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開拓記念碑調査事業

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北海道・東北地方

宮城県

白石市

アクセス

白石市  04-206-

 

①調査日  平成29年7月25

②所在  白石市福岡八宮

緯度・経度:38.06192,140.53598

③地区の沿革  不明

④設置年月日  昭和4810

⑤設置者  入植者

⑥碑文(表面) 開拓

白石市長 麻生寬道 之書

艱難困苦に耐え一致結束 開拓の自主確立をした 茲に開拓碑を建て之を記念する。

昭和四十八年十月      故人を含む入植者氏名

⑦碑文(裏面)  無し

⑧現在の状況  地域内で管理されている。

宮城県

宮城県大崎市鳴子・上原開拓

拓魂碑と畜魂碑
宮城県の北西部、上原(うわはら)開拓地は、大崎市の(旧)鳴子町・岩出町、栗原市の(旧)一白町・花山村の4地区にまたがっている。同開拓地は、軍馬を育成する「陸軍軍馬補充部」の跡地が中心だった。1946(昭和21)~48年、緊急開拓事業により外地引揚者102戸が入植し、地元増反者や元・軍馬補充部従業員を加え、計229戸の大開拓地となった。
奥羽山系に連なる標高約300㍍の高台地。原野、山林を鍬による手起こしで開墾した。火山灰土壌で酸性吸収度高く、土地生産性が低い土質だった。高冷開拓地のため、度重なる苦難があった。ようやく開墾が進み、食糧増産に励んだが、53~57年の冷害で大きく挫折した。
それを機に、主穀経営から酪農経営への転換を目標とした。国の振興対策などで次第に発展。現在、県を代表する酪農専業地域となっている。
上原開拓農協(75年解散)の事務所は鳴子町にあった。開拓記念碑が、入植35周年の83(昭和58)年に建立された。碑銘は「拓碑」で、碑文は「雲が流れる 緑が広がる 三十五年の労苦を経て 今上原は逞しく生きる」となっている。すぐ近くに、畜魂碑も建立されている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2018年11月 宮城・鳴子

上原(うわはら)  04-215-

 

①調査日 成29年7月24

②所在 大崎市鳴子

③地区の沿革 崎市の(旧)鳴子町・岩出町、栗原市の(旧)一白町・花山村の4地区にまたがる奥羽山系に連なる標高300米の陸軍軍馬補充部の跡地が解放され、昭和2123年に外地引揚者102戸、地元増反者や元軍馬補充部従業員を加え、229戸が上原(うわはら)開拓地に入植した。

④設置年月日 昭和58年3月

⑤設置者 明

⑥碑文(表面) 拓魂

宮城県知事 山本壮一郎 書

昭和五十八年三月吉日建之

(副碑) 雲が流れる 緑が広がる 三十五年の労苦を経て 今上原は逞しく生きる  

文 鳴子町長 寺坂二男

⑦碑文(裏面) 無し

⑧現在の状況 地区内で管理されている。

宮城県

宮城県蔵王町・北原尾開拓

「開魂」 宮城県蔵王町・北原尾開拓~南洋パラオを忘れない
宮城県南部の刈田郡蔵王町北原尾(きたはらお)地区は、戦後に南洋群島からの引揚者が開拓した。現在、県内でも有数の酪農地帯となっている。 戦前、満州(現・中国東北部)と同様、南洋群島には多数の日本人が移住した。戦後、引き揚げ先のひとつとして、蔵王町が選定された。北海道・東北出身者のための入植地として準備され、パラオ(現・パラオ共和国)、ロタ、テニアンの各島から、1946(昭和21)年3月に第1陣、5月に第2陣が入植。最終的に32戸が定着した。
入植当時、地区名はなく、パラオからの入植者が多かったことから、「北のパラオ」という意味を込めて、北原尾と名付けられた。入植地は標高450㍍の雪深い蔵王山麓の国有林で、大木や雑木が密生し、道路は幅2㍍程度の1本だけだった。
入植者は厳しい自然条件の中、笹小屋を建て、手作業で開墾を進めた。48年に北原尾開拓農協を設立。焼き畑で大豆、小麦、バレイショなどを栽培したが、収量は少なかった。熱帯の気候に慣れた入植者にとって、高冷地の農業は苦難の連続だった。
53~54年、2年にわたる冷害で農作物の収穫はほとんどなかった。一方、牧草だけは生育したので、経営の主体を酪農へ転換する契機となった。67年の開拓パイロット事業の承認により、牧草地の造成を行い、乳牛の頭数が増えていった。
集落の入り口に開拓記念碑が建っている。開拓農協(72年解散)を引き継いだ北原尾農事組合が11年に建立したもので、碑銘は「開魂」。碑文には「昭和二十一年春、パラオ、ロタ、テニアンから入植する。南洋パラオを忘れないようにこの地を『北原尾』と命名する」と刻まれている。隣に、77年に北原尾支部一同が建立した慰霊碑「牛魂の碑」がある。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2020年8月 宮城県蔵王町・北原尾開拓

