北海道・東北地方
青森県
豊平
青森県
東栄
東栄 02-206-5
①調査日 令和元年7月25日
②所在 十和田市八斗沢 東栄会館敷地内
③地区の沿革 元営林署、軍馬補充部の山林原野が解放され、海外引揚者、復員軍人等が入植。
④設置年月日 昭和42年12月20日
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 開拓記念碑
青森県知事 竹内俊吉書
⑦碑文(裏面) 此の地は元営林署及び軍馬補充部の山林原野であって政府の緊急開拓事業実施に基づき開放された 昭和二十一年四月一日旧大深内村の海外引揚者 復員軍人 農家の次三男等が選ばれて入植した そして部落名を東栄と名付けた 入植者は若くして身心気鋭の人々であって入植当時は困苦精励慣れない作業に心身を●つて開拓に鍬をふるった当時は雑穀も高値であったが其の後値下がりをし到底畑作のみでは農業を継続し得なくなり苦難な年月を送らざるを得なくなった
そしてこの苦境を郷関に求め難く人々は途方にくれた 昭和二十八年沖上用水土地改良区が設立されて国営事業により開田に着手したが開田面積僅か三反歩平均で一農家を支えるだけの水田面積ではなかった 私達はこれを打開する為め色々と協議し勇気をふるって開田にあらゆる努力を傾けた
そして昭和三十七年同四十一年同四十二年と共同施工に依り数次に亘って開田を実施し今や一戸当たり二町歩余りの保有を見るに至ったその間昭和二十三年には未点燈部落を解消し同三十七年神社建立 同四十一年に上水道を完成し生活文化共に近代農村の基盤漸く成るに至った 斯くの如く今日の成果を見るに至ったのは私たち二十余名の地と汗との結晶に外ならない
この拓魂のたくましさを今後に東栄の名の如く益々発展し地域農村の炬火たらんことを念願し後世に伝えるものである
昭和四十二年十二月二十日建立
撰文者 三本木 原土地改良区連合 理事長 水野陳好
⑧現在の状況 八斗沢東栄会館敷地内に立地し周囲をフェンスで囲われ管理されていた。青森県
清水
青森県
青森県・野平
青森県むつ市川内町の野平(のだい)開拓は、本州最北の下北半島にあり、日本三大霊場(他は比叡山、高野山)に数えられる恐山の西に位置する。
標高は200m程で、冬は極寒の山あいの土地である。
1949年、元満蒙開拓青少年義労隊、元満州開拓団、元樺太開拓団等の計78戸が入植した。満州や樺太で開拓に命を懸けてきた人たちが、日本に帰ってきて再び開拓魂に火をつけた。
今まで未開の地であった、この原始林に鍬を入れたが、言語を絶する辛酸の日々であった。
人里離れた土地で、川内町から25㎞以上離れており、営林署の森林軌道しか道が無く、農産物の出荷や生活物資の運搬にも困難を極めた。
初めは雑穀、ジャガイモ等の生産が主で、一時は鶏卵の出荷も行われたが、道が悪く出荷がうまくいかなかった。
66年にようやく開拓道路が開通し、75㏊ほどの水田が造成された。また、大根の契約栽培や、肉用牛生産400頭など、軌道に乗ってきていた。
しかし、入植して20年ほどして、国が勧める経営適正化に伴う離農対策事業で、半分以上が離農してしまった。
さらに、71年より川内川上流ダム建設計画が持ち上がった。この地を流れる川内川は、度重なる集中豪雨などで毎年のように氾濫し、抜本的治水対策が求められていた。
ダムができれば、開拓地の多くがダム湖に沈むことになる。残っていた36戸は苦渋の選択をする。
81年7月15日に離村式が行われ、記念碑「留魂の碑」が建てられた。碑には「30年に亘る艱難(かんなん)辛苦(しんく)の血と汗の滲(にじ)む青山の地を、未来永劫に湖底に沈むるは真に忍びざるものあれど、川内町勢伸展の大義に涙を飲みて同意せるものなり」とある。
みんながこの地を離れようとも、36戸の開拓魂は留まっている。
川内ダムは、94年に完成した。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
