した。
昭和20年9月11日、江坂と菅野は、現地の責任者、田辺大佐及び高品少佐・土井参謀などと協議したが基地の決定には、至らなかった。翌10月1日、菅野課長が再度、白河現地側と協議折衝した結果、芝原分厩以北の地区、の西郷村真船字蒲日向、字小菅、字横川、字高清水の地区700町歩が決定した、引き続き、菅野課長は、退職軍人補導会副委員長・永井少佐を通じて、軍馬補充部関係の主任官である福間中佐と現地入りの具体的な方策について協議した後、現地の演習厩舎などの借り受の手配を終了した。
昭和20年10月13日、終戦後わずか60日にして、白河高原農村建設隊 16名が、記念すべき開拓の第一歩を印した。その後本隊の到着と共に開拓の鍬音が響き、復員軍人の営農指導に当たる準備は着々と進められたが、占領軍から復員軍人の集団入植を禁ぜられたために、それまでの構想は消滅した。加藤先生と隊員はそのままこの地に入植する事を決定し、この地域で祖国再建の為、開拓事業を展開することとなった。
昭和21年4月29日、白河報徳開拓組合(任意組合)を設立し、全体共同経営の運営が発足した。
昭和23年4月2日、農業協同組合法による白河報徳開拓農業協同組合が設立された。
昭和28年4月、8ケ年続いた全体共同経営を解体し、各々の経営責任が明確になる、個人経営に移行した。
昭和30年4月15日、白河報徳開拓農業協同組合と由井ヶ原開拓農業協同組合が地域発展の為、合併を行った。今ここに、報徳開拓67年の歴史を顧み、この碑を建立し、報徳開拓草創期の沿革を後世に伝え残すものである。
平成24年10月13日 建立
参考資料 白河報徳開拓誌 序章 胎動~
⑦碑文(裏面) なし
⑧現在の状況 西郷村を走る国道289号線沿いに 以下のア、イ、ウ、エ、オ、カの6つの碑が横並びに建立されている。
イ.「戦後開拓発祥の地」
③地区の沿革 不明
④設置年月日 平成22年6月吉日
⑤設置者 白河報徳開拓記念碑管理会
⑥碑文(表面) 戦後開拓発祥の地
西郷村長 佐藤正博 書
⑦碑文(裏面) 入植65周年記念
平成22年6月吉日 白河報徳開拓記念碑管理会 建立
⑧現在の状況
ウ.加藤完治翁之碑
③地区の沿革 不明
④設置年月日 不明
⑤設置者 不明
⑥碑文(表面) 「頌徳 加藤完治翁之碑」
翁は若き頃、「生を肯定して農の意義を知る、衣食住の生産に努力するは善なり」という信念を確立して農の道を志した。受持分担一心同体が日本精神と知って、自らも農の道に励みながら、農業教育に努める決心をして邁進した。戦後、生涯を捧げるべくこの地に入植して、開拓を志す青年たちと苦楽を共にした。病のために志を子息に託して離れたが、翁の心は常にこの地の発展と教え子たちの幸せを願っていた。翁は今なおこの地の弥栄を祈念し、高所から見守っていることと思う。
⑦碑文(裏面) なし
⑧現在の状況
エ.「亡ぶべき国ならめやも国興す鍬こそ振るえ益良猛夫」
③地区の沿革 昭和20年10月13日 白河高原建設先遣隊入植
昭和21年4月2日 運輸省食糧増産本部白河農場由井ヶ原に鍬入
昭和23年3月7日 白河報徳由井ケ原開拓農業協同組合設立
昭和24年2月11日 由井ヶ原開拓農業協同組合設立
昭和26年12月20日 西郷馬鈴薯採取組合設立
昭和27年2月21日 西郷村報徳森林組合設立
昭和30年4月15日 白河報徳 由井ヶ原開拓農業協同組合合併
昭和33年12月8日 雪割橋架橋工事完成
昭和37年 川谷芝原地区入植者逐次本組合へ加入
昭和41年3月 農業構造改善事業完成
昭和50年3月 山村地域農林漁業特別対策事業完成
昭和51年3月 全国開拓30周年式典に於いて農林大臣賞受賞
昭和54年1月 乳牛飼養頭数1千頭達成
昭和56年3月 地区再編農業構造改善事業完成
昭和63年4月 白河報徳開拓農業協同組合
正組合員百名 准組合員17名
建立者名90名の氏名と特別協賛者5名の氏名が刻まれている。
④設置年月日 昭和63年1月10日
⑤設置者 開拓記念碑建設委員会
⑥碑文(表面) 「亡ぶべき国ならめやも国興す鍬こそ振るえ益良猛夫」
それは第二次世界大戦終結の時に始まる 当時食糧物資の不足は勿論 国土の荒廃 人心の動揺は国家未曾有の混乱を招いた この時我々は 加藤完治先生を中心に「衣食は固より生の始めなり」と再建の方途を農業に求めこの地に入植 野の草も食とし磐根木根を断ち拓き新しい村作りを目指した 時に風雪は奮起を促し 欠乏も亦創造の糧となった 爾来四十有余年 営々たる努力は漸く明るい子らの歌ごえ 牛の鳴き声となって緑の空にこだまする里を築くに至った 我々は今 この間に受けた村当局を始め実に多くの人々の支援に深く感謝し、雄図半ばに他界した同志の冥福を祈りつつ入植の初志を銘してここに碑を建て永く留めんとするものである
⑦碑文(裏面) ③沿革に記載
⑧現在の状況
オ.「開拓」
③地区の沿革 不明
④設置年月日 不明
⑤設置者
自由民主党総務会長・衆議院議員 伊東正義
⑥碑文(表面) 開拓
自由民主党総務会長・衆議院議員 伊東正義
⑦碑文(裏面) なし
⑧現在の状況
カ.「丈夫で仲よく」
③地区の沿革 不明
④設置年月日 不明
⑤設置者 不明
⑥碑文(表面) 丈夫で仲よく
⑦碑文(裏面) 裏面に入植者91名の氏名が刻まれている。
⑧現在の状況
