北原尾  04-301-

 

①調査日 平成29年7月25

②所在 刈田郡蔵王町

③地区の沿革 南洋群島引揚者が昭和21年3月営林署の山林が解放されパラオから29戸、ロタ3戸が入植。熱帯農業になれた者が高冷地の農業に戸惑うも製炭と開墾で糊口をしのいだ。南洋パラオの思いから北原尾と命名する。

④設置年月日 平成2310月1日

⑤設置者 入植者

⑥碑文(表面) 開魂

髙橋道太郎先生の尽力により/昭和二十一年春、パラオ、/ロタ、テニワンから入植する/南洋パラオを忘れないように/この地を「北原尾」と命名する。

開拓記念碑  平成二十三年十月一日 建立

⑦碑文(裏面) 無し

⑧現在の状況 地区内で管理されている。

宮城県

大衡東

大衡(おおひら)東  04-424-

 

①調査日  平成29年7月24

②所在  黒川郡大衡村

③地区の沿革  昭和23年までに42名の引揚者や戦災者等が大衡東地区に入植した。

④設置年月日  平成元年8月

⑤設置者  大衝村衝東区民一同

⑥碑文(表面)  拓魂

村制施行百周年の意義ある年に大衡村衡東行政区誕生の由来を此の碑に誌し後世に伝える。大東亜戦争戦中戦後国民生活は混乱し、食糧不足で日本全体が飢餓状態になり、食料の増産は緊急かつ至上の課題となり、国は危機を打開する施策を展開するととともに、海外からの引揚者や戦災者等、様ざまな境遇の国民を開拓政策で即応することになる。昭和十八年から二十三年わたり、この地大衡村駒場字舟右衛門橋に入植を希望された同志は四十二名である。衡東開拓地は官行造林六十四町四反八畝、樹齢十五年の松杉林及び開発営団地区の面積四九町一反二畝、総面積一一三町六反の解放を受け事業主体は農地開発営団並びに宮城県から委託を受けた宮城県農業会が当たり、開拓事業が推進された。

以後自然との厳しい闘いは、今日では筆舌に尽くし難く苦難を乗り越え、幾多の試練に耐え、さらには大衡東開拓農業協同組合の設立、続いて大衡農業協同組合への加入等により漸次営農を成功させ現在の地歩を築いたのである。

草分けの古老は語る。忘れはしまい 一鍬の土 また土  力の限り頑張った ランプンプのあかし  まだ頭にこびりついているさ と

昭和二十三年十月三十日衡東区誕生以来、苦節四十余年、志を土に生きる仲間の絆は固く、衡東行政区は、今や既存部落と匹敵する盤石な偉業を成し遂げたのである。時は移り現在の衡東地区は宮城沖電気株式会社等の進出をはじめ、企業の立地が進み予想もしない程、環境が激変した。

