北海道・東北地方
岩手県
観武ケ原
観武ヶ原(みたけがはら) 03-201-1
①調査日 平成28年7月28日
②所在 盛岡市みたけ三丁目
③地区の沿革 岩手山からの火山灰に覆われた国有地350ヘクタールが解放され、引揚者、入植希望者等を中心に開拓団を組織して99戸が入植した。
④設置年月日 平成17年11月
⑤設置者 観武ヶ原開拓農業協同組合
⑥碑文(表面) 観武ヶ原開拓の碑
かつて、この地は観武ヶ原(みたけがはら)と呼ばれており、盛岡市の青山、月が丘、みたけ地区一帯約三百五十ヘクタールは、旧陸軍兵舎・練習場として使用されていた。終戦後の昭和二十年この地区を一大食料主産基地とする構想がたてられ、当時の引揚者や復員軍人、一般の入植希望者などを中心とした開拓団が作られた。昭和二十三年観武ヶ原開拓農業協同組合が認可され、本格的な開墾が始まり入植者数は九十九戸であった。この地は岩手山からの火山灰に覆われた荒野で開墾当初は電気も水道もなく、朝に星をいただき、夕べには月と共に働き、明日を夢見ての汗と涙の毎日であった。収穫らしい収穫があったのは開拓十年目位からであったろうか。昭和三十年代後半になり開拓の歴史は一大転換期を迎え、青山地区とみたけ地区の団地造成が始まり都市化の兆しが見られるようになったのである。更に昭和四十五年の岩手国体誘致による公共施設の建設が拍車をかけ、大きな変貌を遂げて一大団地として生まれ変わったのである。食料主産基地としての夢は消えたが、現在の都市化へと進展し、多くの人々の安住の地になったのも一つの歴史の流れであった。
平成十七年十月吉日 観武ヶ原開拓農業協同組合
⑦碑文(裏面) 不明
⑧現在の状況 地区内で周囲に植栽があり管理されている。岩手県
刈屋第一
岩手県
柴沢
柴沢(しばさわ) 03-201-3
①調査日 令和元年10月29日
②所在 盛岡市玉山下田柴沢
③地区の沿革 盛岡駅より北に15㎞の比較的平坦な地域。
④設置年月日 昭和62年9月23日
⑤設置者 柴沢部落後継者一同
⑥碑文(表面) 拓魂不滅 玉山村長 高橋求馬
⑦碑文(裏面) 入植者八十六名氏名 開拓四十年にあたり 上記の方々は昭和二十一、二十二年に開拓者として柴沢地区に入植し食糧難、貧困、不作など数々の困難をのりこえて今日の柴沢を築いてくれた人々です。先人の偉業をたたえ心から感謝の意を表わし、この石碑を建立するものである。
昭和六十二年九月二十三日 柴沢部落後継者一同
⑧現在の状況 周囲に水田が広がる地域の集会所内で管理されている。
岩手県
好摩沢開拓
岩手県
松島小出開拓
松島小出(まつしまこいで)開拓 03-201-5
①調査日 令和6年10月31日
②所在 岩手県盛岡市下田柴沢
緯度・経度:39.8412490509758,141.1393911139742
③地区の沿革 松島小出開拓は、昭和21年にJR渋民駅西方に2km、東北本線上に24戸が入植。かつては畑作・酪農が主体であったが、昭和35年に岩洞ダムが出来農業用水が十分に確保できたお陰からその殆どが水稲主体の経営に移行した。
④設置年月日 不明
⑤設置者 不明
⑥碑文(表面) 開拓十周年記念碑
國分 謙吉(当時の岩手県知事)
⑦碑文(裏面) 経年変化により解読不能
⑧現在の状況 現在は近隣の柴沢開拓と自治区を統合し、松島小出開拓の名称は消滅。柴沢開拓として主な活動をしている。
岩手県
区界
岩手県
岩手県花巻市・太田開拓
幾多の転機を乗り越えて
岩手県花巻市・太田開拓
岩手県花巻市の太田開拓は、県中央部の花巻市西部に位置し、奥羽山脈(真昼山地)の東麓にある。標高は140mほどと比較的低いが、冬の降雪量は2mに迫る。
1946年5月に開拓団が発足され、58戸が入植した。
この土地は、松の木とカヤの生えた原野で、木の根や石を一鍬一鍬掘り出し、手開墾を行った。しかし、土壌は強酸性で、豆科はほとんど収穫できず、ライ麦や菜種などを主に栽培した。県の助成でタンカルを撒いて何とか大豆・小豆も収穫できるようになった。
48年に太田開拓農事実行組合(後に、太田開拓農協、花巻市開拓酪農協、奥羽山麓酪農農協に変遷していく)が発足した。
53・54年の連年の冷害を契機に、草を主体とした酪農へと変換していった。酪農青年研究会が発足し、59年には当初の目標だった100頭を超え、この地方屈指の酪農郷に発展していった。
66年には湯田ダムが完成し、道路整備も行われ、待望の稲作が本格的に始まった。酪農家も稲作を考えるようになり、75年頃には酪農家が数戸に激減し、水田地帯に転じた。