野平(のだい) 02-208-1
①調査日 令和元年7月26日
②所在 むつ市川内町
緯度・経度:41.26785822176789,140.8530635968198
③地区の沿革 本州最北 下北の原始林に79戸が昭和24年に入植した。
④設置年月日 昭和56年
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 留魂の碑
竹内 俊書
吾等曽て満蒙の大陸に朔北の樺太に雄飛するも、敗戦の憂目に会い、再びに踏まずと誓いし故国の地に憔悴傷心を抱きて還る。本州最北、下北の深奥に往昔より斧鍬を知らざる原始林の地あり野平という。吾等この地を三度青山の地と定め鍬を入れし者左の如し。時正に昭和二十四年なり。元満蒙開拓青少年義労隊五戸 元満洲開拓団 山形団体六十一戸 元樺太開拓団十二戸 爾来昼尚暗き原始林開拓に言語を絶する辛酸の日々を刻み、耕地となりたる後も、朝に星を頂き夕に月を仰ぎて耕やす様は、野平小中学校の校歌に歴然たり。
入植二十年にして漸く生計の基礎成りたるも、折しも国の勧める経営適正化に伴う離農助成策に前途に光明を見ることなく、止むなく離農せる者四十二戸あり 寂として声なくこの地を去る。残れる三十六戸、変転する農政下に愈々志を固くし畜産に畑作に協業共同経営化を推進し、大いにその実を上げ将来を展望せんとする時たまたま川内ダム建設の議成り、朝野挙げてその完成を期きんとす。紆余曲折を経たるも、吾等野平住民は、三十年に亘る艱難辛苦の血と汗の滲む青山の地を、未来永劫に湖底に沈むるは真に忍びざるものあれど、川内町勢伸展の大義に涙を飲みて同意せるものなり。
今吾等それぞれに新天地を得て、野平開拓三十年の歴史を閉じるに当り、陰に陽に温情支援を賜わりし関係者各位に、万腔の感謝を捧げ今後にその恩義に報えんことを心に誓う。
いつの日か、満々と水を湛え、吾等開拓民の苦闘の跡を鎮める山上の湖畔に、往時を忍びよすがと、併せて野平に任せし三十六戸の開拓地を留めこの碑を建立する。 昭和五十六年 盛夏
⑦碑文(裏面) 入植者36名の氏名
協賛 川内町長 菊池十一 佐井村長 松谷清治
撰文 菊池十一 書 阿部勝馬
⑧現在の状況 下北 野平(のだい)高原に位置する開拓地で、近隣に野平高原キャンプ場などがあり、耕作地や営農集落も散見されるが開拓の面影は薄らいでいる。記念碑は道路脇の草地に花壇に囲まれ設置されていた。
青森県
「永遠之繁栄」 青森県平川市・善光寺平開拓
「永遠之繁栄」
青森県平川市・善光寺平開拓
青森県の中南部に位置し、秋田県と接する平川市は、2006年に南津軽郡の平賀町・尾上町・碇ヶ関村の3町村が合併して誕生した。旧・平賀町の善光寺(ぜんこうじ)平(たい)、大木(おおぼく)平(たい)などは戦後開拓地で、高原野菜の栽培が盛んに行われている。
戦後、農村の二・三男対策として、各地で分村入植が行われた。善光寺平には52(昭和27)年、同郡畑岡村(現・北津軽郡板柳町)から37戸が入植した。
八甲田山連峰の南西部に位置する標高約700㍍の高冷地で、大木や竹が生い茂る原野だった。立木の伐採、伐根などの作業は人力で行った。豪雪地帯で積雪期間が長く、営農はなかなか進まなかった。製炭や山仕事などで生計を維持した期間が長かった。入植者のうち24戸は、将来への不安や生活苦のため、次々と離農し、山を去った
善光寺平をはじめ、八甲田山周辺の高冷開拓地の営農不振が問題となっていた時、農林事務所等が中心となり、野菜の栽培が大々的に取り入れられた。善光寺平では、特に漬物用ダイコンに重点を置いた。やがて、大型トラクターの導入により農作業の省力化が進んだ。牧草畑と肉用牛を加味し、地力の減退を防ぐ堆肥づくりも行った。野菜栽培が本格的となり、規模拡大にも取り組み、営農は次第に安定した状態になっていった。