このためにも共栄する区民は、将来に向け先達の開拓精神を忘却することなく生活安定の確立と一層の団結を望んで止まない。

平成元年八月吉日建立

大衡村衡東区民一同 題字撰文 大衡村村長 佐野 小太郎

⑦碑文(裏面)  建立者37名氏名

 施工管理 大衝村農業協同組合

⑧現在の状況  神社敷地で管理されている。

宮城県

宮城県色麻町・王城寺原

アクセス

慰霊塔「招魂碑」と「満州開拓団殉難の碑」

宮城県色麻町・王城寺原開拓地

宮城県中部の王城寺原開拓地は、旧陸軍の演習場跡地に立地する。加美郡色麻(しかま)町と黒川郡大衡(おおひら)村にまたがっている。

45年8月の終戦で米軍に接収された約4000㌶の旧陸軍施設は、同年10月、宮城県に譲渡された。農林省(当時)の緊急開拓地区の指定を受け、開拓事業が開始された。旧満州(現中国東北部)からの引揚者、復員者、戦災者、地元増反者ら400戸余りが入植した。入植者はまず、移住している旧兵舎の周りの空き地を開墾して、自家用野菜を作り始めた。

米軍は47年、演習場として使用するために再接収し、開拓地南側の移住者に立ち退きを命令。202戸の開拓者が立ち退きの止むなきに至った。

その後、一部の地区(420㌶)が返還され、53年には850㌶の解除が決定した。開拓者一丸となっての強い要求、熱意が実を結んだ。演習場は58年、米軍の完全撤退により、陸上自衛隊の「王城寺原演習場」となった。

開拓地は火山灰土の強酸性土壌だった。不利な条件を乗り越え、冷害など幾多の試練に耐え、開拓に精進した。営農形態は畑作から酪農、水田作へと変化していった。

色麻町役場前に二つの石碑が並んでいる(写真㊤)。右側の塔は、色麻村(当時)出身の戦没者を慰霊するため、67年に建立されたもので、碑銘は「招魂碑」。碑文には、「嗚呼 諸士の烈々な献身殉国の大節は永く青史を照らし後世を安んぜん 題して招魂碑 此の文字に刻まれた吾が郷土の英魂三百余柱の遺芳永く後世に伝えんとす」と記されている。

左側及び写真㊦の碑は94年に建立されたもので、碑銘は「満州開拓団殉難の碑」。45年8月、旧ソ連の参戦や終戦の混乱で、色麻村の開拓団でも多数の人が犠牲になった。碑文には、「かつて渡満の同志が発起人となり、町民各位或いは有志の方々の御芳志を仰ぎ、肉親の方々に思いを馳せながら、親の、子の心情に思いを馳せながら、殉難者の御冥福を祈るとともに、世界平和のために二度と繰り返すことのないようにとの願いを込め、ここに鎮魂慰霊の碑を建立す」と刻まれている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2021年10月 宮城・王城寺原

王城寺原開拓地 慰霊塔「招魂碑」と「満州開拓団殉難の碑」  04-444-1

 

①調査日  2017年7月24

②所在  加美郡色麻町
緯度・経度:38.5481031414202,140.8499993740511

③地区の沿革  王城寺原の開拓は、明治30年頃三井財閥によって行われたが明治41年旧日本軍に買収され、以来終戦に至る40年の間、旧日本陸軍の屈指の演習場として利用されてきた。

  終戦後、米軍第187空挺隊より宮城県に譲渡になり、農林省の緊急開 拓地区の指定を受けて、開拓事業が実施された。引揚者、復員者、戦災者、地元増反者等625戸が入植したが、昭和22年宮城軍政府覚書により接収されて、202戸の強制立退きを命ぜられた。このとき、工作制限を受けて残留した者に更に昭和25年全面接収の命令が出され、前後7年に亘り接収に反対して開拓地解放の運動を展開した。辛うじて一部の接収解除をうけて、200余戸の順入植者と200戸あまりの増反者とが自作する土地を確保することができた。