しかし、間もなく米が生産過剰となり、減反が強いられ、畑作等に転作。中でもリンゴの栽培では大きな収益を得ることとなった。
76年に開拓30周年記念碑が建立された。この碑には、高村光太郎の『開拓に寄す』の一節が刻まれている。
かつて太田地区には、詩人で彫刻家の高村光太郎が疎開しており、開拓者との交流を深めていた。彼は開拓の過酷さを身近に感じており、開拓5年目に『開拓に寄す』という詩を贈っている。
幾多の転機を乗り越え、現在でも多くの開拓家族が暮らしており、太田地区振興会を通じて様々な地域活動を行っている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」
岩手県花巻市・太田開拓 03-205-1
①調査日 2020年6月17日
②所在 花巻市
緯度・経度:40.7273163345203,140.272076296902
③地区の沿革 56戸が入植した。
④設置年月日 昭和51年10月17日
⑤設置者 開拓30周年記念碑建立委員会
⑥碑名 開拓記念碑
⑦碑文(表面) 太田開拓三十年記念
入植以来三十年、今や土はみのり豊かとなり各々自営農家生長した。この機において多くの人々恩に感動し、かねて心の支えとなった。座右の銘、高村光太郎の誌の精神を忘れず永遠の繁栄をねがう。
昭和五十一年十月十七日
開拓三十周年記念碑建立委員会 委員長 平賀 登志実 開拓者個人名
開拓の精神を失ふ時、人類は腐り、開拓の精神を持つ時、人類は生きる。
精神の熟土に活を与へるもの、開拓の外にない。 高村光太郎
⑧碑文(裏面) 無し
⑨現在の状況 広い敷地内で管理されている。
岩手県
金矢
岩手県
八重畑
八重畑 03-205-3
①調査日 平成30年6月24日
②所在 花巻市石鳥谷町
③地区の沿革 八重畑開拓は、権現堂山(標高476.3m)山麓にある。国、県は農地解放に合わせ国有林、民有地開放と並行し、緊急開拓促進・食料増産事業を展開し、入植地の一つに花巻営林署管轄石鳥谷町権現堂山麓を指定。満州国やシベリアからの引き揚げ者が昭和21・22年にかけて18戸が入植した。
④設置年月日 平成21年2月
⑤設置者 入植者
⑥碑文(表面) 拓魂
北上山地から朝日が昇り一日の始まりを告げる。石鳥谷の東方、北上山地のなかに、ひときわ高くそびえる権現堂山(標高四百七十六.三メートル)。昭和二十年八月十五日、太平洋戦争が終結し、満州、ラバウルから引揚げて来た我等十八世帯は新たな生活の場として、また食料事情の打開のために昭和二十一年・昭和二十二年に権現堂山山麓への入植を実現した。
一坪でも多く畑にしたい、渾身の力をこめての人力での伐採開墾。汗の結晶の住宅新築。
電気の導入。集会所建設。七キロメートルの山道は悪路から開拓道路(現在の市道山屋線)の整備で通学、通院が改善される。そして何より子供達の素直な成長は、心の疲れを癒し、明日への力の源となった。ここに権現堂山開拓の業績を永く後世に伝えるべく入植六十年を振り返り、この碑を建立する。
平成二十一年二月七日 建立
⑦碑文(裏面) 協賛者名、実行委員名
⑧現在の状況 公民館敷地内で管理されている。
岩手県
大堰川
大堰川(おおいがわ) 03-206-1
①調査日 令和2年6月17日
②所在 北上市
③地区の沿革 大堰川開拓地に戦争罹災者、満州引揚者、地元次三男からなる73戸が入植。
飯豊小田開拓地と共に飯豊小田開拓農協を組織した。
④設置年月日 昭和49年9月14日
⑤設置者 飯豊開拓農業協同組合
青木 耕村
⑥碑文(表面) 拓魂
大東亜戦争終結をみるや国土の荒廃混迷の社会情勢、加えて食料事情の窮迫等々。社会不安は正にその極みに達した為に国は祖国再建と民生安定の基本である食糧増産を国策と第一義に掲げ緊急開拓事業を断行 依て当大堰川地区に戦争罹災者満州開拓引揚者及び地元次三男からなる七三戸入植、この間食料物資等の極度の窮乏に克く耐え只菅使命達成にむかって一五〇余町歩の開墾と営農確立に勤めた。
昭和二十三年六月組合設立以来組合員の努力ようやく茲結実し経営の安定生活向上も二十有余年を経て一応目的と役割を果たした。依て茲当組合の発展的解散をするものである。この時に当り我等に照覧を賜った吾等郷土に鎮座まします神の加護に深く感謝の念を捧げ社頭に狛犬一対奉納するとともに我等の血と汗に塗れた開拓の歴史を永遠に記念し茲拓魂の碑を建立する。
昭和四十九年九月十四日
飯豊開拓農業協同組合 青木 耕村
⑦碑文(裏面) 無し
⑧現在の状況 神社で管理されている。




