現在、善光寺平を中心に、八甲田山麓の高冷開拓地は高原野菜の一大産地となった。ダイコン、ニンジン、キャベツなどが栽培されている。
開拓地の入り口に生えている巨木のそばに、善光寺平開拓35周年記念碑がある。87年に入植者一同が建立したもので、碑銘は「永遠之繁栄」。
碑文には「希望と勇気をもて汗に汗し耐えに耐えて 基を築きし人々の徳が尊くしのばる その業績 その姿を永く後世に伝えんと朝夕ご恩を胸に記念碑を建立す」とあり、末尾に「祖を念(おも)い 祖の徳を修め 残りし我ら一徳一心善光寺平繁栄に鞭打つを誓う」と決意が刻まれている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
善光寺平開拓 「永遠之繁栄」 02-210-1
①調査日 2019年7月25日
②所在 平川市切明字津根川森
緯度・経度:40.5303464265253,140.8138703752458
③地区の沿革 農村の二・三男対策として、十和田八甲田山麓の大木や竹が生い茂る高冷地の原野に昭和27年37戸が入植した。立木の伐採、伐根などの作業は人力で行ったが、豪雪地帯で積雪期間が長く、営農はなかなか進まなかった。
④設置年月日 昭和62年7月7日
⑤設置者 入植者
⑥碑名 開拓記念碑
⑦碑文(表面) 永遠之繁栄 平賀町長 奈良辰雄 善光寺平開拓三十五周年記念碑
⑧碑文(裏面) 天道を歩まんと約してここ善光寺平に入植の第一歩を刻みしは昭和二十七年 以来幾多の苦難を乗り越えて今ここに三十五周年を迎う 感新たなるを覚ゆ 希望と勇気をもって汗に汗し耐えに耐えて基を築きし人々の徳が尊くしのばる その業績 その姿を永く幾世に伝えんと朝夕ご恩を胸に記念碑を建立す
時は戦後の大混乱期 旧畑岡村分村として三十七戸の入植 開拓に困難辛苦は覚悟なれども世は意のままならず離村者多数 現在十三戸の定着となる
豊沃の地となりしいま 高冷地野菜の生産を柱に生活の安定をみるは感慨深し祖を念い 祖の徳を修め 残りし我ら一德一心善光寺平繁栄に鞭打つを誓う
昭和六十二年七月七日 善光寺平記念碑建立実行委員会
⑨現在の状況 開拓地の入り口に立地し管理されている。
青森県
山田野
山田野 02-321-1
①調査日 令和元年7月24日
②所在 西津軽郡鯵ヶ沢町建石町
③地区の沿革 昭和20年10月山田野演習場跡地に元軍人、引揚者ら115戸が入植。入植地は和開など5つの集落からなる。平成14年に山田野分校は閉校した。
④設置年月日 平成14年1月12日
⑤設置者 鯵ヶ沢町長 長谷川 兼己
⑥碑文(表面) 拓魂 兼平勉書
⑦碑文(裏面) 制定 昭和五十四年四月一日 中央のペンに象徴される協力して生きる知恵の力、人間としての賢さ。それを包み込んで羽ばたく翼に象徴される豊かさとたくましさ。未来に向かってつよく生き続ける山田野の子らの姿を志向した。
平成十四年一月十二日
鯵ヶ沢町長 長谷川 兼己建立
⑧現在の状況 鳴沢小学校山田野分校跡地に立地しているが、一帯は夏草が生茂っていた。碑文裏から分校の閉校記念碑であるが、開拓地内に立地し碑文表「拓魂」から開拓記念碑として分類。青森県
「和開開拓二十周年記念碑」 青森県西津軽郡鰺ヶ沢町
「和開開拓二十周年記念碑」
青森県西津軽郡鰺ヶ沢町
青森県の西部に位置する西津軽郡鰺ヶ(あじが)沢町(さわまち)は南北に細長く、北は日本海に面し、南は白神山地で秋田県に接している。町の北東部の岩木山麓一帯には、明治時代、陸軍の大規模な「山田野演習場」が設けられた。終戦後、その跡地を中心に緊急開拓地として払い下げられ、開拓者が入植した。
広大な開拓地に7つの開拓農協が設立された(「戦後の開拓年表」青森県、1965年発刊)。45(昭和20)年から64年にかけて、復員軍人や引揚者、地元の二男・三男等300名余りが入植。だが、農耕地としては厳しい土地条件だった。入植者は試行錯誤を重ね、土地条件に合った作物を採り入れることにより、経営の安定化を図った。