   窮乏に耐え、冷害、災害等困難を乗り越えて、開拓28年を経過し広漠たる原野は今や、美田と化し、乳牛の群れるのを見るに至った。

④設置年月日  平成6年11

⑤設置者  殉難碑建設委員会

⑥碑名  殉難碑

⑦碑文(表面)  満州開拓団殉難の碑 色麻町長 鈴木省治 書

第二次世界大戦争から五十年過ぎた。今日も船形の山の端をかすめ白い雲が行き、清らに流るる花川、保野川の漣に銀の光をこぎし月に行く。

故郷色麻の自然は今も昔のままを彩る。村人は不屈の闘志と勤勉によって戦後の疲弊窮乏を脱し、行き交う町民の眼に光をあて、活気溢れ、豊かさを謳歌する町とはなった。

   然し、第二次世界大戦に南溟の狐島に、渡満の地に、大陸の地に、はた又寒風吹きすさぶ北海の果てに護国の鬼と化した英霊諸氏もさること心から、子々孫々に語り継ぐことが、今一つ有るを忘れてはならない。

   今を遡ること六十有余年当時の日本は、五族共和、王道楽土建設の御 旗を掲げ、昭和七年、満州事変終わるや、満州国を建国、武装移民、満州開拓義勇軍などの日本人による開拓を始めた。その時代の日本の農村は、凶作、恐慌等により窮乏に喘ぐ時でもあった。昭和十一年には国の計画が策定され、以降二十年で一〇〇万戸、五〇〇万人開拓者を送るというものであった。このため、国策移入として全国から三十万乃至、四十万人の人々が満州に渡った。当時の色麻村も国策に沿い、分村計画を樹立、数多くの人々を満州に送り、色麻郷を営むまでに至った。幾多の困難を克服、生産も軌道に乗り、第二の故郷として反映を信じたところ、戦局日々悪化するや、若人は根刮き、軍に招集せられ開拓団は婦女子、老人のみとなった。

   昭和二十年八月九日、ソ連参戦。ソ連雪崩の如く国境を越えて乱入。夢と希望に満ちた新天地は悪夢の生き地獄と化した。殺戮、略奪、暴行、陵辱、酸鼻を極め、或いは何百キロの逃避行の中で寒さと飢えと病に倒れし者も限りなしと聞く、また、敵に知られるを恐れ、頑是なき幼な児の口を覆う母親。その心情哀れなり。その心情を察するに余り在り。ただただ涙、滂沱として筆舌に盡し難し。赤き夕陽の満州の大地に骨を拾う者もなく、五十年の歳月は流れ去った。

さりながら、国策、分村計画に沿い、満州に渡り切創に会いし人々はまさに戦争の殉難者である。此の人々を忘却の彼方に流し去るにしのびず。

戦後五十年に期し、かつて渡満の同志が発起人となり町民各位或いは有志の方々の御芳志を仰ぎ、肉親の方々に思いを馳せながら、親の、子の心情に思いを馳せながら、殉難者の御冥福を祈るとともに、世界平和のために二度と繰り返すことのないようにとの願いを込め、ここに鎮魂慰霊の碑を建立す。

   平成六年八月十五日  色麻町長 鈴木省治 撰文

     殉難碑 建設委員会 委員長 鈴木賢蔵 委 員 早坂彦二

               委 員 小関英司 会 計 髙橋甚作

        施 工 色麻町農業協同組合 株式会社斉藤石材

        平成六年十一月 建立

⑧碑文(裏面)  無し

⑨現在の状況  役場前で管理されている。

秋田県

「拓魂之碑」 秋田市河辺町・大張野開拓

アクセス

拓魂之碑」

秋田市河辺町・大張野開拓

秋田県秋田市の東部に位置する河辺町(旧・河辺郡河辺町)の大張(おおばり)野(の)開拓の歴史は、明治時代にさかのぼる。1880(明治13)年、新政となり禄を離れた士族たちが結成した団体が、政府の資金援助を受けて開拓を始めた。翌年、明治天皇が秋田・山形両県を主に東北巡幸された際、同開拓地に立ち寄られた。だが、その栄誉もむなしく、用水不足で米を作れなかったこと等から、経済的に行きづまり、開拓事業は失敗に終わった。戦後、同開拓地に再び開拓者が入植した。

戦時中、満1418歳までの青少年を満州(現・中国東北部)に開拓民として送り出す「満蒙開拓青少年義勇軍」の制度があった(満州での名称は、満州開拓青年義勇隊)。同開拓地に入植したのは、同義勇隊の引揚者で主に県外出身者だった。46(昭和21)年から49年にかけて47戸が入植したが、18戸が離農し、29戸となった。

標高65㍍前後の台地で傾斜はほとんどなく、土壌は腐植を大量に含有する埴土だった。入植者は開拓の鍬をにぎり、まず、雑穀などの自給食糧の生産を始めた。48年、大張野開拓農業協同組合を設立。64年頃から酪農が導入された。さらに、養鶏・そ菜・陸稲と多彩な営農が行われた。現在は、野菜栽培が盛んである。

大張野鬼子母神社内に、明治天皇が巡幸された時に設けられた史跡「大張野行在所跡」に隣接して、開拓記念碑がある。

開拓記念碑の除幕式は、65年9月に挙行された「大張野開拓二十周年記念大会」において執り行われた。碑銘は「拓魂之碑」。

下面の碑文の末尾には、「前途多難なるも稲穂の波寄せ乳の流るる郷となりし、二十周年を迎へ茲に開拓魂を結集し初志の貫徹を誓い此の碑を建てる」と記されている。

 裏面には、開拓者の氏名が刻まれている

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2022年4月 秋田・大張野

大張野開拓 「拓魂之碑」   05-201-1

 

①調査日  2017年6月29

②所在  秋田市河辺町大張野

緯度・経度:39.6713535280263,140.268904497993

③地区の沿革  標高65米前後の傾斜がほとんどない大地に、満蒙開拓青少年義勇軍の県外出身の引揚者が昭和21年~24年に47戸が入植、18戸は離農。

④設置年月日  昭和40年9月20

⑤設置者  入植者28

⑥碑名  大張野開拓二十周年記念

⑦碑文(表面)  拓魂之碑  秋田県知事 小畑 勇二郎 書

    終戦時満州開拓青年義勇隊に在り、翌年大張野入植、宮前農事実行組合結成、長年に亘り開拓の鍬を把り進取の気概に富む地元の石塚三治郎を初代組合長とし四十数名生活を共にせるも十数名離農、二十三年大張野開拓農業協同組合と改め、引揚者等入植し理想郷建設に専念途上、二代組合長黒澤武夫他数名開拓の礎となれり、前途多難なるも稲穂の波寄せ乳の流るる郷となりし、二十周年を迎え茲に開拓魂を結集し初志の貫徹を誓い此の碑を建てる。

⑧碑文(裏面)  入植者28名の個人名  昭和四十年九月二十日 建立

⑨現在の状況  鬼子母神社(史跡「大張野行在所跡」)で管理されている。

秋田県

秋田県能代市・東雲原開拓

拓魂碑
戦後開拓地は、農耕の対象外だった山間僻地や軍用跡地が多かった。
秋田県能代市の東雲原(しののめはら)開拓地は元陸軍飛行場跡地で、1946(昭和21)年、引揚者・戦災者等144戸が入植した。内訳は、東雲開拓110戸、拓友開拓34戸。
不毛の原野で開拓者は、開墾に懸命の努力を続けた。開拓当初は畑作だったが、経営が不安定なため、水田化を目指した。入植から約25年でようやく、畑地が水田となった。複合で酪農、肉用牛などの畜産や野菜を組み入れた経営も増えた。
現在、水稲を中心とした営農が展開され、規模の大きさから、県内では重要な食糧基地となっている。
開拓記念碑は入植25周年記念事業として、71年に東雲・拓友入植者一同が建立したもので、碑銘は「拓魂碑」。50周年記念事業では、隣接して「平和祈念碑」が建立された。
拓魂碑の碑文には、「開拓者は徒手(としゅ)空拳(くうけん)で過酷な労働に直面し、暗い流汗と苦渋に満ちた開拓史の中で志半ばにして物故した者、或いは離農のやむなきに至った者等、その数決して尠しとしない」とあり、大変な苦労がうかがい知れる。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2018年7月 秋田・東雲原