現在、同町は5つの地区に分かれている。開拓地は鳴沢地区と中村地区にあり、5地区の中では田や畑、リンゴなどの果樹園の面積が広い。
鳴沢地区建石町の鳴沢小学校山田野分校跡地に、02年に設置された記念碑がある。碑文から同分校の閉校記念碑と分かる。入植者が多かった山田野開拓地内に立地し、碑銘は「拓魂」となっている。
中村地区長平町の「和開(わかい)婦人ホーム」の敷地には、二基の記念碑が並んで建っている(写真)。左は、70年に建立されたもので、碑銘は「和開開拓二十周年記念碑 婦人ホーム落成記念」。下部の銘板には、まず、「和開開拓農業協同組合」とあり、続いて、組合長以下17名の氏名が記されている。右は02年に建立されたもので、碑銘は「昭和二十七年四月入植 開拓五十周年記念碑」。裏面には、町内会長以下12名の氏名が刻まれている。
なお、婦人ホームは60年度から75年度にかけて、入植者の保健衛生、乳幼児の保育、営農及び生活改善等の勉強の場として、国や県の補助金により、各地に設けられた。和開婦人ホームは現在、地区内の集会所となっている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
「和開開拓二十周年記念碑」 02-321-2
①調査日 2019年7月24日
②所在 西津軽郡鯵ヶ沢町長平町
緯度・経度:40.7273163345203,140.272076296902
③地区の沿革 昭和27年に山田野演習場跡地が解放され、17名が入植した。
④設置年月日 (ア)昭和45年6月25日 (イ)平成14年11月吉日
⑤設置者 (ア)和開開拓農業協同組合 (イ)町内会
⑥碑名 (ア)和開開拓二十周年記念碑 (イ)開拓五十周年記念碑
⑦碑文(表面) (ア)和開開拓二十周年記念碑 婦人ホーム落成記念
(イ)昭和二十七年四月入植 開拓五十周年記念碑 平成十四年十一月吉日
⑧碑文(裏面) (ア)和開開拓農業協同組合 組合長以下17個人名 昭和四十五年六月廿五日
(イ)町内会長以下17個人名
⑨現在の状況 地区内の集会所(婦人ホーム)敷地内に立地し管理されている。
青森県
十三湖(1)
十三湖(1) 02-387-1
①調査日 令和元年7月24日
②所在 北津軽郡中泊町田茂木
③地区の沿革 昭和27年泥炭地に50名が入植した。
④設置年月日 昭和37年9月12日
⑤設置者 十三湖開拓農業協同組合
⑥碑文(表面) 十三湖 入植十周年記念
開拓魂 下山雅美書
⑦碑文(裏面) 天高く澄んだ八年続きの豊かな稔の秋、開拓十周年の記念式典を挙げる。吾人の胸中を去来するものは葦茅の繁茂する標高零の湿地帯十年の姿と大正年代に水田開発を企てた先人受難の歴史である。志ならず、先人も今はなし。以来星霜三十有余年、苦難の歳月は流れた時代の流れは国営干拓事業として今世の脚光をあびている。吾人五十名は苦難更に大きいこの泥炭地の開拓を志し選ばれて生涯をこの地に託す。働く喜びは生産者の生命である。吾人の労働がその生産を通して結実させるために土地利用の最高度を指標として幾多の苦難を排しつつ理想郷建設途上にあるのがこの開拓地の現状である。理想の丘への道は近いようで遥かに遠く吾人一代否永遠に続く人生行路とも思う。大自然の支配に悲喜交々の水田単作受身の農業の構造改善を画し、質的転換をはかり日本農業の真にあるべき姿をこの開拓地に創造具現したい。土地に生きる誠実真剣な開拓魂をこの機会に振り興して、各方面の適切なる指導育成を心から謝し更に願望し永遠にこの碑に蕪辞を託す。 謹言
昭和三十七年九月十二日
十三湖開拓農業協同組合 組合長理事 竹内正一 中里町役場 下山 正夫 書
⑧現在の状況 地区の中心部の広場に立地し管理されている。
青森県
十三湖(2)
青森県