東雲原(しののめはら)  05-202-

 

①調査日  平成29年6月28

②所在  能代市

③地区の沿革  昭和21年、解放された旧陸軍飛行場跡地に引揚者、戦災者等145戸が入植。

④設置年月日  昭和4611

⑤設置者 東雲拓友 開拓入植者一同

⑥碑文(表面)  拓魂碑

  揮毫 秋田県知事 小畑 勇二郎

開拓は戦後荒廃と困苦の中に、祖国再建の国策として実施され、此の国家的要請に応じて東雲原に入植した開拓者は一四五戸であった。其の多くは海外引揚者、被戦災者、復員者等でその土地も僻遠不毛の地で、営農と生活の基盤は皆無に等しい状態であった。

   由来開拓は農業の創造的事業でありその推進には適切な施策を要する事は言は俟たないが、戦後必然的に発足した開拓にはその余裕がなく、開拓者は徒手空拳で過酷な労働に直面し、暗い流汗と苦渋に満ちた開拓史の中で志半ばにして物故した者、あるいは離農のやむなきに至った者等、その数決して尠しとしない。それにも拘わらず不撓の精進を続け今漸くその成果をみるに至った。

   顧みれば草創以来既に二十有五星霜。嘗ての荒野は今や整斉とした四百五十余町歩の沃土と化し、現存する百二十五戸の同志は益々団結を強め模範的経営者として亦団体として、農林大臣賞の栄に浴した事は我等開拓者の努力の賜と聊か自負するところである。

   茲に東雲原開拓者は入植二十五周年を記念し、更に今後の躍進を期する為拓魂不滅を信じて碑を建立するものである。

  昭和四十六年十一月吉辰

(東雲拓友 開拓入植者一同建之)

⑦碑文(裏面)  無し

⑧現在の状況  周辺には花が植えられ、管理されている。

秋田県

秋田県由利本荘市鳥海町

開拓記念碑と「愛牛の碑」
秋田県由利本荘市鳥海町
秋田県南西部に位置する由利本荘市は、日本海に面し、東南に鳥海山北部山麓まで広がっている。05年、本庄市と由利郡7町が合併し、発足。県の10分の1を占める広大な面積となった。農業は、基幹産業の稲作のほか、畜産が営まれている。
戦後、計21地区の開拓地に海外引揚者や地元二・三男らが入植し、田畑を開墾した。最も内陸で、山形県に接する鳥海町(ちょうかいまち)(旧・由利郡鳥海村)では、鳥海山麓の豪雪地帯3地区で開拓が行われた。47(昭和22)年、川内上原に8戸、翌年、鶯(うぐいす)川に11戸と提(さげ)鍋(なべ)に4戸が入植した。
このうち、川内上原(川内村開拓地)は、標高260の波状形の台地であった。土壌は鳥海山火山泥流による埴土で、下層は重泥で強酸性だった。営農は、入植当初の食糧難から雑穀・イモ類中心の栽培がしばらく続いた。54年に地区内道路が整備され、一部開田化を開始。さらに57年、村が酪農振興地域に指定され、乳牛の導入が活発化し、水田・酪農主体の営農に移行した。
同地区の採草地を背に、2基の石碑が並んで建っている。左側は「開拓記念碑」で、旧・川内村開拓農協が76年に建立したもの(写真)。裏面に開拓者8戸の夫婦氏名・年齢などが刻まれている。
右側は「愛牛の碑」で、鳥海村酪農協会が77年に建立したもの。裏面には開拓の歩みと、一般の生産者も含め酪農家9戸の氏名が刻まれている。碑文の末尾には、「幾多の乳牛の犠牲の上に定着を見たのであり 酪農二十周年を記念し物故の魂を慰めると共に 本日を期して鳥海村酪農記念日として永遠に之を伝誦するものである」と記されている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2020年7月 秋田県由利本荘市鳥海町

川内(かわうち)  05-210-

 

①調査日  平成29年6月30

②所在  由利本荘市鳥海町

③地区の沿革  鳥海山麓の山形県に隣接する豪雪地帯で標高260米の波状形台地。鳥海山火山泥流による埴土で、下層は重泥で強酸性土壌だった。昭和22年に8戸が入植した。

地区面積 56.7ha
耕地面積 29.1ha(水田8.7ha、畑20.2ha、樹園地0.2ha)

④設置年月日  昭和51年5月

⑤設置者 川内村開拓農業協同組合

⑥碑文(表面)  開拓記念碑

  揮毫者 後藤竹清(本荘市) 

⑦碑文(裏面)  昭和二十二年五月入植

  川内村開拓農業協同組合設立 

昭和四十八年八月組合解散 昭和五十一年五月建立 竹清書 開拓者8名の夫婦の氏名

⑧現在の状況  地区内で管理されている。開拓記念碑の隣には鳥海村酪農協会が昭和52年に建立された「愛牛の碑」があり、裏面には開拓の歩みと、一般の生産者も含め酪農家9戸の氏名が刻まれている。

碑文の末尾には、「幾多の乳牛の犠牲の上に定着を見たのであり 酪農二十周年を記念し物故の魂を慰めると共に 本日を期して鳥海村酪農記念日として永遠に之を伝誦するものである」と記されている。

 (愛牛の碑表)

秋田県

上原(鶯川)

上原(うわはら)(鶯川)  05-210-

 

①調査日  平成29年6月30

②所在  由利本荘市鳥海町才之神

③地区の沿革  引揚者、地元二・三男等14戸が民有地77.6㏊の上原開拓地に入植、田畑21.1㏊を開拓。

④設置年月日 昭和4911

⑤設置者 鶯川(うぐいすがわ)開拓組合員

⑥碑文(表面)  拓魂碑 

秋田県知事 小畑勇二郎書

⑦碑文(裏面)  終戦の混乱の中から国策として緊急開拓が実施され上原に入植した者は海外引揚者、地元二・三男等十四戸で僻遠不毛の地に徒手空拳で過酷な労働に直面し、流汗と苦渋に満ちた開拓史の中で、物故した者或いは離農のやむなきに至った者あり、それにも拘わらず不撓の精進を続け今漸くその成果を見るに至った。

顧みれば草創以来二十有八星霜、嘗ての荒野は今や四十余町歩の耕地と化し、現存する十一戸の同志は益々団結を強め新農業振興に邁進する所である。

茲に鶯川開拓組合の解散と営農整備を記念し、今後の躍進を期する為に拓魂不滅を信じて碑を建立するものである。

昭和四十九年十一月吉日  鶯川開拓組合員一同建立

⑧現在の状況  周辺には花が植えられ、管理されている。

秋田県

坊台

坊台(ぼうだい)  05-212-

 

①調査日  平成29年6月29

②所在  大仙市協和町上淀川

③地区の沿革  37.76㏊の民有地に12戸が入植(後に6戸離農)し、19.76㏊を耕作(水田17.76㏊、畑1.0㏊、樹園地1.0㏊)

④設置年月日  平成7年8月

⑤設置者  不明

⑥碑文(表面)  開拓五十周年 記念碑

協和町長 佐々木清一 書

⑦碑文(裏面)  昭和二十年八月十五日第二次世界大戦の終戦を向かえ遠く中国(旧満州)、サハリン(旧南樺太)より引揚、地元復員軍人等、時の国の農業政策により坊台の地の農地四十町歩の解放、一戸二町歩の配分をうけ、開拓の鍬を振ってより半世紀に至る。

昭和四十一年、土地改良共同施行により十八町歩の水田を造成し、一、三〇〇俵の供米をするまでに至るが、平成四年秋田県の医療施策により約二十九町歩の土地が買収となり此処に終戦五十周年を期し開拓記念碑を建立するものなり。

平成七年八月吉日

⑧現在の状況 地区内で管理されている。
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